ケーリー・グラント(Cary Grant 1904-1986)。
正統派英国紳士風・都会派。洗練された甘い二枚目スター。シリアスもできればコメディもできる。ダンディで大人の男の色気と余裕で魅せる。あまたの有名監督に愛された自然体の演技。共演女優を美しく輝かせることにおいては追随する者なしと言われ、50年に渡るキャリアを危なげなく乗り切った。年代順に、共演した女優さんとともに、ダンディ&スタイリッシュな映画の紹介を。
キャロル・ロンバード(Carole Lombard 1908–1942)
デビューして間もなく人気女優の相手役に抜擢される。
キャロル・ロンバードはクラーク・ゲーブルの恋女房として有名。ブロンド美人で、勝ち気でありながら知的で匂い立つエレガンス。会社はセックスシンボルとして売り出したいのに、撮影でパイ投げしてる方が楽しいという天真爛漫ぶり。本人もドタバタ映画を楽しんじゃうクチで、のし上がりたい、何が何でもスターになりたいなどのギラギラしたところがまるで無し。
しかし徐々に人気は上がり、1930年代のハリウッドを代表する美人スターの一人だった。
第二次世界大戦時、軍事公債のキャンペーン中、乗った飛行機が墜落、わずか33才での無残な死。
ケイリー・グラントとのはデビューしたての新人。キャロル・ロンバートもケーリー・グラントと共演したころはフレッシュな新人スター。
そしてケーリー・グラントは、円熟期から晩年にかけては渋くて都会的センスあふれる二枚目スターとして君臨しましたが、デビューしたてのころは陽気でハンサムな肉体派の好青年。後の大スター二人の若き日の溌剌とした姿が楽しめるのです。
共演作:
「明日は晴れ Sinners in the Sun」1932
「鷲と鷹 The Eagle and the Hawk」1933
「In Name Only」1939
ケイ・フランシス(Kay Francis 1905-1968)
ケイ・フランシスも1930年代の大スター。それもブルネット。ニューヨークの摩天楼の夜の狂騒と饗宴、きらめくシャンパングラスの輝きと重なり合う音が似合う、デカダンスを漂わせる都会の貴婦人役で一世を風靡しました。ケイ・フランシスの映画は、セットも、家具装飾もみんな豪華でハイセンスで、女の子はみんなウットリと見とれていたのだとか。
共演作:「In Name Only」1939
マレーネ・ディートリヒ(Marlene Dietrich 1901-1992)
永遠の美のアイコン、「百万ドルの脚線美」として知られる大スター、ディートリッヒ。共演作は「ブロンド・ヴィナス Blonde Venus」(1932)。クレジットは3番目。ディートリッヒを慕うお金持ちのお坊ちゃま役。初期の屈託のないケーリー・グラントの個性にとても良くマッチ。
マレーネ・ディートリッヒは代表作でもある「嘆きの天使 Der Blaue Engel」(1940)「モロッコ Morocco」(1930)を送り出した絶頂期。
1930年代のハリウッドは大女優が相手役を選び、男役ははるか格下。見いだされ、可愛がられることにより!?自らの俳優としての格と位置を上げていった…男優スターは、今よりずっと多かった。
この初期の頃のケーリー・グラントについては淀川長治氏がこんな印象を書いている。
「ディートリッヒの『ブロンド・ヴィナス』を見ていたとき、画面の中を右に行ったり左に行ったりしているだけのケーリー・グラントという新人にあきれはてた。
この下手クソ。この新人がメイ・ウエストの「私は別よ」、続いて「妾は天使じゃない」に相手役として使われていた。ディートリッヒやメイ・ウエストともなるとときに相手役は”邪魔にならぬ男””お稚児さんのごとき小僧””とにかく主演女優だけの映画”の下手くそな、そのくせ感じの悪くない、そんな共演男優。
これがイギリス生まれのケーリー・グラントの与えられたパートであったように見えた」
ともあれ、ディートリッヒの相手役を演じたことで注目を集めるようになった。
ナンシー・キャロル(Nancy Carroll 1903-1965)
ナンシー・キャロルはブロードウェイのミュージカル出身で、サイレントからトーキーに移り変わる時代に映画入りし、歌って踊れる愛くるしいキャラクターでまたたく間に人気者になった女優さん。
「7月の肌着 Hot Saturday」(1932)も今の少女マンガそっくりの設定。銀行に勤める女の子が別荘持ちのお金持ちの男性(ケーリー・グラント)に見初められて、しかし本人てんで自覚なし。横恋慕する男の子に悪い噂をかきたてられて、お勤め先も辞めるハメに。どうしよう…。
すったもんだの騒動の後、もちろん恋する2人はハッピーエンド!
