ジュディ・ガーランド(Judy Garland 1922-1969)。成し遂げた輝かしい偉業の数々と打ち立てた金字塔と、裏腹の生き急いだ47才の悲惨な「不注意による睡眠薬の飲みすぎ」による死。数度にわたる結婚と離婚、睡眠薬中毒。多額の借金、老醜、ヤク中による入院、ノイローゼ、自殺未遂。
不滅の映画と歌のみどころ・おすすめをご紹介。ドラマティックな生涯とエピソードも一緒に。
(原題を英語でのせてます。お役だてください。)
【映画レビュー】
ゲット・ハッピー (Get happy 1950)
「サマーストック」(Summer Stock)より。
生涯のベストパフォーマンスでしょう。 お話は、劇団が稽古場にしてしまおう、と訪れた農場の女農場主と劇団の演出家の「ボーイ・ミーツ・ガール ストーリー」。ジュディ・ガーランドの才能は米MGM社で花開いた。13才で入社、大スターとなり、会社に大貢献した。この映画「サマー・ストック」を最後の作品としてMGMを離れることになる。
ソロナンバー。ヒップを覆う丈の黒のジャケットに黒の帽子。そしてすんなり伸びた、黒のストッキングの太ももまでみせる脚線美。黒の背広の男たちを従えて歌い踊る、セットもアレンジも一見シンプルなナンバー。ジュディは「最後の審判の日のために、幸せになろう」と歌い出し・踊り出す。ラヴェルの「ボレロ」みたいに平坦な旋律が何回も繰り返され、徐々にトーンは高まる。ラスト近く、男たちが一斉に手を叩く音が伴奏のところどころに入り、「パン! 」と手拍子が響けばジュディが反応してカメラ目線。カッコよすぎる!抜群の歌唱力に加えて個性が豪快かつダイナミック、天賦の才能の前に聴衆は鳥肌がたつ、総毛立つ…の究極のナンバーである。黄金期のMGMミュージカルのダイジェストを集めた映画「ザッツ・エンタイテイメント(That's Entertainment!) )」はパート1・2・3と3作作られ、うち2作に採用されでいる「ゲット・ハッピー」。究極・入魂・神がかった最高のパフォーマンスであり、You Tubeの動画再生回数も段違い!
虹の彼方に (Over the Rainbow 1939)
「オズの魔法使い」(The Wizard of Oz)より。
ジュディ・ガーランドの30年にわたるショー・ビジネス人生の生涯の代表作の映画が「オズの魔法使い」であり、生涯を通じてのジュディ・ガーランドのテーマソング。代表曲。ジュディ=ドロシー(ジュディが演じた役名)、16才の、イノセントな、おさげ髪の、すごい美人、ではないけれど可愛い女の子。がカンザスの農家の軒先で、藁束によりかかり「虹の向こうには子守唄で聞いた国がある、悩みはレモンドロップみたいに溶けて、青い鳥が飛んでいく…」と歌う。映画は大ヒットし、ジュディ・ガーランドはこの1作、17才で大スターの仲間入りを果たし、映画「オズの魔法使い」も作中歌「虹の彼方に」もアメリカ映画を代表する映画、アメリカを代表するスタンダード曲として君臨し、カバーされ続けている。「あどけなくかわいい、無垢な女の子」のイメージは、大人になっても、多難で苦労続き、老けのスピードも超早かった早すぎた晩年も、終生ジュディ・ガーランドについてまわった。人は可憐な女の子が夢見て歌う歌に、己の若かった頃、かつて若く、エネルギーに満ちていた時代を懐かしみ、自らを重ねる。古今東西、変わらぬノスタルジーが、「Over the Rainbow」を稀代の名曲へと押し上げたのでありましょう。
テキサス・トルネード (The Texas Tornade 1936)
「フットボール・パレード」(Pigskin Parade)より。
ジュディ・ガーランドの初期の中の初期の曲。若干13才。しかしこの歌聞くと、ビビりますよ。旋律が走りますよ。まさにトルネード! 歌の竜巻! ジュディ・ガーランドの若き天才ぶりが空恐ろしくなる。 たった13才の女の子が、子どもらしさとは無縁の圧倒的なパワーの歌唱力で迫ってくる。
「あなたは私のトルネード、私の心を吹き飛ばしたわ。あなたとアトランタで恋をしてピアノみたいに私を奏でる、今私は天国にいるの! 」
アマリロ・テキサス・アトランタとアメリカ南部の地名が嫌が応にもディーブな地方色を連想させ、弾むメロディーは野生味いっぱいの少女の恋心の激しさ。黒人音楽に源流があるとも言われる、ろうろうと、シャウトを交えての「ジュディ節」とも言える歌い回しが、あまりにも映画入りの初期から。ものすごい完成度であったことがわかる。
そして13才のジュディーは、にこにこ笑いながら歌う。顔の幅も後年よりだいぶ大きく、ツイードのジャケットコートを着て、肩まわりも胸の幅もむっちり! 十分そのままでもかわいいけど、健康そのものだけど、映画スターの路線に乗るには、やっぱりもう少し…。の気持ちもわかる。ジュディ・ガーランドは、脚は細くて長いんですよね。上半身、胴が短く、胸が大きいというよりは胸回りが大きい。横からみると厚みがある。
去りゆく君 (The Man That Got Away 1954)
「スタア誕生」(A Star Is Born)より。
古巣、MGMをクビになり、失意のジュディが放った渾身の映画、が「スタア誕生」。ストーリーは、無名の女優が大スターと愛し合う。女優は華やかなスターの階段を上っていき、妻の足手まといになると夫は自殺してしまう。授賞式で自分の名前を名乗らず「私はノーマン・メイン夫人です」と亡き夫の名を呼ぶラストシーンは、ハリウッド・メロドラマの名シーンとして歴史に残る。「去りゆく君」は映画の冒頭間もなく、まだ無名のヒロインが真夜中のクラブで、バンドマンの演奏とともに歌い上げるジュディ節のたっぷり入った聞かせどころ満載の歌で、ゆっくりとメロディに入り、クライマックスでは迫力満点に歌い上げ、すすり泣くかのように終わる。伝説の映画評論家、双葉十三郎氏は「パラノイア的な凄絶なものを感じさせる熱演である。みていて楽しめるというよりは背筋が寒くなってくる」と評した。撮影当時、ジュディはまだ30代はじめ。全然若い。映画と演技は絶賛を浴び、誰もがジュディのアカデミー主演女優賞受賞を確信したが、番狂わせは起こり、オスカーは「喝采(The Country Girl 1954)」のグレース・ケリーがさらった。ジュディのメンタルはプツリと切れてしまい、凄惨な晩年につながっていく。あの時、ジュディがオスカーを取れていれば、と誰もが思い、悔いが残った、とのエピソードも名高い。
