ひとみにカルチャーショックを。

旅行・グルメ・美容をメインに綴る女性向けの趣味ブログ

洋画の歴史に残るおすすめ映画男優をあげていく。ただし1935年生まれまで。

正統派、演技派、個性派、脇役、存在感。イケメンあり、男くささあり、渋さあり。都会派、田舎派、筋肉派。ラブシーンに見ほれ、アクションシーンにカタルシス、男気にひれふず。夭折あり、ご長寿あり、零落あり、栄耀栄華あり。時代時代に人気のあった古今東西の映画俳優さんを紹介します。

 

※200名弱、紹介する予定です。少しずつ更新していきます。

よろしかったらこちらもどうぞ。

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あ行

アーネスト・ボーグナイン(Ernest Borgnine 1917-2012 米)

Ernest Borgnine 1917-2012

…阿吽の狛犬のような縦につぶれた顔。イタリア系です。ハードな見た目にふさわしい、アクの強い役が似合う。映画をピリリと引き締め、見た目の迫力半端ない。
ハワイの米軍基地でひよっこのフランク・シナトラをいじめて殺してしまう、情け容赦ない上官役は『地上より永遠に』(From Here to Eternity 1953)。映画史上に残る波打ち際のキスシーンと対をなす。
豪華客船の沈没とサバイバルを描いた名作『ポセイドン・アドベンチャー』 (The Poseidon Adventure 1972)のクレジットはジーン・ハックマンに続き堂々のNo.2。ニューヨーク市警察の刑事役。
オスカー役者。受賞作は『マーティ』(Marty 1955)。見た目に自信のないブロンクスの肉屋さん。好きな女のコができても、相手のコもいまどきの言葉で言えばコミュ障ぎみ。不器用な、非美男非美女のラブストーリーはロマンチックで、ハートウォーミングで涙ウルウルもの。最高かつ完璧!
カンヌ国際映画祭最高賞のパルム・ドールとダブル受賞。『パラサイト 半地下の家族』(2019年)と同じですよ!
結婚は5回。『真昼の決闘』の鉄火肌の酒場女ケティ・フラド、「ブロードウェイの女王」と呼ばれた大々々エンターテイナー、エセル・マーマンとも結婚していたこともある。
役者冥利につきる生涯を送った俳優さん。

 

アドルフ・マンジュー(Adolphe Menjou 1890-1963 米)

キャリアが長い! サイレントの時代からトーキーの波も難なく乗り切り、として、切れ目なく40年にわたって出演作がある。巨匠監督作品や名作に幅広く顔を出していて、見つけやすい。
ハリウッドきっての主役を食う名バイブレーターとして、そしてベストドレッサー、洒落者としても有名。チャップリンの出ないチャップリン監督のシリアスドラマ、『巴里の女性』(A Woman of Paris 1923)に出たくて、頭の先からつま先までビシっと決めて、チャップリンの行くレストランで食事をとり、声がかかるのを待ったんだとか。
映画デビューは30歳を過ぎてからで、わかりやすい、グリースで固めた口ひげは悪役のサイン。キザで優雅な物腰とファッション。時代はトーキーへと移り、年輪を重ねたところで丸くなり!?「口ひげを伸ばした柔和なおじさま」へとイメージチェンジ。美人女優の傍らに立つ洗練させたお姿を見ることができる。
人柄は見た目どおり、博識で温和だけど、辛辣なトコもある。資産運用にもぬかりなく、思想は右より。
代表作はほかに『モロッコ』(Morocco 1930)、『オーケストラの少女』(One Hundred Men and a Girl 1937)など。全盛期は1920~30年代。

 

アラン・ドロン(Alain Delon1935-  仏)

Alain Delon1935-

1970年代、アラン・ドロンと言えば日本では美男子の代名詞。本国、フランスを上回る、熱狂的かつ絶大な人気がありました。
翳りある、完璧な容姿を武器にのしあがった男優。出世作、『太陽がいっぱい』(Plein Soleil 1960)の、裕福な青年の命を奪い、後釜に座る。コンプレックスとプライドと野心をみなぎらせた青年を演じ、一気に世界のスターの仲間入り。大監督の作品にも次々と起用され、ハリウッド映画にも進出。甘い二枚目にとどまらず、意欲作、問題作にも積極的で、フィルモグラフィーのジャンルは幅広い。
日本での人気は、『レッド・サン』(Red Sun 1971)で共演した三船敏郎との出会いが大きい。ドロンは「世界のミフネ」に心服し、ドロンの日本のTVCM出演につながっていく。
代表作の一つ、『サムライ』(Le Samourai 1967)のタイトルにも日本への心酔が感じられ、自身がプロデュースした香水も、「サムライ」。
女性遍歴も当然華やかで、浮名を流した相手はロミー・シュナイダー、ナタリー・ドロン、ミレーユ・ダルク、モデルに歌手。子供は男の子3人、女の子1人。
功成り名を遂げた。マリリン・モンローは傷つき、消えていった。アラン・ドロンは勝ち抜いた。集中力と気迫で世界をねじ伏せた。

 

アラン・ラッド(Alan Ladd 1913-1964 米)

Alan Ladd 1913-1964

 

「シェーン! カムバ~ック!!」の声が西部の大平原に響き渡る。日本で最も愛された西部劇映画、『シェーン』(Shane 1953)が代表作。
流れ者がやってきて去っていく。紳士的で静かで控えめ、終始感情をコントロールしている。自分はこんなことしたくないんだが、と淡々と決闘に挑み、圧倒的な強さを見せる。日本人好みのキャラクター。
クールなブロンドの美男子。デビュー作の『拳銃貸します』(This Gun for Hire 1942)続く『青い戦慄』(The Blue Dahlia 1946)でハードボイルドスターの地位を確立。
『シェーン』で一流スターの仲間入りを果たすものの、背の低いことがコンプレックスで、人前には滅多に姿を現さない。背の高い女優と一緒のシーンのときは、台に乗ったり、女優は穴を掘った中に入らなければならない。背の低い名優なんていくらでもいるのに。プライドをズタズタにされても、映画会社の指示には、逆らわないんですね。もの言わず与えられた役をこなし、良き家庭人としてきちんとインタビューに応じる。
晩年は仕事も来なくなり、多くのスターの例にもれず、アルコールに溺れ、睡眠薬の常用者となり、50歳の若さで亡くなってしまった。
唯一の救いは、子供たちでしょう。息子が2人。2人とも大スターの父親の名声を乗り越え、ハリウッド映画人として大成した。(製作者)

 

アル・ジョルスン(Al Jolson 1886-1950 米)

Al Jolson 1886-1950

映画が音を持った。当時のブロードウェイの大スターだったアル・ジョルスンを招聘し、作った映画が『ジャズ・シンガー』(The Jazz Singer 1927)。「Wait a minute, wait a minute. You ain't heard nothin' yet! (「待ってくれ、お楽しみはこれからだ!」)気迫のパフォーマンスで、映画は大ヒット! 映画はトーキーへと移り変わっていくのです。
今みると、身振り手振りが大げさすぎる気がしないでもない。でも、もともとは舞台人だし、動きが大きくないと観客には見えない。ミンストレル・ショーと呼ばれる、顔を黒く、唇を白く塗って行われるパフォーマンスは、アメリカ建国後、大衆芸能の一分野だった。アル・ジョルスンは時代に合わせ、大道芸を洗練させ、一時代を築き、映画出演によって国民的人気歌手の座につく。
ブリキ板みたいに固く・高く、張り上げる声とオーバーアクション。残された映画は、人種差別はまかりならん、の目で見ればよろしくないのでしょうが、貴重な時代遺産であることは間違いない。
続く『シンギング・フール』(Singing Fool 1928)も大ヒット。のちに作られた『ジョルスン物語』(The Jolson Story 1946)では、歌う場面はアル・ジョルスン本人の声で吹き替えられた。
代表曲はジョージ・ガーシュウィンの「スワニー」(Swanee)。