シルヴィア・シドニー(Sylvia Sidney 1910-1999)
絶頂期は1930年代の後半。ケーリー・グラントとの共演は1930年代の前半。映画は「お蝶夫人 Madame Butterfly」(1932)。つまり日本人役も演じている。ハリウッドが選んだ蝶々さん。ケーリー・グラントがピンカートン。
映画界にデビューしたのが大恐慌の直後。当時のアメリカの不安な世相を映し出すかのようにはかなげでいじらしい。
小柄で、可憐で、かわいそうなヒロインに次々不幸が重なっても、耐え忍び、愛する男を迎える時には瞳をふるわせ潤ませ、全身で喜びを表現する…ような役があたり役で、となると相手方は当時のケーリー・グラントよりは、陰りのあるヘンリー・フォンダあたりとの共演が代表作になります。晩年まで映画出演は続いた。
他共演作:「三日姫君 Thirty Day Princess」(1934)
メイ・ウエスト(Mae West 1893-1980)
すごい貫禄の大年増…。1930年代に突如現れた名物女優。メイ・ウエスト。
ボードヴィルあがりの苦労人で、キャリアは長い。主演もすれば脚本も書ける才女。あいまい宿の女主人風のキャラクターで、きわどいせりふ。コメディとも風刺劇とも取れる楽しいストーリー運び。疲れた男性陣を癒やし寛がせ喜ばせる。脇役で1本映画に出た後認められ、初主演作に選ばれた相手役がケーリー・グラント!(マッチョなスポーツマンタイプがメイ・ウエストの好みのタイプだったのこと)しかもたて続けに2作!
映画は大ヒットし、メイ・ウエストはアメリカではセックスシンボルと呼ばれ、アメリカで一番稼ぐ女性に選ばれたこともある。
メイ・ウエストの相手役を2度あいつとめたことで、ケーリー・グラントは二枚目スターとしての地位を確立。
共演作:
「私は別よ She Done Him Wrong」(1933)
「妾は天使じゃない I'm No Angel」(1933)
【コラム①】イケメンの大根から成熟した大人の紳士へ
ハリウッド映画では喜怒哀楽、喜びと苦悩がはっきりした演技が俳優に求められがち。小さな表情の演技ははなかなか認められない。ケーリー・グラントはほとんど演技らしい演技をしない。「断崖」(1941)、「汚名」(1946)、「泥棒成金」(1955)、「北北西に進路を取れ」(1959)と4本の映画で一緒に仕事をしたアルフレッド・ヒッチコック監督は 「ケーリー・グラントに演技を付けることはできない。監督にできることはただ彼をカメラの前に置くことだけだ」と言ったという。
この自然体こそがケーリー・グラントの独壇場。何気ない動き。向こうに構えた演技をしない。本当にちょっとした、演技とも言えないような演技。
有名なのは「北北西に進路をとれ」のトウモロコシ畑の場面。
アメリカ中西部特有の人っ子一人いない広大なトウモロコシ畑の中の一本道でケーリー・グラントが約束の男を待っている。 見渡すかぎり誰もいない。突如、遠くの畑でDDTをまいていた飛行機が彼に近づいてくる。
はじめその目的がわからない。 しかしすぐに飛行機が自分を殺そうとしてるのを知る。「なぜ、俺が?」とここでケーリー・グラントは独特の「サプライズ・ルック」を見せる。
「フィラデルフィア物語」ではがむしゃらなキャサリン・ヘップバーンに喰われ、「毒薬と老嬢」では老嬢に喰われ、「気まぐれ天使」ではデヴィット・ニーヴンに喰われ、「泥棒成金」ではクール・ビューティーのグレース・ケリーに喰われ、「誇りと情熱」ではフランク・シナトラの傷痕のある顔に喰われ…とケーリー・グラントは相手役に喰われっぱなし。
ひと頃のケーリー・グラントには「とてもハンサム・とてもイケメン・とても美ボディだが大根」の定評があったことは事実であり、同時代のゲーリー・クーパー(Gary Cooper 1901-1961)は二度もアカデミー賞を受賞している。クラーク・ゲーブル(Clark Gable 1901-1960)は「或る夜の出来事 It Happened One Night」(1934)で、ジェームズ・スチュアート(James Stewart 1908-1997)はケーリー・グラントと共演した「フィラデルフィア物語」でそれぞれ受賞している。
それなのにケーリー・グラントは一度もアカデミー賞を受賞していない。(慰労!?がわりに1970年にアカデミー名誉賞を受賞)
ケーリー・グラントは自分の方から積極的に演技するというよりは、相手に演技させ自分はそれを受けるタイプ。自分を露骨に出さず、受けにまわって相手を立てるという演技は誰にでもできることではない。このことはケーリー・グラントの「大人の余裕」と「成熟」をあらわしている。ムキにならず自然に大人を演じられる俳優。クラーク・ゲーブルのように女を征服しようとするアグレッシブな性的魅力とは無縁で、セクシーだけどあくまでも気品と余裕を併せ持つ。