トロリー・ソング (The Trolly Song 1944)
「若草の頃」(Meet Me in St.Louis)より。
ジュディ・ガーランドが好感度抜群のミュージカルスターとして君臨していた、まさに絶頂期・全盛期の、誰かの相手役じゃなくて、「ジュディ・ガーランド」一枚看板の映画。22才。「トロリー・ソング」は「チンチン電車の歌」で、「虹の彼方に」と並ぶジュディのテーマソング。「オシャレして電車に乗って、会ったハンサムな男の子。ガッタンゴットン、電車が動き出す。ヒュー・ヒュー・ヒューとベルが鳴ったとたんに恋に落ちた! チャンチャンチャンとモーターがうなり、彼が微笑むと電車が揺れる。彼が目の前に座って、帽子を取って、脚を組んだら息が止まりそう! 二人はそのまま手を取って、終点まで一緒! 」と大変に他愛なく、ワクワクする女の子の心を歌った歌で、ジュディ・ガーランドの元気・溌剌の個性にまさにピッタリ! 映画は製作当時のカラー映画で今と比べると色のコントラストがはっきりしていてカラフル!1904年に開催されたセントルイスでの万国博覧会までのアメリカの家族の四季が描かれた肩のこらないハッピーな映画で、お屋敷だのお屋敷のお部屋の中だのドレスだの、見ているだけでもじゅうぶん楽しめる。
アチソン・トピカ・アンド・サンタフェ (Om The Atchison,Topeka,and the Santa Fe 1946)
「ハーヴェイ・ガールズ」(The Harvey Girls)より。
”ハーヴェイ・ガールズ”とは? アメリカ開拓時代、東西南北に延びる鉄道。食事するところがない。で、沿線沿いに次々できたレストランチェーンが「ハーヴェイ・ハウス」。ウェイトレスは容姿端麗が採用条件。お店に出る前の接客マナーの厳しい研修、と現在のキャビンアテンダント並み。母親と一緒の寮生活・門限厳守・結婚禁止! かわりに破格のお給料! それが名付けて「ハーヴェイ・ガールズ」! 荒くれた土地に突如現れたドレスコード付きのレストラン、容姿端麗な女の子が選りすぐりのお料理を運んできてくれる。お話は進出レストランの女の子と地元の酒場の女の子との女の争い!? と恋のさやあて。あ、ミュージカル映画なんですから、ストーリー運びとかに気をとられちゃダメ! 可愛い女の子と歌と踊りにただ見とれていればいいのです^^
アチソントピカアンドサンタフェは鉄道会社名。鉄道も膨大な数のエキストラも、噴煙たてて疾走する蒸気機関車もすべてスタジオ内でセットが組まれた。ジュディは「なんて素敵な旅。生きてる! って感じる。不思議の国のアリスの気持ち。ホイッスルが鳴る。スリリングだわ! カンザスの平野を横断する。心はジプシー」と豪快に開拓魂を歌う。MGMミュージカルのまさに黄金時代を象徴する、スペクタクルな1曲。第19回アカデミー主題歌賞受賞。
【コラム①】颯爽たるデビューから無残な死まで
ジュディ・ガーランドは根っからの芸人の生まれ。芸人の子。1922年、ミネソタ州グランド・ラピッツ生まれ。両親は映画館主、父は歌手、母はピアノ弾き、3人姉妹(ジュディは末娘)は「ガム・シスターズ」として余興のショーの為に小さなころから舞台に立つ。ジュディが5才の時に一家はカリフォルニアに移住を決め旅芸人の一座として旅費を稼ぎながらアメリカ大陸を横断し西を目指した。後期のジュディの代表作「スタア誕生」中のナンバー、ミュージカル女優として頂点を極め、子どものころを思い出して歌う「トランクに生まれて(Born in a Trunk)」そのままの世界。
お父さんは同性愛の気もあり、両親の仲は良好、とはいかなかった。お母さんはステージ・ママで、娘をスターにしようと奔走(後年ジュディは母親を嫌い、孫の顔も見せなかった)歌唱力が認められ、13才でMGMに入社。「オズの魔法使い」で大ブレイクして17才で大スターの仲間入り。40年代のMGMのミュージカルと青春映画を背負って立つ。つんとお高くとまった綺麗どころではなく、一見清純で明るく健康そうな親しみやすくて明るく可愛く元気で勝気なガール・ネクスト・ドア。
彼女に、姉に、妹に欲しいタイプ。その頃コンビを組んだのはミッキー・ルーニー。青春映画とのカテゴリの、ものすごい才能の2人が組んだ極上のエンターテイメント映画で、今の目からみると何とも豪華すぎる。贅沢すぎる。
大スターになってからの5~6年は、ジュディの美貌が冴えわたった時期。スタッフからは「醜い鴨」「小さいせむしちゃん」と呼ばれていた少女はメキメキを変貌を遂げる。
「雨に唄えば」のジーン・ケリーと組んだ「フォア・ミー・アンド・マイ・ギャル」で子役から大人の女優への脱皮に成功。
「若草の頃」「イースター・パレード」など、珠玉の映画を生み出すものの、トラブルメーカーとして徐々にMGMの信用を失っていく。
そもそも「キャスティング・カウチ」、つまり体を差し出すことでMGMに採用された。13才の女の子を!? とびっくりしてしまうけど、折あしく、プロデューサーはロリコンだった…。いわゆる「枕営業」も強制されたのか違うのかまでは伝わらないものの、MGM時代はプロデューサー全員と性的関係を結んでいた。撮影は過酷で、1日18時間、週に6日働く。そしてもともと太りやすい体質だったのに「スリムでいること」が契約に入っており、食べ盛りの女の子には辛い。旅回りの小さな時から「よく眠れるように」とお母さんが睡眠薬を飲ませていたという。当時ダイエット薬として普通に出回っていた軽い覚醒剤、アンフェタミンを常用するようになる。目が冴える。眠れない。で、睡眠薬(セコナル)を併用する。
ジュディはかわいい女の子(身長151cm)だったけど、美人ではない。MGMのきら星のような美人女優と自分を比べ、恋人だと思っていた男性の本命は美人女優だった…。とコンプレックスとヒステリーの間を行き来する。で、またも薬にすがる。
ついに解雇され、活躍の場は舞台へとシフトしていく。
ロンドンのパラディアム劇場でのコンサートは大成功。アメリカに凱旋し、ブロードウェイのパレス劇場でのステージも大盛況。全米各地でステージに立ちながらラジオ出演・テレビ出演にも精力的。
再起をかけたワーナー・ブラザース映画「スタア誕生」は、大ヒットし、ジュディの後期の代表作となったが、撮影はトラブル続き、製作費は膨れ上がり、結果として利益を出すことはできず、演技は評価されたが製作サイドは冷たく、結果としてオスカーを逃す。