 

アルベール・プレジャン(Albert Prejean 1894-1979 仏)

Albert Prejean 1894-1979

戦前のフランス映画の名作、ルネ・クレール監督の初トーキー映画『巴里の屋根の下』 (Sous les toits de Paris 1930) 、ジュリアン・デュヴィヴィエ監督『商船テナシチー』 (Le Paquebot Tenacity 1934) の主演男優。
役柄は、市井に暮らす、元気なパリジャン。『巴里の屋根の下』では路上で歌をうたい、楽譜を売っている。気になる女の子ができて、町の仲間が女の子を誘い、奮闘する切なさ、甘酸っぱさ。撮影はロケではなく、スタジオでセットを組んだものですが、90年前のパリやパリの下町の情緒は、もう、本物のパリにも残っていないんだろうなあ…。
『商船テナシチー』は、食い詰めた2人の若者が移民船を待つ。船に乗ったはいいが故障で港に引き返す。待ちの宿で仲良くなった女の子に再開し、1人は手に手を取って駆け落ち、友だちと好きな女の子に捨てられた男は1人移民船にのって旅立っていくラストは人生とは何ぞや、と深い感銘を呼ぶ。
第二次世界大戦中は政治色のない映画を、と『署名』(Picpus 1943)でメグレ警部を演じている。
アルバート・プレジャンは第一次世界大戦中は空軍パイロット。スタントマンから映画界入り。
当時のトップ女優との共演作も数多い。

 

アレック・ギネス(Alec Guinness 1914-2000 英)

Alec Guinness 1914-2000

1950年代後半から60年代にかけて、壮大なスケール・重厚なストーリー、巨大スクリーンに繰り広げられる端正な映像美の超大作・大河ドラマをつぎつぎと生み出したイギリス映画の巨匠、デヴィッド・リーン監督絶頂期の『戦場にかける橋』(The Bridge on the River Kwai 1957)では捕虜のイギリス人将校、『アラビアのロレンス』(Lawrence of Arabia 1962)ではアラブの王様を演じ、以後名優の名をほしいままにした。
知性派で演技派。舞台出身でどんな役でも演じられる。カメレオン俳優とも異名をとり、初期の映画では細面で細身、目がギョロギョロしててひたすら不気味だったりする。一番得意なのは実は英国流ブラックユーモアがきいたコメディ路線だったりする。真面目な顔してかっ飛んだ演技の佳作はいくつもあるのですが、超大作の前には、どうしても出てくる、話題に上ることが少ないのが、惜しいといえば惜しい。
本人は嫌がっていたそうですが『スター・ウォーズ4・5・6』(Star WarsEpisode IV・V・VI 1977・1980・1983)のオビ=ワン・ケノービを見ていると、年をとればとるほどいい顔になってる。ウットリしちゃう。

 

アンソニー・クイン(Anthony Quinn 1915-2001 墨)

Anthony Quinn 1915-2001

メキシコ生まれ。子どものころにカリフォリニアに移住。「獣のような男くさい男を演じさせたら天下一品。」
エキゾチックな容姿はキャリア前半はエトランゼの悪役が通り相場。
30代後半を過ぎたあたりから作品に恵まれ始める。ブロードウェィの舞台での成功を経てメキシコ革命の英雄の兄を演じた『革命児サパタ』(Viva Zapata! 1952)でアカデミー助演男優賞と獲得し、名バイブレーターの地位を確立。ステレオタイブの役柄から脱却すべく、イタリアに渡り 粗暴さの中に悲しみすら感じさせた大道芸人『道』(La Strada 1954)、 『アラビアのロレンス』(Lawrence of Arabia 1962)ではアラブの首長。『その男ゾルバ』(Zorba the Greek 1964)で主演男優となり、映画のラストシーンでは、若き作家に「ギリシャの踊りを教えてくれ」と頼まれ、クレタ島の大自然を大地に男2人が踊るシーンは必見!
メキシコ・イタリア・フランス、ギリシャ、アラブ、ルーマニアと多国籍の役柄を難なく演じて味がある。ありすぎる。
身長185cmの巨漢。顔も大きいし体も大きい。人間味にあふれた役柄と演技は好感度抜群でテレビに映画に晩年まで精力的。私生活もエネルギーとバイタリティいっぱいで子どもは13人。一番下の子どもが生まれたのは81歳。

 

アンソニー・パーキンス(Anthony Perkins 1932-1992 米)

Anthony Perkins 1932-1992

コロンビア大学を卒業して映画界入り。甘いマスクで小顔。背が高くて細身。手足が長くて肩幅が広い! ジェーン・フォンダの映画デビュー作のトップ・クレジットはアンソニー・パーキンズ(『のっぽ物語』(Tall Story 1960))。映画は内容はさておき!? キャンパスの恋物語だからアイビーファッション全開で、何を着てもとにかくかっこいい!!
オードリー・ヘップバーンの相手役(『緑の館』(Green Mansions 1959))、イングリッド・バーグマンの相手役(『さよならをもう一度』(Goodbye Again 1961))もつとめており、略して”トニパキ"は人気絶頂の青春スターだった。
28歳で出演したアルフレッド・ヒッチコック監督の生涯の代表作となった『サイコ』(Psycho 1960)でエキセントリックな犯人役を演じ、あまりにも映画そのものが圧倒的なのか、アンソニー・パーキンスの演技が真に迫りすぎたのか、はたまたアンソニー・パーキンスの奥底の内面の闇が白日の下にさらされてしまったのかと勘繰りたくなってしまう。「青春スター」のイメージは、「あの『サイコ』の…」と180度変わってしまう。
HIV合併症でわずか60歳で亡くなるなで、キャリアの後半はナイーブすぎたメンタルとスキャンダルが先行し、失速。
「美の壺」なんか見ていると「アンソニー・パーキンズも、草刈さんみたいに年を取れたらよかったのに」とつい重ねて見てしまう。

 

E・G・マーシャル(E. G. Marshall 1914-1998 米)