イギリス仕立ての啓蒙洒脱なソフィスティケーションは年を経るに従って磨きがかかり、50代が第二の黄金期で、ソフィスティケートされた紳士役で若い美人女優を向こうに回して名作にいくつも出演している。
当時はジェームス・ディーン(James Dean 1931-1955)やエルヴィス・プレスリー(Elvis Presley 1935-1977)のような「反抗する若者」が力を持っていなかった「大人の時代」だったと言えるし、ケーリー・グラントの成熟の魅力がエバーグリーンのものだったからとも言える。若者たちが力を持てなかった時代には若い美女の相手をつとめることができたのはケーリー・グラントに象徴される成熟した大人だけだった。
ロレッタ・ヤング(Loretta Young 1913-2000)
ロレッタ・ヤングは息の長く、好感度の高い娘役で活躍を続け、後年はテレビ番組「ロレッタ・ヤング・ショー」で大成功を収めた美人女優。「濁流 Born to be Bad」(1934)でケーリー・グラントと初共演。
人気スター2人の共演なのに、映画は失敗、大赤字。ケーリー・グラントは大ニューヨークタイムズ紙に「無個性」「大根」とこき下ろされてしまった。(ロレッタ・ヤングに娼婦を演じさせたミスキャストとも、当時としてはきわどいシーンが検閲でズタズタに切られてしまったとも)
13年後、押しも押されぬ大スターに成長した2人は「気まぐれ天使 The Bishop's Wife」(1947)で2度目の共演。クリスマスもので、ロレッタ・ヤングは牧師の妻。ケーリー・グラントは人妻を密かに愛しながらも教会の再建に魔法を使う!?天使役!
キャサリン・ヘプバーン(Katharine Hepburn 1907-2003)
大女優の相手役をつとめる下手くそな、そのくせ感じの悪くない共演男優というイメージから脱却してケーリー・グラントが独り立ちしたスターになっていくのはこのあたりから。年齢もすでに30代半ば、成熟の風格が出はじめる。
そして1930~1940年代、「スクリューボール・コメディ」って分野(丁々発止のやりとりとボディアクションが続くテンポの早いライト・コメディ)がハリウッドで隆盛をきわめ、この分野がケーリー・グラントの個性にとてつもなくマッチし、しばらくはケーリー・グラントの出演作、スクリューボール・コメディが続きます。
キャサリン・ヘップバーンは20世紀を代表する女優の一人。東部の名門の令嬢であり、女優としては型破りの、頬骨が高くエラがはり、頭がいいもんだから周りをやりこめなぎ倒し、しかも映画が出来上がってみれば、ブロードウェイで鍛えた演技力に圧倒されて、サイレント映画の名残を引きずり、まったりした動きや台詞まわしを見慣れた観客には、あまりにもフレッシュで。
ケーリー・グラントは体育会系で都会系、動作の敏捷さではひけをとらない。キャサリン・ヘップバーンは、戦後の、名優スペンサー・トレイシーとのロマンスとコンビが有名ですが、新しい、今までいなかったタイプのヒロインとしてハリウッドに現れた当時の娘役時代のスクリーン上のベストカップルはケーリー・グラントで、4本も共演作がある。
「フィラデルフィア物語 The Philadelphia Story」(1940)はキャサリン・ヘップバーンにアカデミー主演女優賞をもたらし、ハワード・ホークス監督(Howard Hawks 1896-1977)「赤ちゃん教育 Bring Up Baby」(1938)は時代を先取りしすぎたカルト的名画として、年々評価は上がっている。
他共演作:
「男装 Sylvia Scarlett」(1935)
「素晴らしき休日 Holiday」(1938)
マーナ・ロイ(Myrna Loy 1905-1993)
マーナ・ロイといえば戦前、大ヒットした映画「影なき男」シリーズってのがありまして、私立探偵の奥様を演じ、可愛くてオシャレで好奇心いっぱいで、ウィットとコケットリーに富む若奥様ぶりが大評判となり、「マーナ・ロイと言えば良妻賢母」とのイメージが定着したコメディエンヌで大スター。1970年代まで映画出演は続いている。
2人の初めての共演は「盲目の飛行士 Wings in the Dark」(1935)では愛し合う2人はパイロット。賞金を獲得できれば結婚費用ができる!とモスクワからニューヨークの単独飛行に挑戦するお話。
12年後、「100万ドルのエクボ」で20世紀フォックスを支えた、大きくなった!? シャーリー・テンプルを加えた恋のさやあてコメディが2本目「独身者と女学生 The Bachelor and the Bobby-Soxer」(1947)。
ニューヨークの夫婦が郊外に一軒家を買ったらとんだハズレ!次から次にまきおこる大騒動、が3本目、「ウチの亭主と夢の宿 Mr.Blandings Builds His Dream House」(1948)。