ステージは世界各地で好評を博し、レコーディングも数多く残されている。特に1961年のカーネギー・ホールでのコンサートは伝説となり、二枚組のアルバムはヒットチャートで13週連続No.1。グラミー賞のアルバム・オブ・ザ・イヤーと最優秀女性歌唱賞を受賞する。
テレビショーが始まったが視聴率を出せず、1年で打ち切りとなり、
コンサートでステージに立つものの歌うことができなかったり、体調を理由にキャンセルしたりで、金銭的にも困窮し、旅先のロンドンで失意のうちに睡眠薬(バルビツール)の飲みすぎでわずか47才の若さで客死。
結婚は5回。配偶者は
- デヴィッド・ローズ(David Rose 1941–1944) 楽団を率いた音楽家。
- ヴィンセント・ミネリ(Vincente Minnelli 1945–1951) 「花嫁の父」「バンド・ワゴン」「パリのアメリカ人」など。大映画監督。
- シドニー・ラフト (Sidney Luft 1952–1965) 映画プロデューサ-。
- マーク・ヘロン(Mark Herron 1965–1967) 若手俳優。
- ミッキー・ディーンズ(Mickey Deans 1969) ミュージシャン。
子どもは
- ヴィンセント・ミネリ監督との間に娘ライザ・ミネリ(Liza Minnelli 1946- )「キャバレー」など。
- シドニー・ラフトとの間に娘ローナ・ラフト(Lorna Luft 1952- )
- 息子ジョーイ・ラフト(Joey Luft 1955- )
女の子2人、男の子1人。
雨に唄えば (Singing in The Rain 1940)
「リトル・ネリー・ケリー」(Little Nellie Kelly)より。
「雨に唄えば」、そしてミュージカルと言えばジーン・ケリー(Gene Kelly 1912-1996)の恋人を家まで送ったあと土砂降りの中恋の歓喜を歌い踊るナンバーがまず浮かぶ。しかし元々の曲は1929年の映画の挿入歌。映画「ザッツ・エンターテイメント」では冒頭、1920年代・30年代・40年代・50年代の各時代に使われた「雨に唄えば」が流れる。1940年代として流れたのが映画「リトル・ネリー・ケリー」でジュディ・ガーランドが唄うのがこのナンバー。
「オズの魔法使い」はジュディーの才能を見せる映画というよりは童話の世界・ファンタジーの世界。歌もささやくように歌うナンバーが中心だった。「リトル・ネリー・ケリー」は今後のジュディ・ガーランドの方向性を模索する映画との側面もある。映画では母と娘の二役(母が「ネリー」、娘が「リトル・ネリー」キャラクターに合わせてトーンの違う歌を歌いわける)を演じ、役中、ジュディが死んでしまうシーンもある。 歌はヒラッヒラのフリルのガーリーなロングドレスを着て、髪にはリボンを付けて、にこにこ笑う。明るい・屈託のない可愛い女の子。
がバックバンドのオーケストラを従えて観衆の前で、ホットでジャジーでスイングしまくり、ビートきかせまくりで唄う。
ギャップがすごい!若くして幼くして培ってきた生まれながらの芸人魂がすごい!
あなたはどう? (How about You? 1941)
「ベイブス・オン・ブロードウェイ」(Babes on Broadway)より。
私は好みとして、ジュディの唄う曲は、スローにじっくり聴かせる曲よりはダイナミックに歌い踊る歌が好き。見せ場多いし。ジュディ・ガーランドは小さいときはとても可愛いがいわゆる「美人」ではない。ジュディ・ガーランドは「女優」ではなく「エンターテイナー」だ。自分が美人でないコンプレックスがクスリに走る一つの原因だった…が定説。この歌のシーン、正直動きはあまりない。しかし、歌うジュディ・ガーランドが、可愛いんだな~。美人なんだな~。容姿としてはこの映画のころが絶頂だった。モノクロ映画で、ほんのりとフォーカスがかかったようで、うるんだ目元とぽってりの唇。くるくる表情の動くベビー・フェイス。
正統派の美人ではなかったかもしれないが、十二分に魅力的だった。可愛かった。綺麗だった。を見てほしいので、この曲、この位置に持ってきました。
歌は「私は6月のニューヨークが好き。あなたは?私、ガーシュインが好きよ。あなたは?嵐の前の暖炉の側好き。ポテトチップス、お月様の光、ドライブ、読書、ルーズベルト大統領、映画館の中で手をつなぐこと。あなたは好き?」 ほぼジュディー・ガーランドの顔のアップであり、とてもとてもチャーミング&プリティー。ミッキー・ルーニー(Mickey Rooney 1920-2014)に歌いかけ、笑いかける姿は、超絶キュートです!
アラバマ行きの夜行列車 (When the Midnight Chooo-Choo Leaves for Alabama 1948)
「イースター・パレード」(Easter Parade)より。
ハリウッドミュージカルのNo.1スターは、フレッド・アステア(Fred Astaire 1899-1987)。1920年代から60年代まで、時代時代のトップの女性ダンサーとコンビを組み、トップハット&ホワイトタイのエレガントなタップダンスは洗練の極み。のフレッド・アステアとMGMのトップミュージカル女優の最初で最後のコンビ作が「イースター・パレード」。もともとはジーン・ケリーのための企画だった。ジーンケリーがケガして降板(くるぶしを骨折)。相手役のシド・チャリシー(Cyd Charisse 1922- 2008)も降りてしまい、引退するつもりだったフレッド・アステアが引っ張り出され、あまりのヒットに引退を撤回した。最初から最後まで名曲だらけ、見どころだらけのイチオシ映画の一つ。お話はちょっと「マイ・フェア・レディ」みたいで、クラブで歌っていた踊り子を拾ってコンビを組み、いつしか2人は愛し合う…。 アメリカの宝、アーヴィング・バーリン(Irving Berlin 1888-1989)の名曲がちりばめられた映画で、この曲は「真夜中のアラバマ行きの電車が出るわ。絶対乗るわ、いい人を見つけて幸せになる! 」と軽快なメロディに乗って、そしてジュディーは短いスカートをはいているので脚が見えるんですね。緩急自在のハリウッドミュージカルの2人の天才のパフォーマンス!