E. G. Marshall 1914-1998

映画の世界では名脇役。代表作はヘンリー・フォンダ主演の『十二人の怒れる男』(12 Angry Men 1957)の4番陪審、ウディ・アレン監督・脚本『インテリア』(Interiors 1978)の父親役など。映画が衰退し、テレビ時代には『弁護士プレストン』(The Defenders 1961-1965)で主役をつとめた。ラジオ・舞台・映画・テレビに半世紀にわたりコンスタントに活躍した名優。
見た目が地味(中肉中背・目鼻立ちのパーツが小作りで目立たない・禿頭、奇抜やファッションやオーバーアクトで主役をくわない)で、演じる役柄はまっとうな、普通に生活している壮年の社会人・市民なので、何気なシーン、何気なセリフくらいでは覚えきれない。
ただし風格は十分なので、歴史上・架空の大統領も演じられるし、テレビシリーズでは弁護士で主役。高級将校役もある。いわゆる「上級国民を演じられるバイブレーヤー」。
ラジオ番組をプロデュースしたり、俳優組合を結成したり、アメリカの司法協会で役員をつとめるなど、オフスクリーンの活動からは良識と知見が垣間見える。
結婚は3回、子どもは5人。
大スターのみじめな晩年…。映画界ではよくある話。一方、職業として俳優をまっとうし、骨太の立派な人生を送る人がいる。なんか、ほっとしてしまう。

 

アントン・ウォルブルック(Anton Walbrook 1896-1967 墺)

Anton Walbrook 1896-1967

華やかで颯爽としたオーストリア生まれの美男俳優。口ひげがトレードマーク。
戦前のドイツ、オーストリア映画界は国際的にハイ・クオリティムービーを連発し1930年代は最盛期。主流は『カリガリ博士』『メトロポリス』など、「ドイツ表現主義」と呼ばれる現代的・前衛的作品。一方オーストリア映画のウィーンを舞台にした麗しく洒落た表現は「ウィーン情緒」と呼ばれ親しまれた。代表作『たそがれの維納(ウィーン)』(Maskerade in Wien 1934)に主演。ウィーンの貴族社会の艶笑譚で、顔にものを言わせて!? プレイボーイの画家を演じた。
もともとの名前はアドルフ・ウォルブルック。暗い時代、ナチスが台頭し、母親がユダヤ人であり、ホモセクシュアルでもあったアントン・ウォルブルックはイギリスに亡命。ヒトラーと同じ名前を嫌い、改名。
瞬く間に英語をマスターし、格高く激しくスケールの大きい演技で他を圧倒する。『輪舞』(La Ronde 1950)の狂言回しなどはまさに適役。傲慢な王様や芸術家や各界重鎮や高級将校の役がはまる。バレエ映画の古典『赤い靴』(The Red Shoes 1948)では孤高のプロデューサー。(ニジンスキー・ストラヴィンスキーを輩出したバレエ・リュスの、レオニード・マシーンが特別出演! 必見!! ) 1950年代の終わりごろ映画から遠ざかり、舞台やテレビでも活躍。

 

イヴ・モンタン(Yves Montand 1921-1991 仏)

Yves Montand 1921-1991

イタリア生まれ。マルセイユに移住し、パリに出てエディット・ピアフに歌と才能を見出され、『枯葉』が大ヒット。シャンソン歌手として恵まれたスタートを切り、映画に進出。確かな演技力で観客をうならせた。戦後のフランスが産んだ大スターの一人。
父親は共産主義の活動家で、移民の家庭は貧しく、歌だって演技だって、学校で習ったわけではない。若き日のモンタンは勝気で負けず嫌いで努力家・完璧主義者。やると決めたことに全身全霊を打ち込むタイプ。ピアフは、6つ年下の若い恋人が、さぞいとおしかったことでしょう。
ピアフは若い男性エンターテイナーを見つける才能に長けた女性で、モンタンが一人前になったあたりで2人は別れ、結婚した女性は女優のシモーヌ・シニョレ。おしどり夫婦として、いい男・いい女なんですから、紆余曲折はあったものの、添い遂げた。
70歳で心臓発作で亡くなっている。つまり病み衰え、弱っていく場面はなかった。生涯、ステージに映画に真摯に全力投球、年を重ねるほどに男の色気・フェロモンは鮮やか。『仁義』(Le Cercle Rouge)(1970年)では青二才のアラン・ドロンを圧倒。『愛と宿命の泉』(Jean de Florette)(1986年)ではジェラール・ドパルデューを圧倒。
初期の代表作は『恐怖の報酬』(Le Salaire de la peur)(1953年)。

 

ヴァン・ジョンソン(Van Johnson 1916-2008 米)

Van Johnson 1916-2008

1940年代に活躍したブロンドの青春スター。『A Guy Named Joe』(1943)で若きパイロットを演じ、思わずひれふしたくなる美青年ではなく、親しみやすく屈託なく明るい好青年。人気青春スター。この映画の撮影中に大けがをしてしまい、兵役を免れたことも、戦時下の人材不足のハリウッドにおいては幸いした。「朝はジューン・アリスンと一緒、午後はエスター・ウィリアムスと一緒」と大活躍。
リアルタイムに活躍した時代には大スターだった割には、今言及される場面が少ない気がする。
ヴァン・ジョンソンの万年好青年のキャラクターは、歴史に残るようなテーマを大上段に構えたものが少なくなってしまったのでしょう。あるいはそのたぐいの映画ではどうしても脇に回ってします。ミュージカル映画でも活躍しているものの、前身が歌手やダンサーではなかったこともあったのかな。
それでも、MGMとの契約が終わってからも晩年まで活躍し、92歳で大往生を遂げるまで、ショービジネスの世界を生き抜いた立派な生涯だった。
代表作はほかに『姉妹と水兵』(Two Girls and a Sailor 1944)、『雨の朝巴里に死す』(The Last Time I Saw Paris 1954)など。  

 

ヴィクター・マクラグレン(Victor McLaglen 1886-1959 英)

巨匠ジョン・フォード監督作品になくてはならない性格俳優。
聖職者の息子なんですが、プロボクサーになってしまった。第一次世界大戦でアイルランド軍に従軍し、戦後復帰したかったものの、出た舞台が好評で、そのまま俳優に転身。
サイレント映画にはじまるキャリアを誇るサバイバー。背が高く肉体派。筋骨たくましく、タフで人が良くて愛嬌がある。イギリスでサイレントの人気スターとなり、ハリウッド入り。映画はトーキーの時代に移り、イギリスなまりのセリフ回しゆえに苦戦したものの、『男の敵』(The Informer 1935)はフォード監督とヴィクター・マクラグレンに初のオスカーの栄光をもたらす。
フォード一家の一員として、『黄色いリボン』(She Wore a Yellow Ribbon 1949)、『リオ・グランデの砦』(Rio Grande 1950)、『静かなる男』(The Quiet Man 1952)などの名画に出演していているので、顔や個性を覚えやすい。
マレーネ・ディートリッヒとも、『間諜X27』(Dishonored 1931)で共演してる。テンプルちゃんの映画にも出てる。(『テンプルの軍使』(Wee Willie Winkie 1937))

 

ヴィクター・マチュア(Victor Mature 1913-1999 米)

Victor Mature 1913-1999

ハリウッドの肉体派男性スターのさきがけ。ターザン役者などはあとが続かないのが常なんですが、ヴィクター・マチュアは看板スター・人気スターとして一時代を築いた。
『紀元前百万年』(One Million Years B.C. 1940)では原始人の衣装で金髪の美女と一緒に恐竜と戦う、との設定の娯楽映画。大ヒット。
西部劇のレジェンド『荒野の決闘』(My Darling Clementine 1946)で悪役のドク・ホリデイ、フィルム・ノワールの傑作『死の接吻』(Kiss of Death 1947)を演じ、名声を不動のものとする。
美女にもモテるモテる。(浮名を流したのはエリザベス・テイラー、リタ・ヘイワース、ラナ・ターナー、ベティ・グレイブル、…まだまだ続く…)人柄も、悪く言う人いない。
出る映画出る映画、次々とヒットして大いに稼ぎ、大衆的人気は申し分なく、大成功した俳優さんだったにもかかわらず、 「サンダル・メロドラマ俳優」(『サムソンとデリラ』(Samson and Delilah 1949)も当然大ヒット)と軽んじられることも多かった。
本人も気苦労も相当だったんでしょう。46歳の若さで「もう十分稼いだから」と引退してしまう。後日カムバックするんですけどね。