後になればなるほど、マーナ・ロイって、きれいだなあ。女性が憧れる女性のタイプ。
ジーン・ハーロウ(Jean Harlow 1911-1937)
1930年代のセックス・シンボルといえばジーン・ハーロウ。プラチナ・ブロンドがウリで、別名「ブロンドの爆弾」。衣装も白の薄物で胸のふくらみとお尻の形がくっきりはっきり。袖口にはふんわりゆれるフェザーがあしらわれ、って具合。
破滅型のファム・ファタール・悪女・妖婦がはまり役で、スター街道を驀進し、人気はグレタ・ガルボやノーマ・シアラーをもしのぎ、肉体とセックスアピールを武器にMGMのトップスターに躍り出る。
実生活はセックスシンボルなのに夫は不能だったとか、夫はピストル自殺したとか、おかあさんがクリスチャン・サイエンスを信望しており、病気の娘を医者にも診せず、わずか26才で死んでしまう…。とかでやりきれないと言うべきか大仕掛けだと言うべきか。
共演作:「暁の爆撃隊 Suzy」(1936)
アイリーン・ダン(Irene Dunne 1898-1990)
アイリーン・ダンとも3作コンビを組んでいる。
「新婚道中記 The Awful Truth」(1937)、「ママのご帰還 My Favorite Wife」(1937)、「愛のアルバム Penny Serenade」(1941)。タイトルを見ただけでほほえましい。ハート・ウォーミングなスクリューボールコメディ。
アイリーン・ダンはもともとは歌手で、歌手を目指したものの、本業の歌の映画はさっぱりふるわず(失礼)、非ミュージカル映画で人気が火がついた。スクリーンデビューは30才を過ぎてから。つまりはじめから大人の女、それも浮ついたところのない落ち着いた年増の風情。
そして芸達者なので映画を見ていてしんみり泣かせる・感動させることのできた実力を兼ね備えた人気女優でした。良妻賢母で、無名時代に結婚したご主人と終生仲睦まじく添い遂げ、結婚はたった1回!が珍しがられる映画界って、やっぱりワンダーランド。
ジーン・アーサー(Jean Arthur 1900-1991)
ハリウッドの古典西部劇、「シェーン」のお母さん役がジーン・アーサー。「シェーン」はジーン・アーサーの映画人生の集大成みたいなもの。ブロードウェイでキャリアを重ね、サイレントからトーキーに切り替わったハリウッドにやってきて花開いた女優さんの一人。
大都会のオフィスガールなどがぴったり。清純派でありながら気が強く、軽快でウィットに富む。名匠フランク・キャプラ監督(Frank Russell Capra 1897-1991)に愛されたコメディエンヌであり、容姿に似合わぬハスキー・ヴォイスがさらに人気を不動のものにした知的ブロンド美人。
激情に押し流される役なんかはあんまり似合わないけれど。ハワード・ホークス監督「コンドル Only Angels Have Wings」(1939)でケーリー・グラントと共演。ショーガールの役だし、エクアドルが舞台なので異色ですね。
他共演作:「希望の振る街 The Talk of the Town」(1942)
もう一つ。この映画あたりから、ケーリー・グラントのクレジットがトップにくる。あまたのスクリューボールコメディで実績を積み、トップスターとしての位置を確立。
リタ・ヘイワース(Rita Hayworth 1918-1987)
映画「コンドル Only Angels Have Wings」(1939)はケーリー・グラントを真ん中に、ジーン・アーサーとリタ・ヘイワースが共演した豪華な映画。リタ・ヘイワースは1940年代、マリリン・モンローが出てくる前にセックス・シンボルと呼ばれ、広島に原爆を投下した戦闘機、「エノラ・ゲイ」にはリタ・ヘイワースのピンナップが貼られていたというシンボリックな存在。人気スター、セックスシンボルとして頭角を現すのはこの映画の後になる。
この映画のあと、リタ・ヘイワースは10キロダイエットさせられ、髪の生え際を強引に後退させて額を際立たせ、ブルネットはいちごブロンドに染め変えられ、妖婦となった。
でも、この映画のリタ・ヘイワースもフェロモンたっぷり。色っぽい~。
ロザリンド・ラッセル(Rosalind Russell 1907-1976)
ハワード・ホークス監督「ヒズガール・フライデー His Girl Friday」(1940)はケーリー・グラントの、ロザリンド・ラッセルの、ハワード・ホークス監督の代表作の一つとなり、極致との呼び声も高いウェルメイド・ムービー。イチオシ・おすすめの1作。
ロザリンド・ラッセルは1930年代から1970年代まで、映画に舞台に活躍した実力派の人気美人女優であり、コメディエンヌである。長じて女座長であり、舞台の重鎮であった。
お話は雑誌の編集長と敏腕女性記者のスクリューボールコメディで、テンポの早いこと二人の掛け合いの楽しいこと激しいこと!