アイ・ラブ・ア・ピアノ (I Love a Piano 1948)
「イースター・パレード」から2曲め。
後半に若干フレッドアステアとのダンスもありますが、歌はジュディー・ガーランドのソロ。アップテンポで歌う。「私はピアノの音色が好き。弾かせても下手じゃない。鍵盤に指を滑らせるのが好き。パデレフスキーに弟子入りしたい。アップライト・グランドピアノ、みんな好き! 」
前のパートナーから、ソロで踊りたい、とコンビ解消を告げられたアステア。誰でもいいんだ、俺がスターなんだから、コンビは誰と組んでも同じ、と拾い上げた踊り子。知らず知らずのうちに前のパートナーと同じダンスを要求し、踊らせていたけれど。この子の個性に合った曲の方が、良くないか!? といきいきと、見事に、明るく楽しそうにこの曲を歌うジュディの姿を見て気づく。新しいスタイルのダンスで人気者になっていく二人。素直で愛くるしいジュディのキャラが全面に出ていて、次第に彼を愛するようになるけれど、彼が好きなのはやっぱり前のパートナーなのかもしれない…。と苦悩するさまが、またけなげなのです。ミニスカートのメイド服を着て歌う歌や、失恋の哀しみをバーテンダーに向かって歌い上げる歌。雨の中ナンパ!?されかかって歌う歌…。と正統派女の子のキャラ全開ですね。アウトテイクの秘蔵の曲もある。
イースター・パレード (Easter Parade 1948)
「イースター・パレード」から3曲目。
映画のフィナーレを飾る曲。
「胸ときめかせ待ちかねたイースターの朝、貴方はイースターの町の一番いい男」とジュディーはアステアに歌いかける。アステアはお約束のトップハット姿、ジュディーは白のロングドレス、ピンクの肘まである手袋、白の帽子。二人で腕を組み、花のNYの5番街を歩けば、カメラマンが2人を見つけて写真を撮って、雑誌のグラビアを飾る…。アステアは胸ポケットから指輪を出し、ジュディーは左手に指輪をはめて。そしてカメラはどんどん引いていき、ニューヨークの町が大俯瞰となって(1912年が舞台なので女性のドレスは裾が長い、五番街を埋める車はみなクラシックカー)映画は大団円のハッピーエンド。
情緒不安定でスタジオやスタッフを振り回したジュディ・ガーランドですが、こと「イースター・パレード」に関してはトラブルは伝わってこない。「神」アステアとの共演ゆえだったのでしょうか。映画も大ヒットしたし、続いての共演作として「ブロードウェイのバークレイ夫妻」「恋愛準決勝戦」と企画はあったものの、ジュディの不調により、どちらも途中降板。相手役の女優を変えて映画は製作・公開されている。
フォア・ミー・アンド・マイ・ギャル (For Me and My Gal 1942)
「フォア・ミー・アンド・マイ・ギャル」(For Me and My Gal)より。
ハリウッド・ミュージカルの黄金時代(1920年代、映画が音を持った頃から「ウエストサイド物語」が大ヒットする1960年代半ばくらいまで)の男性ダンサーは大人の洗練フレッドアステア、エネルギッシュでパワフルな踊りが信条のジーン・ケリーが双璧。ジーン・ケリーは舞台出身、映画初出演がこの作品。相手役がトップスターのジュディ・ガーランドなので、満を持しての登場。
お話は、ジュディーの弟が戦争(第一次世界大戦)に行ったり、ジーン・ケリーが徴兵されたり、慰問に行ったりと時代色あり。2人は芸人。花形劇場への出演を目指してコンビを組み、いつしか愛し合うようになり、一方、戦争の影は刻々と迫る。離ればなれになる2人だが、最後はもちろん、再会・ハッピーエンド。
2人ともヴォードビリアンの設定だから、歌とダンスのシーンに唐突感や違和感なし。ジーン・ケリーが背広、ジュディ・ガーランドは白いブラウスで、歌も「ベルが2人のためになる、結婚式が始まって、いつかマイホームには2人・3人・4人の子ども…」とのウェディング・ソング。初めはジュディがピアノを弾き、続いて2人は腕を組み、ともに踊る。
美男美女のナンバーで歌の内容も甘くほほえましく、演じる2人のキャラクターにピタリはまって見事であり、そして歌って踊るジュディーのプロポーションが見事だ! 8頭身に見える! 後年のステージ映像だと、5~6頭身くらいにしか見えないというのに! 人って、年を取ると、背が縮むのでしょうか、頭が大きくなるのでしょうか。
【コラム②】ジュディは「トラブルメーカー」? それとも「可哀相な女の子」?
輝かしいエバーグリーンの映画・歌とともに、トラブルメーカーとしての一面にも触れなければいけません。
MGMに入社したものの、ダイエットを厳命され、ダイエット薬として(弱めの)覚醒剤を、眠るために睡眠薬を「与えられた」のは有名なエピソード。
しかし真相としては、映画会社の責任としてしまうのには無理がある。 当時のカリフォルニアではアンフェタミンもセコナルも普通に市場に出回っていたし、ステージママだった母親も、娘の身を案じた様子はうかがえない。
対象的に思い出すのは、同じく子役スターとして20世紀フォックスを背負って立ったシャーリー・テンプル(Shirley Temple 1928-2014)。
(銀行の頭取の令嬢で、母親が才能を見抜いて映画界入りさせた。兄はFBIの幹部と海兵隊の士官)
そして歌う少女スターとしてユニバーサルの救世主となったディアナ・ダービン。
シャーリー・テンプルの子ども時代は 撮影は4時間。勉強は3時間。帰宅は14~15時ごろ。夕食まで近所の子供たちと遊ぶ。夕食後もごく普通に遊んだり家のお手伝い。寝る前は次の日の撮影の準備。 裏方や他の子役と接することは禁止。(悪い影響を受けたり危害を加えられることを恐れた)
両親と映画会社が大事な娘と、会社のドル箱を厳重に守った。 シャーリーテンプルは、子役からの脱皮こそならなかったものの、政治家・企業の重役・外交官と終生アメリカの名士として一生を終える。*1
アルコールも含め、薬物は生涯ジュディ・ガーランドについて回る。
性的に奔放であり、同性愛、今日的の言葉だとLGBTのアイコンでもある。
思春期にスターダムに上り詰め、身体的、精神的に会社にあるいは保護され、あるいは甘やかされすぎた。
金銭感覚が全くなく、MGM時代からの贅沢な生活は変わらず、晩年は税金を払わず(払えず)、泊まるところも食べ物にも事欠くまで行った。
自分の容姿や、太りやすい体質に悩まされ続けた。
「残念ながらジュディは(薬物を)自分で選んだのだ。」( ミッキー・ルーニー)
「私は(キャスティング・カウチに)手を染めたことはない。スタッフは、女優の人となりを見て、誘ったのだ。」(MGMの同僚の女優)
「誰にも(覚醒剤と睡眠薬を)すすめられたことはない。夜遊びはしたけど。時間には撮影所についていたし、仕事の準備はできていたもの。」(MGMの同僚の女優)