 

ヴィットリオ・ガスマン(Vittorio Gassman 1922-2000 伊)

Vittorio Gassman 1922-2000

イタリアではマルチェロ・マストロヤンニよりも人気がある。国民的スター。イタリアにはガスマン通り、ガスマン劇場もある。新進の俳優に与えられるガスマン賞もある。
ハリウッド映画でチャンバラ映画(エロール・フリンが出てくるロビン・フットものだの海賊もの)が流行っていたころ、イタリアでもチャンバラ映画が作られていた。ハリウッドの俳優より、チャンバラが巧い。細くて立派。精悍で、悪役でも毅然としている。
舞台俳優でもあり、自分の劇団も持っている。しかも正統派のシェイクスピア役者。
映画ではわりとクセの強い役。誠実で人のいい田舎の青年に対する敵役で、都会から来た悪党のプレイボーイで狡猾で女をだましたりする役。
年を取ってからは誠実な知識人の役。コミカルな味もあり、知的な雰囲気もあって、魅力的。
結婚は3回。ほかの女性の噂も数多く、スキャンダルにも事欠かない。
日本で見つけやすい映画は『にがい米』(Riso amaro 1949)、『戦争と平和』(War and Peace 1956)、『もしお許し願えれば女について話しましょう』(Se permettete parliamo di donne 1964)、『シャーキーズ・マシーン』(Sharky's Machine 1981)など。

 

ウィリアム・S・ハート(William S. Hart 1864-1946 米)

William S. Hart 1864-1946

西部劇史に不朽の名声をとどめるスーパースター。ニューヨーク州に生まれ、15歳までダコダで牧場生活を楽しみ、やがて舞台俳優になった。ウソっぱちの西部劇に飽き足らず、本物の西部と西部の男の姿を紹介。風に鍛え抜かれた厳しい風貌で正義感と孤独感にあふれた西部男を演じ続けた。格調高くもエモーショナル、さらに娯楽性たっぷり。1920年ごろが人気の絶頂期で、その人気はダグラス・フェアバンクスをもしのいでいたと言われている。
二挺拳銃の銃さばきはまさに圧巻! ハートみたいにピストルを撃てる! のが男の子のあこがれ。
引退後は牧場で悠々自適の晩年でした。
代表作は『曠野の志士』(Tumbleweeds 1925)、『地獄の迎火』(Hell's Hinges 1916)、 『人生の関所』(The Toll Gate 1920)など。

 

 

ウィリアム・パウエル(William Powell 1892-1984 米)

William Powell 1892-1984

1930年代のハリウッドが産んだゴールデンカップル「『影なき男』(The Thin Man 1934)シリーズのニックとノラ」のニック役がウィリアム・パウエル。シリーズは全6本。
原作はダシール・ハメットのミステリー小説。ウィリアム・パウエルは探偵、相手役のマーナ・ロイは妻。この時代に次々作られたスクリューボールコメディ(展開が速く、丁々発止のやりとりが楽しい)とミステリーがミックスされており、夫はグジグジためらいがち、妻はおっとり、パッと見ポーっと見えて実は好奇心いっぱい、行動力バツグン…の2人のソフィスティケイティッドぶりが見ものです。
後にクラーク・ゲイブルと結婚したブロンドのおきゃんな知的美人、キャロル・ロンバートと結婚したことがあり、また、マリリン・モンローの前にセックス・シンボルと呼ばれた”プラチナブロンドの爆弾"、26歳で亡くなったジーン・ハーローの最後の恋人だった。
キャロル・ロンバートとの共演作は『襤褸と宝石』(My Man Godfrey 1936)、ジーン・ハーローとの共演作は『結婚クーデター』(Libeled Lady 1936)。
舞台経験は10年。ハリウッドではまずパラマウント。次にワーナー。続くMGMでブレイク。ここでも10年かかっている。苦労人です。

 

ウィリアム・ホールデン(William Holden 1918-1981 米)

William Holden 1918-1981

代表作が多すぎて困ってしまう。超一流監督の超一流作品の主演作がずらりと並ぶ。全部、骨太で、絶対見るべき! の映画ばっかり!!
出世作は『サンセット大通り』(Sunset Boulevard 1950)。All right, Mr. DeMille, I'm ready for my close-up.(「デミル監督、クローズアップを」)のラストシーンは身の毛がよだつというか。 サスペンス映画『第十七捕虜収容所』(Stalag 17 1953)、要領と地頭がいい下士官捕虜。西部劇の『ブラボー砦の脱出』(Escape from Fort Bravo 1953)、ロマンスもの『麗しのサブリナ』(Sabrina 1954)でオードリー・ヘップバーンと共演。シリアスな『喝采』(The Country Girl 1954)はグレース・ケリー。『慕情』(Love Is a Many-Splendored Thing 1955)の永遠のテーマソングに聞きほれ、『ピクニック』(Picnic 1955)はキム・ノヴァク。戦争アクション『戦場にかける橋』(The Bridge on the River Kwai 1957)。
いわば平均的なハンサム。画面でも容貌は目立たない。演技もセリフも誇張がない。素顔も誰からも好かれるタイプで真面目なんだけど生真面目じゃない。大スターなのに心を割って話せる、飾り気のない友達付き合いみたいに話せる。美談が山ほどあるスターです。
…なのにたった63歳の若さで、自宅で孤独のうちに亡くなっているのが発見された。…言葉が見つからない…。

 

ウィル・ロジャース(Will Rogers 1879-1935 米)

Will Rogers 1879-1935

アイリッシュとチェロキーの混血。サイレント時代、西部劇の呼び物の一つに馬と投げ縄があった。ロデオでの牧童のロープ使い、西部の野生馬をとらえるロープ使い、フラフープさながらに自分のまわりをロープを持って踊らせるお楽しみ。
ワイルド・ショーに出たはじめのころは”チェロキー小僧”の触れ込みで出演。牧童役で舞台に出て「俺は今夜はあんたがたを笑わせなきゃなんねぇ~。」とはにかむような笑顔でジョークを飛ばす。のちにユーモリストとして作家としての実力を鮮やかに示した。
人柄をそのままに、出る映画出る映画、微笑ましく。ハートウォーミング。ウィリアム・S・ハートの去り際には悲壮が漂い、チャップリンの後ろ姿には人生の影がある。ウィル・ロジャースの放浪には春の陽が似合う。
故淀川長治さんの「私は嫌いな人とはまだ会ったことがない」は、ウィル・ロジャースの語った言葉が出典です。
取材のために飛行機でアラスカに飛び、事故死。即死。アメリカじゅうが悲しみに包まれた。56歳。早すぎた。
主な出演映画は『にこにこビル』(Laughing Bill Hyde 1918)、 『周遊する蒸気船』(Steamboat Round the Bend 1935)、『プリースト判事』(Judge Priest 1934)など。