また、ロザリンド・ラッセルの結婚は、ケーリー・グラントがキューピット。いわゆる「友人の紹介」ってやつで(プロデューサーのフレデリック・ブリッソン(Frederick Brisson 1912-1984))、2人の結婚式では、ケーリー・グラントは花婿の介添人を勤めブリッソン・ラッセル夫妻はこれまた珍しく? 終生仲睦まじく添い遂げた。
【コラム②】結婚と人となりを伝えるエピソード
結婚は5回。
- ヴァージニア・チェリル(Virginia Cherrill 1908-1996)(1934-1935) (チャップリンの「街の灯」に出演した女優。ケーリー・グラントは30歳で新妻のチェリルはわずか18歳で12歳下)
- バーバラ・ハットン(Barbara Hutton 1912-1979)(1942-45)(8歳下)
- ベッツィ・ドレイク(Betsy Drake 1923–2015)(1949-62)(20歳下)
- ダイアン・キャノン(Dyan Cannon 1937-)(1965-1967)(34歳下)そして翌年、62歳で娘、ジェニファーが生まれる。ケーリー・グラントの子どもはジェニファー1人。
- バーバラ・ハリス (Barbara Harris) (1981-86)(47歳下)
全部年の離れた若い女性。そして全部長続きしない。最長13年。
洗練されたイメージとは裏腹のもう一つの顔が徐々に明らかになるのですが、DVの気もあったらしい。若い頃はゲイで(しかし同性愛ってのも、アグレッシブかつクリエイティブでとがった人にはよくある話なので別に驚くにはあたらない)表向きはひた隠し、否定し続けた。ソフィア・ローレンに振られてLSDに走った。一人娘の親権バトルは10年にわたった。
全般的に!? 若い女の子がお好みで、よく働き、よく遊んだ。
有名なエピソードをいくつか。
少年の頃にアクロバットの芸人の生活に憧れ、家出して一座に入り、一座とともにアメリカに渡ったが、生活は苦しく、サンドイッチマンや遊園地コニー・アイランドでホットドッグ売りもやった。イギリス出身ということでアメリカ社会では外国人として扱われ苦労もした。
スターとなり、大金持ちの娘バーバラ・ハットンと結婚し「コニー・アイランドのアイスクリーム売りが玉の輿に乗った」と書かれたとき、ケーリー・グラントは「私が貧乏な少年時代を送ったからそんな悪口を言われるのか」と悔しがり、バーバラ・ハットンとの結婚生活では一銭も彼女に金を出させず、のちに生涯7人の男と結婚したバーバラ・ハットンに「ケーリー・グラントだけが私の財産を狙わなかった」と言わしめた。
スウェーデンからハリウッドに来てスターとなったイングリッド・バーグマンは夫のある身でありながらイタリアの監督ロベルト・ロッセリーニのもとに走ったためハリウッドから追放されてしまった。
その間ハリウッド映画人の中でバーグマンと友情関係を保ったのはケーリー・グラントただ一人。
そしてカムバックのためにアメリカに降り立った時、バーグマンを真っ先に空港に迎えに行ったのはケーリー・グラント。
ハリウッドに復帰し、「追想」(1956)でアカデミー主演女優賞を受賞したとき、バーグマンに変わってオスカー像を受け取ったのもケーリー・グラント(バーグマンはヨーロッパにいて出席できなかった)。
ソフィア・ローレンがイタリア映画「ふたりの女」(La Ciociara 1960)でアカデミー主演女優を取ったのを、電話で真っ先に知らせたのもケーリー・グラント。
イアン・フレミング描くところの「007シリーズ」、英国スパイのジェームズ・ボンドも、レイモンド・チャンドラー描くところの霧とトレンチコートとくゆらすタバコが男の哀愁を漂わせるフィリップ・マーロウも、作者の描いたイメージはケーリー・グラント。
ベストドレッサーとしても有名。ハリウッドの最も有名な衣装デザイナー、イーディス・ヘッドのアドバイスを受け、英国紳士の正統派を貫いたファッションセンスは今も男女問わず憧れの的。
ケーリー・グラント自身も美女のお相手をつとめる自分の役どころをじゅうぶんに心得ており、スーツの着こなしにも日頃のメンテナンスやワードローブのブラッシュアップに余念がなかったとのこと。
ケーリー・グラントはよく遊んだけど、ケチぶりも伝えられている。
娘が生まれたとき、乳母を雇うのを嫌がった。子どもには母親が必要だから? 違う。「子守を雇うと余計な費用がかかるから。」
映画のロケで製作者側もちでホテルに泊まる。食事代は自分持ちだと撮影所の食堂ですませたり、安いホテルに泊まって差額をきっちり請求したりした。
