市塵から現れ、身を起こし、20世紀を代表する女性に昇りつめたひと。見分ける目の鋭さと突き進むエネルギーがまばゆすぎ、巨大な成功と引き換えの闇はどこまでも暗く奥深い。ココ・シャネルは何を成し遂げたのか。生涯を画像とともに語っていきます。
ココ・シャネルがトップデザイナーとなるまで
ココ・シャネル(Coco Chanel 1883-1971)。本名はガブリエル・ボヌール・シャネル(Gabrielle Bonheur Chanel)。
父は行商人。旅の中、シャネルの母と出会い、5人の子をもうけたが二人は結婚はしていない。苦労続きの母は32歳で結核で世を去った。父は男の子を農家に養子に出し、女の子は親戚と孤児院に預け、その後行方はわからない。シャネルが生涯隠しつづけた秘密。
孤児となったシャネルが修道院で繰り返し繰り返し、願い続けたこと。念じ続けたこと。自由になりたい。誰からも顧みられなかった生い立ちは、「私は違う」「私は違う」との強烈な、あまりにも強烈な自我を育てた。
孤児院と修道院を出て下着衣料店で働き、副業!?でミュージックホールの歌手を目指した。主演の歌手のバックでエキストラとしてポーズを取って後ろに控え、本命の歌が終わった後順番に歌を歌う。
当時パリで流行っていたシャンソン「ココリコ(コケコッコー)」を、「トロカデロでココを見たのは誰?」(歌詞は 「私は可哀想なココを、大好きな犬のココを見失ってしまった、トロカデロで。後悔してもしきれない、男に裏切られるよりもずっと辛い…」)を歌い、いつしか「ココ」はガブリエル・ボヌール・シャネルの愛称になった。
町には騎兵隊が駐屯していて、ココは20才で店の常連で歩兵連隊の士官、エティエンヌ・バルサンの愛人となり、バルサンは遺産相続でパリ郊外に広大な邸宅を手に入れ、ココはついていく。
1909年、バルサンの援助で帽子店を出した(従業員6人)のが「シャネル」のはじまり。 1910年に店はパリの中心部に店を移し、1913年にはセレブの集まるリゾート地・ドーヴィルに2号店を出し(続く愛人アーサー・カペルの出資)、店は暇をもてあました金持ちでにぎわい、ロスチャイルド公爵夫人とそのサークルがシャネルの店にやってきた。1915年には3号店を出店。翌1916年のコレクションが大当たり。この時、従業員は300人。順調な女性実業家ぶり。
シャネルのファッションのアイディア、のち定番。
シャネルは、今の言葉でいけばとてもクールでアバンギャルド。当時の一般的な服の常識をことごとくくつがえした。新しかった。使用前・使用後がハッキリわかる。対照的。
ジャージー素材のドレス
第一次世界大戦前の絹のファッションに代わり、簡素で機能的でモダンな毛織物のファッションが登場した。
女を窮屈なコルセット(クジラの骨で胴体を締め上げる)から解き放った。 シンプルなデザインで誰が着てもよく似合う。何よりジャージーは伸縮する素材。動きやすい・着ていて楽。今までに見たこともない服!しかも流行の最先端を行ける!女のニーズにピタリはまった軽快で若々しいシルエットの服は過去のぜいたくなドレスを古めかしく見せた。
体を締め付けなかった。ウエストまわりがゆったりしていた。苦しくなかった。腕を自由に動かせた。早く歩けた。動きやすかった。我慢したり、無理したりしなくていい。女性が自分のために、自由に生きるための後押しをしてくれるのがシャネルのドレス。
横乗りではなく、またがって乗るための乗馬ズボンを作った。ホワイトシャツを着てネクタイを締めた。シンプルな上着を着て小さな帽子をかぶった。
シャネルが自身で身につけたこれらの服はたちまち評判となり、
ことに大きなダチョウの羽や重くかさばるったフリルのないお手製の帽子は、そのシンプルさゆえに新鮮であり、洗練として認められた。お店を出し、実業家として成功を収める。
第一次世界大戦が始まっていた。男は戦争に出ていった。女も外に出なければいけない。物資が不足していた。長く男性用の下着の材料にすぎず、今まで誰も見向きもしなかった素材をファッショナブルに洗練させた。社会の動きを捉え、シンプルで着ていて楽で実用的、スポーティなドレスを作った。女性の内なる秘めた願望を形にしたのがシャネルのジャージー素材のドレス。体を解放し、サイズを問わず身につけることのできる新たなシルエット。
パリ郊外のバルサンの邸宅に住み、乗馬に熱中していた頃の、馬の調教師の着ていた服にヒントを得たとされている。「ジャージーの独裁者」(シャネルのこと)ははじめはウールジャージーを、続いてシルクジャージーを使った。