 

ヴェルナー・クラウス(Werner Krauss 1884-1959 独)

Werner Krauss 1884-1959

100年たっても色あせぬ、斬新な映像世界。頂点を極めたドイツ表現主義の代表作の一つであり、後世に与えた『カリガリ博士』(Das Kabinett des Doktor Caligari 1919)の主演男優。
カリガリ博士という不思議な男がチェザーレという眠り男をつかって次から次へと殺人事件を起こす。カリガリ博士は誰!? どうして!? そして登場人物たちは精神病院に吸い込まれていく…。
モノクロの画面にゆがんだセット、深く隈どられた白塗りの人物。ゆがんだセットに光と影が走る。不安をかきたて、極致を作り上げた。
舞台出身で、当たり役は「ベニスの商人」ならシャイロック。「ファウスト」ならメフィストフェレス、「オセロ」ならイアーゴーで、カリスマ性のある傑出した天才俳優。すごみのある悪役がはまり役。「千の顔を持つ男」とも呼ばれた。
第一次世界開戦後は舞台に映画にその実力を発揮したものの、反ユダヤでナチスに協力したことから、戦後はオーストリアに強制移住させられた。活動の幅は狭められてしまったものの、実力で取り返す。ウィーンの劇場に立ち、のちに改めてドイツ市民権を取った。
主な出演作は『喜びなき街』(Die freudlose Gasse 1925)『プラーグの大学生』(Der Student von Prag Der Student von Prag 1926)など。

 

ウォーレン・オーツ(Warren Oates 1928-1982 米)

Warren Oates 1928-1982

サム・ペキンパー監督作品(アメリカン・ニューシネマ時代の西部劇、上がる血しぶき・転がる死体・スローモーションの多用・滅びの時代の男の美学)で才能は花開いた個性派俳優。53歳の若さで心臓発作で急死してしまったので、今残る面影はみんな永遠に男盛りで若々しい。
高校卒業後海兵隊に入隊し、飛行機のメカニックとして約3年を過ごす。除隊後24歳でNYへ。TV出演を経てハリウッドに移る。
1960年代のサスペンス映画の傑作『夜の大捜査線』(In the Heat of the Night 1967)の警官役、ペキンパー監督の最高傑作にして”最後の西部劇”『ワイルドバンチ』(The Wild Bunch 1969)で曲者ぞろいの強盗団のメンバー、『デリンジャー』(Dillinger 1973)ではボニーとクライドと並ぶ禁酒法時代のギャングの生涯を演じた。キャッチコピーは「華麗なるアメリカン・ギャング・エイジに訣れを告げる銃弾2560発! 」今で言う貧困層、プア・ホワイトの時代を描く映画、になりますか。
細面で、細身なので何を着ても似合う。男くさくでかっこいい。主役もご本人にとっては役者冥利なんでしょうけど、見る側からしてみれば、脇役のほうがクセの強さが面白かったりする。

 

ウォーレス・ビアリー(Wallace Beery 1885-1949 米)

Wallace Beery 1885-1949

サイレント時代からのサバイバー。コメディアンとして大成したあと役者として大成功。
16歳のとき家出してサーカス団に加わり象使いのアシストタントなんかしていた。ミュージカルの舞台などを経て映画界入り。レイモンド・ハットンとコンピを組んだ『弥次喜多従軍記』(Behind the Front 1926)が大ヒットして人気者に。「弥次喜多コンビ」の映画が次々と作られた。
トーキー時代が到来し、俳優に転身。大きな体、武骨な風貌、粗野だが人情にあついキャラクターで義理人情に訴え、泣ける映画を演じられる個性派・演技派俳優として活躍。
母もの映画『惨劇の波止場』(Min and Bill 1930)、子どものために酔いどれボクサーがリングに立つ『チャンプ』(The Champ 1931)、メキシコ革命の英雄の延期映画『奇傑パンチョ』(Viva Villa! 1934)などの多くの名作に出演。
大女優、グロリア・スワンソンと結婚していたこともある。美人女優とコメディアン、今でもよく見る組み合わせ。
気難しく、あんまり人好きのする性格ではなかったらしい。また酒癖が悪く、スキャンダルもあった。「私はウォーレス・ビアリーの実の娘」と訴えられたこともある。ビバリーヒルズの邸宅で、心臓発作で64年の生涯を閉じました。  

 

ウォーレス・リード(Wallace Reid 1891-1923 米)

Wallace Reid 1891-1923

1910~20年代に活躍した、サイレント映画の美男スター。正統派の王子様・貴公子顔で”Perfect Lover”と呼ばれた。ああ、それなのに美男薄命「ハリウッドでの薬物中毒死第1号」との称号!? がついてしまった。当時、白皙の銀幕の貴公子の死は世界に衝撃を与えた。
映画の撮影中に大けがをして、当時のハリウッドは黎明期・創世期。休むことなど許されず、痛み止めのモルヒネを打って撮影続行、という恐ろしいお話。クランクアップして、休ませるなんてとんでもない。働いて働いて。若くして結婚し、子どももいた。贅沢な生活を維持するにはモルヒネを打ち続けるしかなかった。…もっとも、薬の前はアルコール依存の噂もあった。仕事がハードすぎたのか、仕方がなかったのか、それとも本人のもともとの気質があったのか。時のヴェールに閉ざされて、真相はわからないのですけど。
ついに撮影中に倒れ、サナトリウムで生涯を閉じた。享年31。残された若妻は生涯再婚せず、反麻薬の社会活動を続けました。
主な出演作は『國民の創生』(The Birth of a Nation 1915)、『カルメン』(Carmen 1915)、『イントレランス』(英語: Intolerance 1916)など。

 

ウォルター・ヒューストン(Walter Huston 1883-1950 加)

Walter Huston 1883-1950

1930~40年代にかけて活躍した演技派。舞台経験が長く、映画デビューは46歳の時。出はじめた頃はあごひげを伸ばして、リンカーンなどを演じていた。大監督の映画に出てや人気スターの相手役をつとめ、早々に名優として認められる。
サマセット・モーム原作の『雨』(Rain 1932)は南の島に流れてきた娼婦を更生させようとした宣教師が、情欲に負けてしまい、自殺を遂げるというハードな内容。ジョーン・クロフォードの『孔雀夫人』(Dodsworth 1936)は、ヨーロッパ旅行にでかけたアメリカの成金の社長夫妻がヨーロッパ旅行に出かけ、伝統に打ちのめされるお話で、ウィリアム・ワイラー監督の名作。
晩年は息子のジョン・ヒューストン監督・脚本作品『黄金』(The Treasure of the Sierra Madre 1948)ではメキシコ山中にで命懸けで金を掘る、荒くれ男仲間に一目置かれる経験豊かな老人を演じた。
ヒューストン一家は、コッポラ一家、バリモア一家と並ぶハリウッド映画界の名門。『黄金』では息子と並んで笑顔でオスカーを手中に納め、主演のハンフリー・ボガードすらかすんでしまいました。
ほかには『ヤンキー・ドゥードゥル・ダンディ』(Yankee Doodle Dandy 1942)など。

 

ウォルター・ブレナン(Walter Brennan 1894-1974 米)