ケーリー・グラントが活躍した時代はルエラ・パーソンズ(Louella Parsons 1881-1972)、ヘッダ・ホッパー(Hedda Hopper 1885- 1966)、シーラ・グレアム(Sheilah Graham 1904-1988)など、スターのプライベートを探り出し、面白おかしく提供したゴシップ・ジャーナリズムが全盛を誇った時代でもあった。
ケーリー・グラントはコラムニストにも一目置かれる存在だったし、あることないことかは置いといて、書かれはしたけど扱いは概ね好意的。基本私生活を晒すタイプではなく、その意味ミステリアスな存在だった。
ジョーン・フォンテイン(Joan Fontaine 1917-2013)
夫がミルクの入ったコップにトレイに乗せ、階段を上ってくる。ミルクの中には毒がはいっているのでは…。アルフレッド・ヒッチコック監督(Alfred Hitchcock 1899-1980)が満を持してケーリー・グラントを起用した、第1作が「断崖 Suspiction」(1941)。
ジョーン・フォンテインは東京生まれ。実のお姉さんが「風と共に去りぬ Gone with the Wind」(1939)でメラニーを演じたオリヴィア・デ・ハビランド(Olivia De Havilland 1916- )。フォンテインは「断崖」に先立つヒッチコック監督作品「レベッカ Rebecca」(1940)で一気に上昇気流に乗り、「断崖」で姉を差し置いてアカデミー賞受賞。美しい姉妹は引き裂かれ、姉はオスカー・ハンターとしてアグレッシブに自らのキャリアを切り拓き、妹のフォンティーンは緊張の糸が切れたかのように失速…はもう1つのハリウッドの物語。
ケーリー・グラントの役はダメンズ。資産家の令嬢の妻を保険金目当てに殺そうとする(かに見える)夫の役。おびえるフォンティーンと不気味に無表情のケーリー・グラント。夫を愛する心と迫り来る恐怖。
原作では妻は殺されてしまうのですが製作会社のRKO社が「ケーリー・グラントを悪者にしてはならない」「ファンは誰もケーリー・グラントが妻を殺そうとする男だとは思わない」すべて妻の妄想だった、にストーリーが書き換えられてしまった(監督のヒッチコックはこれに不満だった)ことでも有名。
イングリッド・バーグマン(Ingrid Bergman 1915-1982)
ケーリー・グラント、イングリット・バーグマン、アルフレッド・ヒッチコック、3者ともに代表作の一つである「汚名 Notorious」(1946)。
サイコーの上にもサイコーの映画。我が人生の映画ベスト10には絶対入れたい。
スパイの娘は諜報員に目を付けられ、スパイとして敵地に乗り込む。
2人は愛し合う仲となったが敵は娘に求婚。苦悩する2人…。と設定が骨太。
うけて立つケーリー・グラントとイングリッド・バーグマンもがっぷりタッグを組み、息もつかせぬ展開とヒロインに迫る命の危機。
当時は検閲がうるさくて挑発的な長いキスシーンはご法度。
ケーリー・グラントとイングリッド・バーグマンがバルコニーでキスを始める。と、室内で二人を邪魔するように電話が鳴る。ケーリー・グラントはキスをしたままで部屋の中に入る。そして受話器をとり話をする。その合間、合間にバーグマンとのキスを続ける。キス、電話、キス、電話…長時間キスをし続けてはいけないという検閲のコードに触れずに「長いキス」のイメージを作りあげた。映画のキャッチコピーも「映画史上最も長いキス」。
イングリッド・バーグマンは「汚名」の後不倫スキャンダルでハリウッドを追われる。
カムバック後の共演は「無分別 Indiscreet」(1958)。
マリリン・モンロー(Marilyn Monroe 1926-1962)
マリリン・モンローが20世紀を代表するセックスシンボルと呼ばれるようになるのは、ケーリー・グラントとの共演、ハワード・ホークス監督「モンキー・ビジネス Monkey Business」(1952)の次の映画、「ナイアガラ Niagara」(1953)。
マリリンは映画の途中で出てくる脇役、社長秘書の役。出番は正直少ないものの可愛い! お色気! ムチムチ! お話は若返りの薬をまず夫が飲んで、次に妻が飲んで。みかけはかわらず。心はハタチ! のドタバタ・破天荒なプロットのコメディ映画。
マリリン・モンローとのコンビ、もう1本あっても良かったのに。見たかったな。
グレース・ケリー(Grace Kelly 1929-1982)