「ジュディ・ガーランドは良いときにはスタジオのために一財産稼いでくれたんだ。我々がしてやれるのは彼女にもう一度チャンスを与えてやることしかない」(L・B・メイヤー(Louis Burt Mayer 1884-1957))
「単に映画を作っていただけなんだ。アドバイスが功を奏さないなら、別の策を考えていった。ジュディを潰そうとしたわけじゃない。たまたま可哀相な結果になってしまったことは認めなければいけないが…。」(スタッフ)
娘のライザ・ミネリは、母の死を受け「ママはハリウッドを憎んでいた」「ママを殺したのはハリウッドだ」と公言した。…お母さんを亡くしたのです。気持ちはわかる。でも。
弱さともろさがあった。結果としてキャリアと人生を縮めた。
エピソードには事欠かない。
- MGMに入社直後、父を髄膜炎でなくす。終生、母親との間のわだかまりの溝は埋まらなかった。
- 覚醒剤と睡眠薬を常用しはじめたのはミッキー・ルーニーとコンビを組んだころから。
- 音楽家デビッド・ローズと恋に落ち、18才で内々に婚約。デビッドには妻がいて、離婚を待ち、19才で結婚。ほどなく妊娠するがMGMは次回作の撮影に差し支えるという理由で彼女に中絶を命じた。ジュディはやむなく当時のカリフォルニア州で違法だった堕胎手術を受けた。
- タイロン・パワー(Tyrone Power 1914-1958)やジョセフ・L・マンキーウィッツ(Joseph Leo Mankiewicz 1909-1993)、オーソン・ウェルズ(Orson Welles 1915- 198)との関係も取りざたされている。
- デビッド・ローズとは1943年に離婚した。原因はジュディのセックスの要求(おそらくは一般的でない)を拒否したことにあった。
- 薬漬けの生活と、スターとしてのプレッシャーから21才ごろから精神科医の診察を受けるようになる。
- ヴィンセント・ミネリと出会い、2人は同棲。ホモセクシャルであるミネリとの結婚に周囲は難色を示すが1945年に結婚。ハネムーン先のニューヨークで彼女は、二度と薬物を使わないことをミネリに誓った。
- 「踊る海賊」の撮影中、ジーン・ケリーへの対抗意識と夫とケリーの仲の邪推などから次第に薬の摂取量は以前よりも増し、副作用による神経症が現れ始め、偏頭痛や吐き気を理由に遅刻・早退・欠勤・すっぽかしを繰り返す。
プライベートサナトリウムに入れられ、撮影はなんとか完了したものの最初の自殺未遂。精神科療養所に入院。費用はMGM社が支払った。 - ハリウッドで絶大なペンの力を持つゴシップ・ライターのルエラ・パーソンズ( Louella Parsons 1881-1972)はに「ジュディはヤク中」と暴露されてしまう。
- 「ブロードウェイのバークレー夫妻(The Barkelys of Broadway 1949)」の撮影中、睡眠薬とモルヒネを含む不正に入手した錠剤と一緒に服用しており、アルコール依存症も進行していた。撮影は進まず主役を降ろされた。代役として起用されたのが、同作の主演のフレッド・アステアとかつてRKOでコンビを組んでいたジンジャー・ロジャース(Ginger Rogers 1911-1995)。これに気を悪くしたジュディは、完全なメイクと衣装でスタジオに乗り込んで、当たり前のような顔をしてリハーサルに挑むことで結果として撮影を妨害した。
- 映画「アニーよ銃をとれ(Annie Get Your Gun 1950)」では2曲のナンバーを撮影したところで病気がぶり返し(当時はうつ病のための電気ショック療法も受けていた)撮影中に明らかな精神異常に陥ってしまい、またも降板。再び薬物中毒の治療を受け、退院すると「アニ-よ、銃をとれ」のセットへ乗り込み、挨拶したベティ ・ハットン(Betty Hutton 1921-2007)に暴言を浴びせかけたという。
- 「恋愛準決勝戦(Royal Wedding 1951)」降板。
- 契約条件を守れない。ついに1950年、解雇される。
- 再びの自殺未遂。見舞いに訪れたL.B・メイヤーに借金を申し込み、メイヤーは個人的にジュディの借金を肩代わりする。
- プロデューサーのシドニー・ラフトと恋に落ちるがミネリ監督との離婚調停中だった。51年に妊娠するが中絶。55年に娘ローナ、55年に息子ジョーイを産む。
- 「スタア誕生」でオスカーを逃し、彼女の私生活は再び荒れはじめる。
ラフトとの13年間の結婚生活の間、20回近く自殺未遂を繰り返す。
ラフトもジュディに暴力をふるい、子どもたちを自分から引き離そうとした、と後にジュディは主張した。 - テレビ出演を果たすがトラブルでCBSとの契約も打ち切り。経済的な窮地に陥る。
- 1959年に肝炎で入院。肝機能の低下で余命は五年とされた。
- 薬物中毒と神経症はさらに悪化。逮捕されることはなかったものの、FBIはジュディを監視。
- 1964年5月のオーストラリア、メルボルン公演では、開演を大幅に遅らせ、歌うこともできず、帰国途中の香港で自殺未遂。
- マーク・ヘロンとの恋に落ち、式はあげたがラフトとの離婚はまだ成立していなかった。離婚成立後、正式に結婚するが、6か月で離婚。
- 1965年ロサンゼルスでのコンサートをキャンセル。友人や業界からも完全に見放され、仕事も来なくなる。
- 1967年映画「哀愁の花びら」の出演が決まるが撮影トラブルのため降板。
- 薬物やアルコールによる攻撃的な言動が増えていく。
- 税金の督促やコンサートのキャンセルの訴訟も多く、処理する弁護士・エージェントへの支払いもできす、借金が膨らんでいく。食べる物にも事欠き、ホテルのブラックリストに載り、住む場所もない。
- 一晩100ドルでナイトクラブで歌っったりしていた。
- 死の3カ月前、5番目の夫、ナイトクラブ・マネージャーのミッキー・ディーンズと結婚。
マック・ザ ブラック (Mack the Black 1948)
「踊る海賊」(The Pirate)より。
ジュディーとジーン・ケリーは年回りも丁度よく、3作コンビを組んでいる。「フォア・ミー・アンド・マイ・ギャル」「サマーストック」そして「踊る海賊」。ジュディーのソロナンバーが「マック・ザ・ブラック」。
コスチューム・プレイ。「海賊もの」は当時のハリウッド映画で好評だったジャンルで、設定がエキゾティックかつワイルドなのでミュージカルでも見せ場を作りやすい。
カリブ海のほとりの町のお姫様がジュディ・ガーランドで、海賊に憧れている。姫に恋した旅回りのマジシャンが姫に催眠術をかけ、好きな男の名前は!? と訪ねると、トランス状態の姫君は「カリブ海を牛耳るマック・ザ・ブラックに夢中」と歌い、踊る。あやしく燃えるたいまつの光のもと、「海賊はラム酒を浴びるように飲み、黄金も宝石も女もとり放題…、そんなマココが好き、ずっと待っているの」結った髪はほどけ、近寄る男を突き飛ばし、陶酔しながら恋する男を歌う。赤い長いロングスカートとブロンドがひるがえり、歌声は強く激しく情熱的。催眠術で自分を好きにさせる気でいたジーン・ケリーは呆気にとられ、続いてお姫さまのパフォーマンスに見とれ、さらに惚れ直すのです♪