それまでは豊満な女性が美しいとされていたが、「ココ・シャネルのようにスリムに」と美の基準が切り替わった。
ポール・ポワレはシャネルが女性を「栄養不足の小さな電信柱」に変えたと非難し、
シャネルは「奴隷が自分たちのハーレムから脱出しただけ」と反論。
ジャージーのドレスはアメリカのファッション雑誌「ハーパース・バザー」を飾り、シャネルは世界規模での有名新進デザイナーの地位を確立し、名声と手に入れた富にものを言わせ、パリの社交界にに進出していく。
脚の見える膝下丈のスカート
19世紀までは裾の長い、裾を引く長さのドレスが主流。20世紀に入り、スカート丈はじりじり上がっていく。靴の見える長さに、脚が見える長さに、膝が見える長さに、太ももを見せる長さに…。の前半、脚の見える長さまでを引っ張ったのがシャネルのモード。
理由はもちろん、スカートは短い方が機能的だから。それまで、デザイナーは暇な女、侍女に靴下をはかせてもらうような女たちのために服を作ってきた。シャネルは外に出ていく女、活動する女のための服を作った。革新性を持って、時代のトレンドを自ら作り続けた。
もっとも、1960年代、マリー・クワントがミニ・スカートを世に広めたとき、
膝は関節。見せるものではない。
とかつてのアバンギャルドでカリスマのシャネルが打って変わって保守派に回ったりして。時代・世代は常に動いていく。
黒は喪服の色からシックな色に。モードな色に。
農家の女性の服装からヒントを得た。ペザントルックのはしりですね。そして黒1色のシンプルなドレスを発表したら、世界中が驚愕した。っていうのです。…なぜ黒のドレスで驚くのだ、と現代の我々は素朴に疑問に思う。
そして「○○はこうあるべき」の知らず知らずのうちに刷り込まれた価値観がいかに強固だったかに思いをはせ、また従来の観念を打ち破り切り拓き、新たな価値を提供し、人々を牽引する。
黒が一番目立つ色なのよ。
との名言とともにシャネルの力業の凄さが浮かび上がる。
最上の素材(表地・裏地)を使い、動きやすい仕立てと黒は汚れが目立たないとの機能性。アクセサリーで表情が変わる。仕事場でもナイトシーンでも着られて、ステイタスのある服を求めた行動する女性のための服、とのコンセプトがまたここに。
女優も社交界の女性もメイドも争って黒を着るようになった。シャネルの黒一色のドレス(リトル・ブラック・ドレス)を「エル」誌は
この1着だけでシャネルの名は不滅だ
とたたえ、アメリカ版「ヴォーグ」誌は
シャネル・フォード
(フォードは当時アメリカで超大量生産されていた車)
と呼んだ。
シャネル・スーツ
女の背広を作ったのです。女性が外に出ていける服を作った。シャネルの前のドレスはワンピースタイプ。トップとボトムを一緒に着る。を男性のジャケットとズボンに同じ、上着とスカートの2ピースに。白いブラウスの襟元にはサテンの黒いリボン、上着の袖にはブラウスの生地と同じカフスが別仕立てでつけられ、胸元に白いカメリア。巻きスカートの両側に隠しポケット。1925年に発表され、生涯、もちろん絶えざる変革を重ねながら同じスーツをつくり続け、変わらなさにより時代を超えたスタンダードになった。シンプル(すなわちエレガント)でスポーティで、いつでもどこへでも着ていける不変のスタイル。昼食にも夜会にも通用する魔法のスーツ。
アメリカ大統領ジョン・F・ケネディがダラスで暗殺された時、夫人、ジャクリーン・ケネディが着ていたピンクのスーツは、シャネル。
世界中の人が夫が目の前で撃たれ、呆然としているジャッキーと血塗られたシャネルのスーツを見た。カトリーヌ・ドヌーブ、ジャンヌ・モロー、ロミー・シュナイダー。時の美のアイコンも公私にわたってシャネル・スーツをご愛用、とのパブリシティも効果満点。
アクセサリーの考案者
宝石を身に着ける。宝石は貴重かつ高価。つまり昔の絵画とかでネックレスやイヤリングを身に着けた貴婦人にとって、宝石は威光と地位と富の印。
ところがシャネルは、イミテーションの宝石を考案した。
自分の作品にしばしばついてまわった「貧乏くさい」の批判に対して半貴石、ラインストーン、フェイクパールを組み合わせたジュエリー、 「マルタの十字架」のモチーフやビザンチン様式を取り入れたブローチやブレスレットを発表。