「泥棒成金 Catch a Thief」(1955)はケーリー・グラントのヒッチコック映画の極めつけの一つ。グレース・ケリーはヒッチコック監督がこよなく愛したミューズ。「クール・ビューティ」「セクシャル・エレガンス」と謳われ、モナコ大公に見染められて結婚・引退した1950年代を代表する美人女優。
お話は、宝石泥棒「ネコ」は自分の偽物が出たことを知り、南フランスへ。照りつける太陽の下、アメリカの金持ち娘と一緒に偽者探しに乗りだして。優雅で華麗な上流階級が真相究明。と本来、ヒッチコック映画は、もっとコワイ。のですが画面・シーンの一つ一つが異世界でしゃれていて、主役の美男美女2人の洗練されたセリフや動作、技巧のこらされたヒッチコックタッチが随所に楽しめる。
花火の夜のグレース・ケリーとのキスシーンも時代を超えた不滅のスタンダードです。
デボラ・カー(Deborah Kerr 1921-2007)
デボラ・カーはしっとりした女らしさ、優雅に美しく、気品があり、イギリス美人の典型で貴婦人役がよく似合う。
ケーリー・グラントと共演した映画は2本。1本目「めぐり逢い An Affair to Remember」(1957)はメロドラマの傑作。豪華客船で巡り会った美男美女が再会を誓い、愛し合い続けながらもすれ違い続け、ついに迎えるハッピーエンド。二人はマルセイユからニューヨークに向かう豪華客船で恋仲になる。ニューヨーク港に船が入って行くとき二人は再会する約束をする。
デボラ・カーが「(場所は)あなたが決めて」と言う。デッキからマンハッタンの摩天楼が見える。それを見てケーリー・グラントは「エンパイアステートビルの頂上にしよう。6ヶ月後の午後5時に」。
ロマンチックですねえ。エンパイアステートビルがまだ世界一の高さを誇っていた頃の映画です。
2本目、「芝生は緑 The Grass Is Greener」(1960)では2人は伯爵夫妻を演じている。
ソフィア・ローレン(Sophia Loren 1934- )
ソフィア・ローレンはイタリアの大女優。米伊の大スター(ただし撮影当時のソフィア・ローレンは新進の若手スター)の共演映画は2本。1本目、「誇りと情熱 Kiss Them for Me」(1957)は戦争映画で、スペインの独立戦争時、イギリス海軍将校はスペインのゲリラ部隊に加わっている実は貴族の娘と恋に落ちる。ソフィア・ローレンは野生美あふれるダイナミックな容姿。今までのお嬢さん・奥さん然した相手役とひと味違い、舞台もスペインの山の中なのでエキゾチック。
2本め、「月夜の出来事 Houseboat」(1959)は一転して舞台はワシントンD.C。固いお仕事をしていた主人公の元に離婚して交通事故で亡くなった母親と暮らしてきた3人の子どもが帰ってくる。家出した子どもを連れてきた陽気なイタリア人の女の子をお手伝いさんにして、すったもんだの末、もちろん2人はゴール・イン! ソフィア・ローレンは、容姿で気の弱い日本人、まず引いちゃうトコ、あるんですが実は可愛い女がはまり役。
「誇りと情熱」撮影中、2人は恋に落ちた。
ソフィア・ローレンは私生児として生まれ、不幸な少女時代を過ごした。ケーリー・グラントも子供時代に母親が精神病院に入れられるという傷を負っている。ソフィア・ローレンの自伝の中には「私たちは毎晩会った。ロマンチックな小さなレストラン。フラメンコのギター調べの中ですてきなワインを飲み食事を楽しんだ。他の人には気づかれないように」とのくだりが出てくる。
ケーリー・グラントはソフィア・ローレンの前ではすっかりうちとけて、幼い頃の思い出話をしたという。
しかし双方決まった相手のある身。(妻のいるケーリー・グラントと恋人(イタリアのプロデューサーのカルロ・ポンティ)のいるソフィア・ローレン)ロマンスは終わりを告げた。
エヴァ・マリー・セイント(Eva Marie Saint 1924- )
「北北西に進路を取れ North by Northwest」(1959)。ケーリー・グラントの生涯の代表作1作をあげるのならこの映画になるでしょう。ヒッチコック監督の生涯の代表作もこの映画になるかもしれない。広告代理店に勤める無実の男は、何がなんだかわからないうちにスパイに間違えられ、組織に追いかけられるはめになる。殺されてしまう! 列車で出会ったロンドの美女は敵の情婦だった…。と息つく暇さえない追いかけっこが始まる…。
「女優を引き立たせる」が持ち味のケーリーグラントの持ち味ですが、この映画のメインはどこまでも男。ケーリー・グラントとヒッチコック監督。この記事は女優をメインにケーリー・グラントの映画を並べていく企画です。しかし! でも! 絶対! 何があっても「北北西に進路を取れ」だけは落とせませんから!