Walter Brennan 1894-1974

脇役人生極まれりで、出た映画は230本。そしてただの脇役じゃない、お客を呼べる。飄々としたあたたかみのあるキャラクターで、役柄も幅広い。
クレジットにも乗らない端役から始まって、1930年代には才能が認められ、『大自然の凱歌』(Come and Get It 1936)アカデミー賞助演男優賞を獲得。のちに『ケンタッキー』(Kentucky 1938)、『西部の男』(The Westerner 1940)と、獲得したオスカーは3つ。
1932年、撮影中に事故にあい、あらかた歯がなくなってしまった。髪は寂しくなり、体は貧弱にやせてしまい、ロレツもが微妙。を逆手にとって老け役に境地を見出した。
ゲイリー・クーパー、ハンフリー・ボガート、ヘンリー・フォンダ、ジョン・ウェインと、当時のスーパースターとの共演作も多いので、古い映画が好きな方なら、見かける機会は多いかも。
テレビ時代が到来すると映画とテレビ、二足のわらじ。『マッコイじいさん』(The Real McCoys 1957~63)でカリフォルニアの農場に移住した一家のホームドラマに主演。
別のテレビドラマではフレッド・アステアを押しのけて!? さしおいて!? トップクレジットを取ったこともある。
肺気腫のため80歳で死去。

 

ウォルター・マッソー(Walter Matthau 1920-2000 米)

Walter Matthau 1920-2000

悪役とコメディアンの両刀遣い。ゴツゴツした顔で不機嫌なハイミスター(いまどきこんな言葉使うのかしら)が似合う。バリトンボイス(クラーク・ゲーブルみたい)で早口のニューヨーク訛り。
巨匠ビリー・ワイルダー監督の『恋人よ帰れ!わが胸に』(The Fortune Cookie 1966)の弁護士役で大ブレイク。続くニール・サイモンの舞台作の映画化『おかしなふたり』(The Odd Couple 1968)、絶好調で作られたシリーズもの『ラブリー・オールドメン』(Grumpy Old Men 1993)などで、ジャック・レモンとコンビを組んで抱腹絶倒の共演作が目白押し!
せかせか動くレモンと憮然としたマッソー。ミドルからシニア世代まで、男2人の掛け合いが楽しい。それと、60年代から70年代のレトロなアメリカやキュートな女性陣のファッションなどの風俗も、「来てる~! 」感満載!
オードリー・ヘップバーン主演の『シャレード』(Charade 1963)の敵役。
大柄で、少年の日、ニューヨークの路上で、のちの世界ミドル級チャンピオン、ロッキー・グラジアノを叩きのめした!? との武勇伝を本人は語っている。
79歳で心臓発作で死去。相方のジャック・レモンも後を追うように翌年に亡くなった。

 

ウディ・アレン(Woody Allen 1935-  米)

Woody Allen 1935-

1970年代にエスニック文化が花開いたとき、ニューヨークの知識階級ユダヤ人男性の体験と悩みにしつこくこだわる。テーマは変貌する価値観・家庭・愛。『ボギー!俺も男だ』(Play It Again, Sam 1972)で注目され、『アニー・ホール』(Annie Hall 1977)、『インテリア』(Interiors 1978)、『スターダスト・メモリー』(Stardust Memories 1980)、『カイロの紫のバラ』(The Purple Rose of Cairo 1985)、『ハンナとその姉妹』(Hannah and Her Sisters 1986)と1作ごとに話題を呼び、批評家受けする。ぜんぶ自分で製作・監督・脚本・ほぼ主演(作品によっては出ていない)受賞歴もものすごく、アカデミー賞ノミネートは24回(監督賞1回、脚本賞3回)を筆頭に、数えきれない…。
見た目のショボさ(失礼)と描かれている世界がインナーワールド、あんまり外に出て行かないので、いわゆる「超大作」としてのスケールがないのが、かえって新鮮だった。
スキャンダルもあったんですが(35歳年下の養女を妻にして当時の妻、女優のミア・ファローに訴えられるとか)、ビクともしない。自分のスタイルを貫いた巨匠。

 

エディ・カンター(Eddie Cantor 1892-1964 米)

Eddie Cantor 1892-1964

太い眉。大きな目玉をくりんくりん回して歌う。一度見たら忘れられないでしょう。ニューヨーカーは喜んで「バンジョー・アイズ」とニックネームがついた。日本の喜劇王、エノケンこと榎本健一が憧れ、目標にしたコメディアンがエディ・カンター。
ロシアからの移民の子で、24歳でジークフェルドの舞台に立って歌い踊る。続いてサミュエル・ゴールドウィンに引っ張られ、ゴールドウィン好みの豪華な大作映画『ウーピー』(Whoopee! 1930)、『カンターの闘牛師』(The Kid from Spain 1932)、『羅馬太平記』(Roman Scandals 1933)、『当り屋勘太』(Strike Me Pink 1936)と次々ヒットを飛ばす。当時の華やかでエレガントなマンハッタンの香り満載、本場のブロードウェイのエンターテイナーの輝かんばかりのパフォーマンスをスクリーンで見られる。そして映画はそのころ音を持ったばかり。粋で軽妙なミュージカルは三重の衝撃! 感動!!
のちにラジオ番組のパーソナリティをつとめたアメリカの国民的コミックアクター。
奥さなは女優さんのアイダ・トピアス。子どもは女の子ばかりの5人姉妹。死ぬまでスキャンダルは皆無。

 

エドワード・G・ロビンソン(Edward G. Robinson 1893-1973 米)

Edward G. Robinson 1893-1973

ルーマニア生まれのユダヤ人。10歳の時、家族で海を渡り、ニューヨークにやってきた。
1930~40年代を代表するハリウッドのギャング役がはまりすぎるスター。映像の世界のギャングのイメージは、エドワード・G・ロビンソンが作り上げたと言っても過言ではない。顔はガマガエルみたい。身長170㎝で、あまり大きくない。不敵な面構え。内に秘めた刻薄さと凶暴さが一気に牙をむく。
『犯罪王リコ』(Little Caesar 1931)が出世作。世界恐慌にあえぐ不安な世相の中でうまれたフィルム・ノワール・ギャング映画のさきがけとなった名画で、上りつめ、落ちていき、機関銃の放火を浴びて死んでいく男を演じ、一気にスターダムへ。
『深夜の告白』(Double Indemnity 1944)、『キー・ラーゴ』(Key Largo 1948)などの映画でも強い印象を残している。
出自もあり、反ナチ活動に熱心だったため、赤狩りの犠牲になり、活躍の舞台は舞台とB級映画にシフト。のちに復帰を果たし、最後の出演映画、『ソイレント・グリーン』(Soylent Green 1973)の撮影は、死の12日前だった。
7か国語をあやつるインテリであり、絵画コレクターとしても名をはせた。長年の功績をたたえ、死後、1973年にアカデミー名誉賞を受賞。

 

エミール・ヤニングス(Emil Jannings 1884-1951 独)