これ見よがしに!?本物の宝石とイミテーションの宝石を一緒に身に着けた。シャネルのパールのロングネックレスを何連にもジャラジャラを飾りまくる伝説の写真は有名ですね。とっても前衛的で挑戦的。鋼の意志・不屈の意思と無限のオーラがビシバシ伝わってくる。
「宝石を着ける(=自分が有閑階級・上流階級であることを誇示する)」のではなく「宝石はアクセサリー。女を飾るためのもの。」イミテーションジュエリーを世に知らしめ、定着させたのもシャネル。
ショルダーバックもシャネル発
1930年代にチェーンベルトのショルダーバッグ(マトラッセ)を考案したのもシャネル。彼女がいた時代、女性が持つバッグは、「ハンド」バッグ、手で持つクラッチタイプのものだった。
バックを手に抱えていると、なくさないかと気になるし邪魔。そこで鎖をつけ肩にかけ、両手をあけて使えるようにした。ハンドバッグを手で持つ習慣から離れられない女性のためには、鎖を短くできるようにした。
軽くするためバッグは薄い子羊の革を選んでいる。しかし、子羊の革は傷つきやすく伸びやすい。そこでキルティングして強度を高め、傷を目立ちづらくした。
中にはリップスティックやコンパクトを入れる仕切りつき。みんな機能性を高める目的があり、それがシャネル・スタイルとして認められた。
口紅をリップスティックにしたのもシャネル
もともと口紅はポット型の容器に入っていた。携帯できる口紅として始めのころのシャネルの口紅はチューブ式。改良を重ね、繰り出し式の、唇に直接塗れて口角が取れ、手や指を汚さずに素早く口紅の塗れるるリップスティックとなった。
どこまでも機能的であり、実用的。絶大な支持を受け、世に広まったのも当然すぎるほどに当然。
そのほか
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パンツルック
1924年、ボタンをはずして前をあけたスカートの下からクレープのパンタレット(膝までのズボン)が見えるファッションを発表。
- ツイード
当時の恋人、ウエストミンスター公爵のジャケットとズボンを借りたシャネルは、その着心地と質の良さに驚き、1928年に発表されたカーディガンスタイルのスーツにはスコットランドで織られた特注のツイードが使われた。ツイードはシャネルの定番となっていく。
- イギリス風
正統派のメンズファッションのエッセンスを取り入れた。ストライプ、金ボタンの上着、目深にかぶった帽子、男性的なカットの上着や太い縞のブラウス、スポーツ用のコートなど。
- マリンルック
水兵服、水夫の手編みセーター。
- スポーツウェア
女性のためのスポーツウェアを作り、自分も男性と一緒にゴルフを楽しみ、ハンティングにも興じた。水着も発表している。世界で初めて日焼け止めを考案。
- 日焼けした肌。
ブロンズ色の肌はバカンスを楽しめる階級であるしるし。白い肌は貧しさの象徴に変わった。
- バイカラー(2色)シューズ
つま先が黒、他がベージュの靴。つま先は傷つきやすい。ここが黒だと傷も目立たず大いに助かる。それに足を小さく見せる効果もある。
あれもこれもそれもどれも、みーんな、シャネルがはじまり。
そしてどこまでもユニーク、自分の服が真似されても、気にしない。町にはシャネル・スーツのコピーがあふれる。気にしない。
モードは死ななければならない。
それもできるだけ早く死ぬに越したことはない。
そうでなければビジネスにならない。
本質的にうつろいやすく、死に絶えやすいものを、どうやって守ろうというのか。
の名言も、有名。正真正銘、ココ・シャネルのシャネル・スーツが欲しいなら、客は糸目をつけずにパリのシャネルの本店にやってくる。それで十分、商売は成り立つではないか。
シャネルの香水(シャネルの5番)
シャネルの香水にまつわるエピソードは、知れば知るほど、ココ・シャネルの商売人としての目利きの鋭さと獰猛さが伝わり、香りをかぐ前にぐったりしてしまいそう。
シャネルの5番の誕生秘話
説明不要かもしれませんが、いちおう。
天才調香師のエルネスト・ボーに、香りの開発を依頼した。 ジャスミン、ローズ、ネロリ、レモン、ベルガモット、ミュゲ、クチナシ、スズラン、イランイラン、ベチバー、バニラ、ローズウッド、ローズマリー、サンダルウッド、シダーウッド、オークモス、ニオイイリスの根、発情期にあるジャコウ猫とジャコウ鹿の分泌物、竜涎香など、80種類の香りの原料。
またしてもタブーを破り、それまでは人工の化合物として敬遠されてきたアルデヒドを大胆に使い、産みだされたそれまでになかった香り。
シャネルの5番はどんな香り?