ゴッタ・ハブ・ミー・ゴー・ウィズ・ユー (Gotta Have Me Go with You 1954)
「スタア誕生」(A Star Is Born)より。
ジュディーの起死回生のカムバック映画「スタア誕生」の前半のナンパー。 ジュディー・ガーランドは、基本「一曲入魂」のタイプなので、ひとつひとつのナンバーがよく言えば見応えがある。逆に言えばサラッと見られるものがあんまりない…。このナンバーは、重い重い内容の映画でありながらジュディーのスタイリッシュなパフォーマンスが堪能でき、さらにコメディ仕立てなので見ていて楽しい。
新進のミュージカル女優がセレモニーの前座に立つ。ステージの袖にアルコール中毒の酩酊した大スターが乱入してくる。スタッフは必死で止めようとするが手をふりほどき、舞台に乱入。上演中の3人は気が気じゃない。ついにはスポットライトを浴びてしまい、仕方がないのでなんとかアドリブでコトを納めようとして観衆は笑いのうず。
「スタア誕生」の時、ジュディーは30代前半なので、脂の乗りきった女盛り。トリオで踊り、衣装は燕尾服を思わせる黒のジャケットと、きれいな脚を見せる深ぁ~い切れ込みの入った黒のタイトスカート。マニッシュな衣装でセクシーを感じさせる衣装は、No.1、サマー・ストック中の「ゲット・ハッピー」を頂点として、後の映画でもステージでも全開で、そのたびに観客を魅了した。
ユー・メイド・ミー・ラブ・ユー (Dear Mr. Gable(You Made Me Love You)) 1937
「踊る不夜城」(Broadway Melody of 1938)より。
子役時代の歌で、「オズの魔法使い」の前の作品。子ども離れした歌唱力が注目を浴びる、というよりは、クラーク・ゲーブル(Clark Gable 1901-1960)が大好きな小さな女の子(14才)が、夜中に起き出して、自分の机の上に大事に飾ってあるクラーク・ゲーブルのブロマイドやカードを見ながら「dear mr, Gable…」と歌い出し、ファンレターの文面を歌いあげる。「ユー・メイド・ミー・ラブ・ユー」自体もオリジナルではなく、初出は1913年。そして後年、「ザッツ・エンターテインメント」にも採用!?され、ジュディーの歌が流れるとハリウッドの ”キング” こと、クラーク・ゲーブルさまの世の女性の心をかき乱した数々の映画の姿が次々とオムニバス映画形式で映し出される。(オリジナル「踊る不夜城」ではジュディーが歌うシーンのみ)
最後に「ユー・メード・ミー・ラブ・ユー! 」とネグリジェを着た女の子が高らかに大スターへの恋心を歌う一途さとかわいさと、歌のうまさ。
オールスター出演のレビュー映画で、クレジットは7番目。もちろん、この歌も充分な成功作。出世作。「オズの魔法使い」の成功が巨大すぎたのでかすんでしまいがちですけど。今やこの映画も、この歌も「ジュディ・ガーランドが「ディア・ミスター・ゲーブル」を歌った映画」で通っているところがまたすごい。
心の弦をかきならせ (Zing! Went the Strings of My Heart 1938)
「リッスン・ダーリン」(Listen, Darling)より。
もともとは1934年のヒット曲。1935年、ジュディ・ガーランドがMGM社のオーディションで歌ったのがこの曲。歌のうまさに驚嘆したタイクーンが即座に採用を決めた。改めてこの歌を見せ場につかった映画が作られた。歌そのものは小品の趣で、お母さんは娘の歌を聴きながらこみ上げてくるうれし涙。観衆もみな歌に聴き惚れ、歌が終わると万雷の拍手。
「虹の彼方に」「トロリー・ソング」「ユー・メード・ミー・ラヴ・ユー」と「Zing! Went the Strings of My Heart」の4曲は、ジュディのMGM時代を象徴するスタンダード曲。シンボリック曲。映画ではスローテンポでかわいい女の子がささやくように歌っていますが、ステージではアレンジを変え、アップテンポで熱唱したりする。ファンはやっぱり、子役時代の、映画時代の夢を求めていた。曲そのものも、名曲として、スタンダードとしてジャズの楽曲としてアレンジされたり、ポップス歌手がカバーしたりしている。(有名どころではフランク・シナトラ(Francis Sinatra 1915-1998))
ドゥ・ザ・ラ・コンガ (Do the La Conga 1940)
「ストライク・アップ・ザ・パンド」 (Strike up the Band)より。
歌もいいんですが群舞とダンスをみてほしい!バズビー・バークレイ(Busby Berkeley 1895-1976)監督作品。ブロードウェイの舞踏監督から映画界入りしカメラを俯瞰に構え、大人数のエクストラを使い、「映像の魔術師」と呼ばれた。美女を何百人も並べ、ポーズを取らせて上から撮影。脚が一斉に動くとまるで万華鏡のよう…といったスタイルは、一世を風靡した。ミュージカル映画をどこからどんな風に撮影するか。のセオリーを最初に完成させた監督と言って差し支えない。 全盛期は1930年代ですが1950年代まで監督・振付作品は続く。
ミッキー・ルーニーとコンビを組んだ映画は、いわゆる「裏庭ミュージカル(Backyard Musical)」(ティーンエイジャー・高校生が「僕たちでミュージカルを作ろう!」と盛り上がる。タグ付けとしては「#青春映画」と「#ミュージカル映画」。) 5分に及ぶ、なんとワンテイクで撮影された歌と踊りのこのナンバー、リハーサルは13日間。エキストラのダンサーは100人以上。かかった費用は当時で94,000ドル!ラストシーンのジュディの胸の谷間に目がテン!高校生が、これで、いいのぉ~!ってかんじ。
「雨に唄えば(Singin' in the Rain 1952)は」の「ブロードウェイ・バレエ」、「巴里のアメリカ人(An American In Paris 1951)」の「巴里のアメリカ人バレエ」、「バンド・ワゴン(The Band Wagon 1953)は」の「ガール・ハント・バレエ」と、ハリウッドミュージカルのお約束、豪華な豪華な、ストーリーのある長尺のダンスシーンへと続いていく。
スイングでワルツ (Waltz with a Swing/Americana(Opera Vs. Jazz)) 1935
アメリカーナの少女(Every Sunday)より。
1930~40年代のハリウッドを引っ張った歌える2大少女スター、ジュディ・ガーランドとディアナ・ダーピン(Deanna Durbin 1921-2013)の唯一の共演作。2人はMGMのオーディションに合格したが、おいそれと役は付かない。2人も歌手はいらないだろう。とテストがわりにつくられた11分の小品。ディアナのクラシックとジュディのジャズのコラボは大成功で会場の公園は観衆で一杯に!