Emil Jannings 1884-1951

ドイツ映画ファンには絶対に忘れられない名優。 マレーネ・ディートリッヒの出世作、『嘆きの天使』(Der Blaue Engel 1930)のラート教授役。
若いころから古典演劇を修行、ドイツ劇団の巨匠、マックス・ラインハルトに招かれてベルリンの舞台で「ファウスト」のメフィストフェレスを演じる。巨漢でサディスティックな三白眼なので迫力がある。栄えある第1回アカデミー賞主演男優賞の受賞者(『最後の命令』(The Last Command 1928))。『最後の人』(Der Letzte Mann 1924)の老ホテルドアマンが老いてトイレの清掃係に格下げされる惨めさ・悲惨さ。『ヴァリエテ』(Varieté 1925)で大して美しくもない若い女に引き込まれていく野暮ったい中年男。言葉はないのに、気負いやおそれや絶望などの感情を、身のこなしだけで、表情だけで観客に圧倒的な力を持って迫ってくる。ドイツ表現主義のすごみと、ヤニングスの鬼気迫る演技の見事さを堪能することができる。
当時、世界の最先端を行く映画と作っていたのは、ドイツでした。最高の時代を代表する俳優。
そして変わらないものは何もない。稀代の名優は時代の波に飲み込まれ、ナチスの協力者となり、戦後は不遇のうちに生涯を閉じました。

 

エリッヒ・フォン・シュトロハイム(Erich von Stroheim 1885-1957 墺)

Erich von Stroheim 1885-1957

ハリウッドのサイレント映画の三大巨匠。俳優でもあり、監督・監督・美術・衣装、全部こなす。俳優としてはフランス映画の『大いなる幻影』(La Grande Illusion 1937年)、『サンセット大通り』(Sunset Boulevard 1950)、どちらも空前絶後の名作です。
で、監督としては。『アルプスおろし』( Blind Husbands 1919)で不義密通をたくらむこわさ、『悪魔の合鍵』(The Devii's Pass Key 1919)では女が金に困った富豪婦人に売春をすすめるこわさ。『愚なる妻』(Foolish Wives 1921)にいたっては、カラムジンにせ伯爵がふたりの女をロシア貴族の姪をいつわってモンテ・カルロの超一流ホテルにのりこみ、富豪の女を狙うつもりが賭博で有り金をすってしまう。ついに部屋つきのメイドに手を出して貯金を奪い、さらに若い娘に手を伸ばし、にせ金づくりの父親に背中をひと突き刺されて戸外の下水に放り込まれ、そのカラムジンの背中からあふれる血を走ってきた黒猫がなめる…。とまあ、濃いお話。
実力はもちろんものすごい。そして絶対妥協しないもんだから、行くところ行くところトラブルだらけ。しかし残した作品は今なお不滅の輝きを残す、黄金の悪魔。

 

エルヴィス・プレスリー(Elvis Presley 1935-1977 米)

Elvis Presley 1935-1977

1958年の全米レコード購買層は70%がティーンエイジャーで、ポピュラー・ミュージックの新しいサウンドは、ロックンロール。1956年はじめ、「ハート・ブレイク・ホテル」で全米第1位の大ヒットをとばしたエルヴィス・プレスリーが、その中心。
ジェームズ・ディーンが世代の断絶の象徴ならプレスリーは新しいセックスシンボル。敏腕マネージャー、トム・パーカー大佐のもと、ライブを避け、『やさしく愛して』(Love Me Tender 1956)で映画デビュー。ほかには『監獄ロック』(Jailhouse Rock 1957)、『ブルー・ハワイ』(Blue Hawaii 1961)、『ラスベガス万才』(Viva Las Vegas 1964)。出る映画出る映画、ヒットはするけど、作品としてはイージーなものが多く、エルヴィス本人も、頑張って演技したシーンがカットされたりして、心折れることも多かった。
甘い歌声。セクシーなアクション。少年のころ、家は貧しく、黒人音楽に触れる機会が多かった。エルヴィスの音楽に多大な影響を与えた。
大きすぎる成功はエルヴィス本人にとって、良かったのか悪かったのか。晩年はストレスから過食症で太りすぎて、家で泣きながらドーナッツを食べていたという。オーバードーズもあいまって、42歳の若さで世を去った。

 

エルモ・リンカーン(Elmo Lincoln 1889-1952 米)

Elmo Lincoln 1889-1952

最初のターザン俳優。スクリーンに現れた最初のマッチョマン。
スペクタクル映画で巨体の青年を出そう、と大監督が集めた俳優の一人。サイレント映画の金字塔、『国民の創生』(The Birth of a Nation 1915)『イントレランス』(Intolerance 1916)にも出ている。目を付けられ『ターザン』(Tarzan 1918)に主演。両親の死を知らない赤ん坊が猿に育てられ、水面に映る自分の姿が、猿じゃない…とショックで泣いてしまう。サイレント時代のターザンは、音がないから、敵に勝った時、ジェーンを助けるとき、両手のこぶしで力いっぱい胸をたたく。子どもがマネして「服が汚れるでしょ! 」とお母さんに怒られたりした。
当時、キスシーン・全裸シーンは、道徳的によろしくない。ところが、ターザンはその設定ゆえ、全裸に獣の皮をまいただけでおとがめなし。当時としては相当きわどい男性の全裸の肉体美を見せたことも大ヒットのかくれたもう1つの理由。
次々主演映画は作られたけど、肉体だけで売ったスターの悲劇、27歳で引退。のちのターザン役者、ジョニー・ワイズミュラーもしかり。これを学んで、スタローンもシュワちゃんも芸で生きる訓練を怠らない。

 

エロール・フリン(Errol Flynn 1909-1959 豪)

Errol Flynn 1909-1959

颯爽型色男。鼻の下のちょびヒゲ、細長いプロポーション。ボクこそ美男子ってかんじ。
タスマニア生まれ。父親は大学教授。いいトコのお坊ちゃんのはずがで17歳で船のビーイとなり世界を放浪。オーストラリア・イギリスを経てハリウッドにわたり『海賊ブラッド』(Captain Blood 1935)『進め龍騎兵』(The Charge of the Light Brigade 1936)『ロビンフッドの冒険』(The Adventures of Robin Hood 1938)などの海賊もの・スワッシュバックラーものに大活躍。
私生活でもモテるモテる。そもそも映画出演だって、ジゴロぶりにまいって結婚した妻の口きき。映画自伝には武勇伝がてんこ盛り。バイでもあったとのエビソードあり。さらに10代の女の子に目がなく、遊んで、訴えられて無罪を勝ち取り、「フリンのようにうまくやる」なんて言葉が生まれたりした。
血の気が多く、お酒を飲んですぐケンカ。隠そうとしてもファシストびいきの顔が出てくる。奇行・奇癖は数えきれない。出た映画よりよっぼどゴシップやエピソードが波乱万丈。
全盛期は短く、アルコール中毒とクスリ中毒による心臓マヒでわずか50歳で世を去った。

 

オーソン・ウェルズ (Orson Welles 1915-1985 米)