ひとことで言えば、「おかあさんの化粧品の香り」「おばあちゃんの化粧品の香り」「強い強い石けんの香り」。
良い香りなんですよ。濃厚なフローラル。
そして良くも悪くも古典。クラシック。作られた当時は斬新でも、今は時代もカジュアルだし、ライトな使用感がトレンドなので、「今隣に女性がいる」とはっきりわかりすぎるシャネルの5番ははっきり言って敬遠する声も多い。
乾燥したフランスで使うのと湿気の多い日本で使うのとでは香り立ちももちろん違うはずだし、晩餐会やレセプションにふさわしい香りとオフィスで支持される香りは違うはず。
こちらも有名すぎるマリリン・モンローの
「あなたは夜、何を着けて寝ますか?」
「シャネルの5番を5滴。」
「何も身に着けないんですか?」
「音楽は、着けているわ…」
、、、5滴もシャネルの香水(トワレにあらず)たらして眠ったら、カリフォルニアならともかく。私なら、日本では香りにむせ返り、眠れなくなってしまうかも~。
もちろん本家本元シャネル社はそんなことは百も承知。古典に敬意を表し、受け継ぎながらも現代風にアレンジした香水を次々発表している。
香水で世界一の金持ちの女性となったシャネル
シャネルの5番を片手に、シャネルはやおら「香水を付けない女は女じゃない」との名言!?を頻発。猛烈なプロモーションをしかける。
香水は、儲かるのです。利幅が大きい。オートクチュールには手が届かなくても香水なら手が届く。大量に作れる。持ち運びが容易。保存がきく。小分けにできる。ブティック以外の売店でも売れる。現に第二次世界大戦後、恋人へ妻へ娘への土産にとアメリカ兵がシャネルの5番を争って買った。
いったんは自分のプロモーションには限界があると別会社にシャネルの5番の権利を譲り渡したシャネル。
アメリカでシャネルの5番は売れに売れ、その利益でシャネルは若き芸術家のパトロンとなり、第二次世界大戦から15年あまりの隠遁生活を支えた。しかしまだ足りないんですね。
譲り渡した香水に「本来は自分のものなんだから」と牙をむく。「あっちの会社のシャネルの5番は品質がなってない」「こっちが正当」と事ある毎に騒ぎ続ける。相手も「シャネル」の名前の使えるビジネスを続けることを選んだ。
1947年、シャネルは戦時中のシャネルの5番の利益分40万ドルを受け取り、今後のシャネルの5番の売上の2パーセントを受け取ることで決着。
彼女への金銭給付は莫大なもので、1年につき2,500万ドル近くに上り、シャネルを世界で最も裕福な女性に押し上げた(Wikipedia)
そして相手方のピエール・ヴェルテメールも、損はしていない。後にシャネルはカムバックし、コレクションを発表するが酷評され、資金は尽きた。
シャネルはヴェルテメールに援助を乞い、ヴェルテメールは今後の経費と生活費を支払うことと引き換えに、シャネル社の全ビジネスを掌握した。シャネル社はココの死後(実は生きている時から)ヴェルテメール家が経営した。
シャネルの生涯を彩った男性たちとシンボリックな出来事
「自分を世間に認めさせる」「人の注目を集める特別な存在になる」「誰のものでもなく自由に、お金に不自由しない贅沢な暮らしをしたい」が孤児院にいた頃のシャネルの願い。みんな、叶いましたね。
人柄は、誰も良く言わない(笑)自分でも性格悪いって言ってる(また笑)。しかし男性遍歴は超有名です。順番に。
- エティエンヌ・バルサン
シャネルが田舎のミュージックホールで歌手をしていた時知り合った将校さん。シャネルはバルサンの愛人になり、パリに出てきた。最初の帽子店に資金提供した。本人はいいトコのおぼっちゃまで、伝わるエピソードもおっとりしている。遺残相続して広大な邸宅を手に入れ、趣味は競走馬を育てること。
- アーサー・エドワード・"ボーイ"・カペル