2人とも引き続き使うべきか、と迷っているうちにダービンの契約期間が切れ、落とされた、と思ったか思わなかったのか、すかさずダービンはユニバーサルと契約、「天使の花園(Three Smart Girls 1936)」「オーケストラの少女(100 Men and a Girl 1937)」とビック・ヒットを飛ばしてジュディーの先を走ることになる。
しかし少女役から大人役への脱皮が果たせず引退してしまう。フランスに渡り、何不自由ない生活を送り、天寿をまっとうした…。と、人間万事塞翁が馬を地で行っている。何が幸せなのか。考えさせられます。
【コラム③】ジュディ・ガーランドは愛され続けている
歌唱力
高く響き渡るクラシックではなく、アルト。「ベルベットのような」と称された。音域はさして広くなかったが子役時代は素直に伸びやか、全盛期ともまた違う完成された声で、声も透き通り、パワーがある。 キャリアを重ねるにつれ、声にはより艶やかに伸びる。
そして表現力。ポップス・オールデイズ・ソウル・ブルース・ジャズ。物まねなども非常にうまかった。
何気に歌う系だと「オズの魔法使い」の「虹の彼方に」。
主役をきっちり立てて歌うしっかり者の女の子ならミッキー・ルーニーとのデュエット。
ハリウッドの黄金時代の遺産に触れたいのであれば 大人数のエキストラ・大規模なセットの「アンディ・ハーディーシリーズ」のクライマックス「ドゥ・ザ・ラ・コンガ」のダンスや「ハーヴェイ・ガールズ」の「アチソン・トピカ・アンド・サンタフェ」。 はつらつ元気な女の子なら「若草の頃」の「トロリーソング」。
かわいい、純真な女の子系の歌だと「イースター・パレード」の「I Was Born In Michigan 」とか。
ハリウッド女優にふさわしい豪華なパフォーマンスなら「Till The Clouds Roll By(1946)」の 「Who? 」。
ミス・ショービジネス、女アル・アルジョルスンのパフォーマンスなら 「スタア誕生」の「Born In A Trunk Medley」とか、カーネギーホールでのコンサートのライブ映像とか。
ユーモラスな曲なら「イースター・パレード」の「A Couple of Swells」や「踊る海賊」の「Be A Clown」、
ジャズ歌手としてなら「雨に唄えば」。
せつせつと歌い上げる系だと、代表曲は「若草の頃」の「The Boy Next Door」など。
ダイナミックかつセクシーなら「ゲット・ハッピー」。
失恋の歌なら「Girl Crazy (1943)」の「But Not For Me」や「イースター・パレード」の「Better Luck Next Time 」。
映画出演以外だと、初期の頃のラジオ出演やレコーディング。 でも、音質が良くないんですよね~。やっぱり。
エンターテイナー時代は、声が若いころより太く低くなる。テレビだと気負いやてらいなく、声を張り上げることもしなくていいし、かえって完成度は増していると聞くこともできる。
映画で入手しやすいのは「オズの魔法使い」「スタア誕生」「イースター・パレード」。
いわゆる脇役・悪役・意地悪な役を演じていない。
鮮やかではっきりとしたパワフルで豊かで甘い声。柔らかなバラード。デュエットのユーモア。驚異的・劇的な、強力なビブラート。
動き
歌が上手なのは肉体の条件に左右されるから半分は天賦の才能。プラス勘が良いから上手に歌える。演技とダンスもしかり。普通のセリフのシーンから歌やダンスに映る間合いがとってもナチュラルなんですよね~。
ミッキー・ルーニー、ジーン・ケリー、フレッド・アステア、と時代を代表するダンサーと共演しているので、一緒に踊るのは正直分が悪い。しかし見る人が見るとここにも天賦の才能が。さして難しいステップではないのですが、軽やかに踊る。苦労してダンスの基礎から学んだ人よりも地面のつかみ方が上手い。
出演する映画はミュージカル。ライト・コメディ系統。コメディーセンスが良い。(コメディーセンスの良い人って、往々にしてメンタルで苦労するんですよね~。この点も言ってはいけないのかもしれませんが王道を歩んだと言えないこともない)軽やかななめらかな動き。
そして生涯主役を貫いた人だけど、正統派のヒロイン(オペラみたいに命をかけた恋に身を焦がし命をかける)の立ち位置とはちょっと離れ、小さい時から頑張ってる素直で明るいキャラクター、生まれついてのボードビリアンなので、ロングドレスで優雅に歌い踊るよりも、熱唱したり、パンツスタイルでコミカルなナンバーを披露したり、楽しく生き生きとしたパフォーマンスが持ち味。胴が短くて脚が長い。首があんまりキレイではないので、グラマーとはちょっと路線が違うのですが、女性らしさは充分に持ち合わせているし、セクシー。
ダンスの頂点は、難しいのですが。 青春映画時代は10代の女の子らしいはつらつとした動きが見ていてほほえましいし、 MGMのトップスターとして君臨した時期は成熟した女性らしさが加わり。 フリー時代はキレと鮮やかさで勝負。 後期は、30~40代となり、テレビショー・ライブ映像では本気で踊ってる、軽く踊っているの差は見て取れる。映画に出なくなったのがかえすがえすも惜しい。 晩年は明らかに衰え、立つのもやっとの状態で。痛々しい…。まだ40代だったというのに。
コミュ能力の高さ
上手い・上手い人。そして天才。であると同時に、演じたキャラは男性キャラによりそい、一歩引く。健気で清純派・純情派であり思慮深くまわりを見据え、思いやる。それでいて明るく勝気。新しいキャラクターだった。地のままなのか、演技とダンスとパフォーマンスの持ち味なのか、スクリーンのジュディはのっぺりしたヒロインではなく、重層的なんですよね。明るいだけではない。
青春映画時代のミッキー・ルーニーは大人になり、自分の演じきれるキャラクターに悩み、キャリアは続いたものの苦労が多かった。
同時代のラナ・ターナー(共演して仲良しになり、2人ともおしゃれして連れ立って、マレーネ・ディートリッヒの行くお店に出かけて行って、話かけてもらって、どぎまぎしながらも有頂天だったとか。2人とも、可愛いなあ^^)
をはじめとする若さやセクシーさを看板に掲げ、後から若手が次から次へ出てきて押されていくあたりと比べ、ジュディ・ガーランドの偉大さが一層浮かび上がってくる。