エヴァ・マリー・セイントはもちろん素敵です。謎の美女として現れ、列車でケーリー・グラントを口説くシーン、続くサスペンスフルなキス、ホテルのロビーに黒地に花模様のドレスで現れるシーン、黒のワンピースでいきなりケーリー・グラントに発砲するシーン!
ケーリー・グラントは撮影中ヒッチコックに「自分でも自分の役がなんだかよくわからない」と訴えたという。無論それこそヒッチコックの狙いであり自分の状況がよくのみこめないケーリー・グラントの無垢がサスペンスを一層スリリングに盛り上げる。
オードリー・ヘプバーン(Audrey Hepburn 1929-1993)
シメは「シャレード Charade」(1963)。オードリーの映画ですから、オシャレ。当然衣装はジバンシー。離婚を決心して旅行から帰ったら部屋はもぬけの空で夫は死んだと告げられる。
実は死んだ夫はスパイで、25万ドルの金塊のありかを知っていた。展開がスピーディ、どんでん返しにつぐどんでん返しなのも、オードリー映画を見慣れた人にとっては新鮮かも。
「『ローマの休日』より『シャレード』が好き」とのファンもたくさんいます!
【コラム③】演技スタイルの変化とその他おすすめ映画
1932年にパラマウントのスクリーンテストに合格してスターとなり、1936年、再契約を蹴ってフリーとなった。実に珍しいケースなんですよ。
多くのスターがスタジオとの契約に縛られていやいやながら駄作にも出なければならなかった時代に、早くから自分の持ち味に合った作品を選ぶことができた。
彼がヒッチコックをはじめとしてフランク・キャプラ、ジョージ・キューカー、ハワード・ホークス、スタンリー・ドネンのような大監督と仕事ができたのは、単にケーリー・グラントがそれらの監督に気に入られたばかりでなく、ケーリー・グラント自身にも作品・脚本・監督と共演者を選ぶ権利があったから。
故郷、イギリスのブリストルで学校に通っていた時はハンサムで明るい性格でスポーツ万能で、男の子にも女の子にも人気があったのだとか。
アクロバットの一座に加わったことが俳優になったきっかけ。パントマイムも学んだ。つまり運動神経抜群。
ハンサム・スポーツマン・明るく陽気なキャラクターで実は苦労人。
背が高く(身長187㎝)脚もほどほどに長くハンサムでガタイがよく、筋骨隆々ではないけれどたくましい。細マッチョならぬほどほどマッチョ。
アクロバットとパントマイムをやっていたからハードな動きが苦にならず、ピタリと決める。演技は己を出さず、大根と呼ばれながらも相手役を立てる。 まさに大女優のお眼鏡にかないそうなキャラクター。
- 元気いっぱいはじける若さのお稚児さん時代 に続いて
- 体を張ったスクリューボール・コメディ絶頂時代 (キャサリン・ヘップバーンと共演した頃から)
- 重厚さを複雑さを兼ね備えたキャラクターを演じる新境地開拓時代 (ヒッチコック監督の映画に出た頃から)
- 素敵なロマンスグレーのおじさまとして若い美女と恋に落ちる円熟時代 (「泥棒成金」でカムバックしてから再引退まで)
映画界入りし、スターとなってからもセレブリティとの人脈を活かし、早いうちから映画や舞台出演の傍ら、実業家としても大成功を収めている。
勘が鋭く、地アタマが良く、人柄は温かく。
美人女優との共演の映画の画像ばかりを並べてしまいましたが これまで紹介出来ず、おすすめの映画や、え、ケーリー・グラントってこんな映画にも出てたんだ~の 穴場の映画として
「ガンガディン Gunga Din」(1939)
植民地時代のインドを舞台にした映画。3人のイギリス軍兵士とインド人従者の冒険を描く戦争コメディで、壮大な戦闘シーンにはスピルバーグ監督が影響を受けたと言われている。
「毒薬と老嬢 Arsenic and Old Lace」(1944)
ブルックリンの大邸宅に住んでいる2人の老嬢姉妹は、孤独な老人男性に部屋を貸し、次々と天国に送ってあげていた。帰省した兄はフランケンシュタインそっくりで弟もオカシイ。とマシンガントークと毒薬と楽屋落ちが飛び交うブラックコメディ。
「僕は戦争花嫁 I Was a Male War Bride」(1949)
ハワード・ホークスとのコンビの中で一番笑える。敗戦直後のドイツの風景が美しく、ケーリー・グラントの女装! の姿や、必死に行動すればするほど悲惨な目に合うのがますますおかしい。
1986年、脳卒中で急逝。享年、82歳。