シャネルが最も愛した男性はこの人。この人もいいトコのお坊ちゃまですが、シャネルと同じ私生児で、苦労人。裸一貫から事業を成功させた青年実業家で、仕事に生きる価値観もシャネルと同じ。カペルの援助でシャネルは2号店・3号店を出店し、シャネルは世界有数の実業家になった。
君におもちゃを与えたつもりだったのに、どうやら自由を与えてしまったらしい
の言葉も有名。 貴族の令嬢と結婚するものの、二人の仲は続いた。そしてあっけなく自動車事故で死去。
シャネルは自分の資金で店を経営し、借金を返済し、別荘を買い、自分の金で好きなように生きる大実業家となった。 そして芸術家のパトロンとなり、惜しげなく若い芸術家に資金を提供し続けた。
- ドミトリー・パヴロヴィチ大公
ロシアのロマノフ王朝、アレキサンドル2世の孫。最後のロシア皇帝ニコライ2世の従弟。怪僧ラスプーチンをユスポフ公爵とともに暗殺し、追放され、革命になるとヨーロッパに亡命。
シャネルは大公を自分の別荘に引き取り、シャネルは大公を若き愛人とした。亡命ロシア人との交流はシャネルのデザインにもロシア風の凝った刺繍、裏地に毛皮を使ったコートなどの影響を与え、シャネルの5番を調香した天才エルネスト・ボーは大公がシャネルに紹介した。
- セルゲイ・ディアギレフ
昔興行師、今なら総合芸術プロデューサー。1910~20年代の伝説の「バレエ・リュス」の創設者。女性より男性が好き、って方なので、恋人ではない。 パリでミシア・セールの開いた芸術サロンにシャネルは参加し、文化人と交流するようになる。シャネルの店はますます大きくなりその利益をふんだんんにつぎ込める。1920年代は働く女が力をつける。
ディアギレフ「公爵夫人の家に行って75,000フラン借りてきた」
シャネル 「私はフランスの一介のデザイナーにすぎないの。で、ここに200,000フランあるわ」
自分が資金を出したことはだれにもいわないでほしい、とシャネルは小切手を置いていった。 シャネルがスポンサーとなり、かつてニジンスキーが振付けた「春の祭典」をレオニード・マシーンの新しい振り付けで再演。大成功を収めた。
ヴェネツィアで死去。葬儀はシャネルが取り仕切った。
- イーゴリ・ストラヴィンスキー
ロシア出身の近現代音楽の巨匠。「火の鳥」「ペトルーシュカ」「春の祭典」。ロシア革命により亡命し、妻と4人の子どもとともに一時シャネルの別荘に滞在し、二人は不倫関係にあった。
もっともストラヴィンスキーもシャネルと付き合いながらもレビューの踊り子のカチンカにほれ込んだり、後に二度目の妻となるヴェーラ・スデイキナ(ロシアの画家スデイキンの妻)とも親密だった。大人の火遊びってところでしょうか。
- ジャン・コクトー
この方も男性が好きなので、恋人ではない。偉人にふさわしく、肩書が詩人・小説家・劇作家・評論家・画家・映画監督・脚本家と幅広い。
シャネルのサロンの常連で、シャネルは支援を続け、コクトーの舞台に衣装を提供した。 20年代ほどに緊密ではなかったが、30年代になっても、面倒を時々みていた。
- レイモン・ラディゲ
「肉体の悪魔」で知られる20才で亡くなった(死因:腸チフス)早熟の天才。夭折の天才。
コクトーとセットで、そしてコクトーはラディゲにぞっこんでしたから恋人ではない。しかしシャネルはこの青年を庇護し、 突然の死に呆然自失のコクトーを脇目に見ながら、葬儀はシャネルが取り仕切った。
- パプロ・ピカソ
20世紀最大の画家のひとり。恋人ではない。しかし同時代に上り詰め、頂点に立ったのはほぼ同じ時期。交流はあった。
- ウエストミンスター公爵
イギリス国王ジョージ5世の従弟。世界で最も裕福な男性の一人であり、正真正銘の貴族。
シャネルは、公爵が今まであった女たちとことごとく違っていた。はっきりと自分の意志を持ち、仕事と自由を持ち、いきいきと行動する。公爵の求愛をシャネルは受け入れた。真の貴族との生活はシャネルのデザインにもおおいに影響を与え、ツイード、マリンルックなど、不変のスタンダードとなる。
しかし結局、公爵は貴族の娘と結婚する。