うまれながらのエンターテイナーの精神、美声と表現力の豊かさ、そして楽しい映画の安心してみていられる等身大の気取りのない、飾り気のないキャラクターの奥底にたしかにある核。 がありがちなあまたのスターとは明らかに異なる。だから、晩年まで一貫して大衆に支持され続け、死してなお、いくら時が流れようとも、悼む言葉、寄せられるオマージュは絶えることはない。
最後に番外・別格を。
スワニー (Swanee 1954)
「スタア誕生」(A Star Is Born)より。
アメリカが産んだ大作曲家、ジョージ・ガーシュイン (George Gershwin 1898-1937)の名曲。
ジュディ・ガーランドの敬称!? 別名!? は「ミス・ショービジネス」と「女アル・ジョルスン」。アル・ジョルスン(Al Jolson 1886-1950)は1920~40年代にアメリカで絶大な人気を誇った歌手。映画が音を持った。トーキーになり、押しも押されぬ第一人者の現役の大スターは映画出演のオファーを受け、「観客は?」とたずねる。「何百万。」「それは未曾有の聴衆だ。」と初のトーキー映画「ジャズ・シンガー(The Jazz Singer 1927)」出演し、おはこの「スワニー」を歌った。スタイルとして声を張り上げ、シャウトを交え、パワーで押し、ゼスチャー・アクションが大きい。とジュディ・スタイルに共通する部分があり、大大スター、アル・ジョルスンにあやかって、「女アル・ジョルスン」との異名がついた。女アル・ジョルスンが本家アル・ジョルスンの、映画人にとってはシンボリックな名曲を歌う。
誰もが認めるジュディ・ガーランドのテーマ曲の1つであり、映画「スタア誕生」の中でジュディその人と重なるヒロインの半生をステージで披露し、クライマックスで歌い踊った「スワニー」が一番若い、残された映像。ステージでの熱唱・ライブ・テレビ番組・レコーディングと、音源はいくつもあります。
サンフランシスコ (San Francisco 1961)
アルバム「ジュディ・アット・カーネギーホール」(Judy at Carnegie Hall)より。
舞台人としてのジュディ・ガーランドは、のっている時は素晴らしい!ロンドン・パリ・ドイツ・アムステルダム・カーネギーホール…。体調を崩したあとは、太ってしまったり、悲惨にやせ衰えて声もろくろく出なかったり。好調不調の波が大きいので、You Tubeの画像など見るときは年代だけはチェックするべき。
「サンフランシスコ」はもともとは映画「桑港(San Francisco 1936)」の挿入歌で、主演女優はジャネット・マクドナルド(Jeanette MacDonald 1903-1965)。舞台映えのする雄大な曲なのででコンサートのクライマックスに歌われる。レコーディングも残されている。冒頭「ジャネットを絶対に忘れない。廃墟の中から立ち上がって歌った!」と始まり、最後の「accross the bay~」で転調し、もうどこにも行かないと誓い、「San Francisco, here! I! come!」で観客は空を飛び、空からサンフランシスコの壮大な風景を感じることができる。歌声で。
正直、ステージのジュディは、私は痛々しくて、見ていて辛くなってくるのですが、歌の吸引力は超超すごい!ちなみに、サンフランシスコを歌った有名な曲、「I left my heart~」からはじまる歌もありますね(想い出のサンフランシスコ)。2曲とも、サンフランシスコの市の歌。 もらいうけて!?正式に定められた。
1969年6月22日、滞在先のロンドンで死亡。 遺体はニューヨークに運ばれ、葬儀には22,000人以上が参列した。 ニューヨークのファーンクリフ墓地に葬られ、遺骨は2017年、ロサンゼルスの ハリウッドフォーエバー墓地に移されている。
受賞歴
1939年 | アカデミー子役賞 |
1940年 | マネー・メイキング・スター 10位 |
1941年 | マネー・メイキング・スター 10位 |
1945年 | マネー・メイキング・スター 8位 |
1952年 | トニー賞特別賞 |
1954年 | 『スタア誕生』 アカデミー主演女優賞ノミネート ゴールデン・グローブ賞主演女優賞 |
1961年 | 『ニュールンベルグ裁判』 アカデミー助演女優賞ノミネート ゴールデングローブ賞最優秀助演女優賞ノミネート |
1962年 | 『ジュディ・アット・カーネギー・ホール』 最優秀アルバム賞 最優秀女性歌唱賞 |
1962年 | ゴールデン・グローブ賞 セシル・B・デミル賞 |
1962・4年 | 『Judy Garland Show』エミー賞ノミネート |
1997年 | グラミー賞特別功労賞 (生涯業績賞) |
2004年 | アメリカ映画主題歌ベスト100 1位 Over the Rainbow 11位 The Man That Got Away 26位 The Trolley Song 61位 Get Happy 76位 Your Merry Little Christmas |
グラミー賞殿堂入り |
1981年 Over the Rainbow |
*1:「オズの魔法使」の当初の主役は20世紀フォックスから同社の看板スターで、国民的子役のシャーリー・テンプルを借り受けて起用する予定だった。MGMの大プロデューサー、アーサー・フリード(Arthur Freed 1894-1973)(「雨に唄えば」「バンド・ワゴン」など)は自分のオフィスに当時11才のシャーリーを招き入れ面接をした。その際にフリードはスボンを下ろし陰部を彼女に見せるというセクハラ行為を行ったが、大スターの彼女は大笑いして彼の性的な誘いを拒絶したため、フリードは激怒しオフィスからシャーリーを追い出した。このセクハラ事件は20世紀フォックスを激怒させ、「オズの魔法使」の主役を演じる話は頓挫したエピソードを、フリードが死んで十数年後にシャーリーが伝記内で暴露した。 フリードはキャスティング・カウチ(セックスをした相手に役や契約を回すこと)や、大人の女優以外に子役にも手を出すロリコンでもあり、当時13才のジュディ・ガーランドとも性的関係をもっていた。