ウエストミンスター公爵夫人はもう3人もいるが、
ココ・シャネルは一人しかいない。
の名言もまた、有名。
- ピエール・ルヴェルディ
シュールレアリスムの詩人。この人はシャネルの恋人。しかしエピソードが少ない…。
もともとシャネルは、無口で控えめな性格だった。しかしシャネルがずばずば物を言い、人から恐れられる毒舌家に変わっていったのは、ルヴェルディと別れたころから。
このころ、大恐慌の波がパリにも押し寄せ、シャネルは心機一転、ハリウッドに渡る。しかしシンプル=エレガンスの一見無造作にも見えるシャネルの衣装は、当時の人工的なハリウッド映画には向かない。画像見ても伝わってきますよね。一見して周囲に華をふりまくタイプの服ではない。周到に計算された無造作が粋の極致。がスクリーン上では映えない。
早々にパリに戻ることとなる。
- ポール・イリブ
人気イラストレーター、挿絵画家。宝石やアクセサリーのお店を出したり、インテリアデザインを手掛けたり。マルチな才能を持っているものの少々左寄りで女好きで派手…。とシャネルの取巻きはいい顔をしなかった。二人は結婚を考えていた。しかし、シャネルの目の前で、心臓麻痺であっけなく、この世を去った。
このころ、パリのモード界には新星、エルザ・スキャパレリが現れ、シャネルは露骨に対抗意識を燃やす。不穏な時代もあり、シャネルは予告なしに4,000人の従業員を解雇し、店を閉めた。 (このあたりが冷酷な性格とよばれるゆえん)
- ヴァルター・シェレンベルク親衛隊少将(ドイツの国家保安本部SD局長)
- ハンス・ギュンター・フォン・ディンクラーゲ男爵(ドイツ軍の情報将校)
第二次世界大戦中、シャネルはナチス・ドイツに協力し、自らもコードネームを持ち、スパイ活動をしていた。近年明らかになり、孤児院で育った過去と同じく、シャネルにとっては触れられたくなかったでしょう(当たり前か)。決して自分では言及しない。
この2人と愛人関係にあったとされている。しかし、シャネル、戦争終結の時、62才なのです。スパイ活動ならまだしも。愛人と言われても、いま一つピンとこないのですが。でも、シャネルなら。きっと。命の最後を燃やす恋だったのだろうと思いたい。
戦争が終われば対独協力は許される所業ではない。スイスに亡命(実際は亡命ですが表立っては移住)し、時機を伺う。
- ウィンストン・チャーチル
もちろん恋人ではありません。フランスの国民感情として、対独協力は絶対に許されない。見せしめとして殺されたり、追放されたり、髪の毛を丸刈りにされて町中を引き回されたりした人はいくらでもいた。
しかしチャーチルは「彼女の恋人はドイツ人だったが、彼女は彼に情報を与えなかった。彼のことを回りの誰にも話さなかった。とがめだてには及ぶまい。」とシャネルをかばった。…シャネルくらいになると、こんなんで済んでしまうんでしょうか。
なんか腑に落ちない。不公平だ。
そして70才を過ぎ、シャネルは再びモードの世界に戻り、不屈の意思でカムバックを遂げる。
- ピエール・ヴェルタイマー
シャネルの香水、5番、22番をはじめとする香水事業を実際に行っていたのはこちらの実業家。シャネルはどうみてもあざとい手口でヴェルタイマーから香水の販売権をもぎとろうとしたが果たせず。ヴェルタイマーは私情は交えず、シャネルの価値は理解しており、シャネルのカムバックのスポンサーとなった。死後はヴェルタイマー家がシャネル社を承継した。 シャネル社オーナー。
シャネルは死ぬまでパリの超高級5つ星ホテル、ホテルリッツに滞在し、贅沢な生活を謳歌した。対独協力者の過去を金に物を言わせて潰し続けた。きなくささは常にあたりにつきまとい、好きになれない、と本能的に感じ取る人も多い。
死の前日まで、勤勉に、壮絶に働き続けたことも、付け加えておきましょう。終生独身で、ココのほかにもう1つ、敬称は「マドモアゼル」。享年87才。
■よろしければこちらも是非。