Orson Welles 1915-1985

20世紀の映画史に燦然と輝く『市民ケーン』(Citizen Kane 1941)の監督・脚本・製作・主演として不滅。当時26歳! アメリカの新聞王ランドルフ・ハーストをモデルに怪物的人物の生涯をサスペンスフルに追及していく。
明解なストーリー、当時の映画技術(モンタージュ手法、極端なクローズアップ、クレーンショット、パンフォーカス、ローアングル、ハイコントラストなど)の集大成として公開当時から絶賛されつづけている。
『第三の男』(The Third Man 1949)で、ジョセフ・コットン扮する作家マーチンが謎の男ハリー・ライムと対面する。夜ふけのウィーンの暗闇のなかで、ぽっかり光に浮かんだハリーの顔。
「イタリアではボルジア家30年の圧政の下で、ミケランジェロ、レオナルド・ダ・ヴィンチやルネッサンスを生んだ。スイスでは500年の同胞愛、デモクラシー、平和を保って何を生んだか。鳩時計だとさ。」との名セリフと、枯葉舞う一本道のラストシーンとアントン・カラスのチターが浮かび上がってくる。
23歳の時、CBSラジオで「火星人襲来」という臨時ニュース形式の放送劇を演出して、全米をパニックに陥れたこともある。後生おそるべし。
後年は、太ってしまい、ギョロ目の存在感俳優として晩年まで活躍。
出演作はほかに『マクベス』(Macbeth 1948)など。  

 

オスカー・レヴァント(Oscar Levant 1906-1972 米)

Oscar Levant 1906-1972

本業はピアニスト。それも超一流。ガーシュインの「ラプソディー・イン・ブルー」の演奏をおさめたアルバムは大ヒット。 多芸で、作曲・ラジオ・テレビ・著作もする。コメディアンでもある。
映画『アメリカ交響楽』(Rhapsody in Blue 1945)は死の8年後に作られたガーシュインの伝記映画で、生涯交友のあったレヴァントが本人役で出演・演奏。
『巴里のアメリカ人』(An American in Paris 1951)では、ジーン・ケリーの友だちで、有名ピアニストになることを夢見てパリに出てきた青年。もう1人といつも3人でつるんでいる。うち2人が女の子とうまくいってるんだ~と上機嫌。は、オスカー・レヴァントだけが同じ女の子であることを知っていて、言えない…。絶妙の表情。もちろん、レヴァントのピアノにあわせてジーン・ケリーが踊る! レヴァントの1人舞台の見せ場は「ピアノ協奏曲ヘ長調」。
『バンド・ワゴン』(The Band Wagon 1953)ではフレッド・アステアと共演! ピアノ演奏のシーンはなし。変わり者で不愛想なキャラで映画にスパイスを加えている。
演じるのは変人っぽい役が多く、私生活でも芸術家らしく、気難しい人だったらしく、現場での評判はイマイチ。でも、出演は断らなかったのよね~。不思議。

 

オマー・シャリーフ(Omar Sharif 1932-2015 エジプト)

Omar Sharif 1932-2015

エジプトの上流階級の豪商の子で秀才。大学を出てイギリスで演技を学び、エジプト映画界でスターの座を驀進していた真っ最中、『アラビアのロレンス』(Lawrence of Arabia 1962)のアラブのアリ族長の役で、主演のピーター・オトゥールとともに国際スターの座に躍り出た。
浅黒い肌、エキゾチックでノーブルなハンサム。
性格は真面目でおっとり。教育があり、英語が話せて、演技もできる。西洋文明にも明るい経歴と人柄が買われた。
美人女優と次々に共演、デビット・リーン監督に再び、今度は主役で起用された『ドクトル・ジバゴ』(Doctor Zhivago 1965)も大成功をおさめる。
ただし、本国エジプトはシャリーフに出国ビザしか出さなかった。入出国に手間取っては仕事もできない…と一人息子をもうけたエジプトきっての美人女優と離婚。以後、エトランゼとして世界を飛び回りながらも独身を貫き、後年祖国にもどり、離婚した前夫人と再び結婚。
趣味はプリッジ。「オマー・シャリフ杯」の世界大会を主催したこともある。
晩年はフランス映画『『イブラヒムおじさんとコーランの花たち』(Monsieur Ibrahim et les fleurs du Coran 2003)』(Monsieur Ibrahim et les fleurs du Coran 2003)でセザール賞主演男優賞を受賞。俳優人生に有終の美を飾った。 カイロで心臓発作で死去。享年83。

 

 

か行

カーク・ダグラス(Kirk Douglas 1916-2020 米)

Kirk Douglas 1916-2020

103歳まで長生きした。映画出演は87歳まで。莫大な遺産は寄付、長男マイケル・ダグラスは父をもしのく俳優・製作者として有名。ご本人は再晩年までエネルギッシュで動向が伝わってきた。
ストレートで、ハングリー。アメリカ的合理主義の固まりのような男性像がカーク・ダグラスの持ち味。出世作『チャンピオン』(Champion 1949)での上昇志向のボクサー、『探偵物語』(Detective Story 1951)の非情な刑事、『悪人と美女』(The Bad and the Beautiful 1952)でのドライなプロデューサーなど。派手に感情をぶつける演技スタイル。共感はできないけど常に説得力がある。本人も、「善人より邪悪なキャラを演じたかった」と語っている。プロデューサーとしての手腕も確かで、『OK牧場の決斗』(Gunfight at the O.K. Corral 1957)や『スパルタカス』(Spartacus 1960)などに主演・製作。
熱心な民主党員で社会活動にも積極的。 …他のスターみたいに酒だの女だの、全然出てこない! ひたすら仕事。 だからこそ息子も、優秀なのでしょうか。
ハリウッドスターにしては実に珍しく、自伝は自分で書いた。タイトルは「くず屋の息子」。
ソ連から移民してきたユダヤ人の息子。負けん気が強く、裸一貫から身を起こし、苦学して努力を重ね、成功した立志伝中の人、ですね。  

 

 

上山草人(Kamiyama Soujin 1884-1954 日本)

Kamiyama Soujin 1884-1954

サイレント映画時代にハリウッドで活躍した日本人俳優。1が早川雪洲、2が上山草人。
宮城のお医者さんの息子。早稲田大学に入ったのに中退して新劇に夢中。侠気の強い人で、人の面倒も見るがけんかっ早い。演劇学校に入っても退学、劇団に入って作っても退団・解散。新天地アメリカにわたり、ロサンゼルスの在日アメリカ人向けの雑誌を作っていた。
大スター、ダグラス・フェアバンクスの『バグダッドの盗賊』(The Thief of Bagdad 1924)に新劇の経験を見込まれて出演。悪役のモンゴル王子役。ごらんのとおり、「史記」だの「十八史略」だのに出てきそうな容貌魁偉・エキゾチシズム極まれりのキャラは大評判となり、ハリウッド映画に引っ張りだこ。役柄は中国人、チベット人、ペルシャ人人、魔法使い…。ハリウッドのトップスターと次々共演。役作りにも余念がなく全盛期は天下の名優とうたわれる。日本からアメリカにやってくる人たちの面倒見もよかった。
ただし英語が話せず、トーキー時代には日本に戻った。『七人の侍』(1954)にはセリフなしの琵琶法師役で出ています。日本映画史に残る!? 巨根なんだそうです。 出演作はほかに『支那の鸚鵡』(The Chinese Parrot 1927)など。

 

クラーク・ゲーブル(Clark Gable 1901-1960 米)

Clark Gable 1901-1960

説明無用かも。でも一応。言わずと知れた”ハリウッドのキング”。男くさく、強く、野獣の香りをさせながらも愛嬌と茶目っ気のあるセックスアピールでハリウッドに君臨した。
マリリン・モンロー、クラーク・ゲーブルあたりになると、スクリーンに出てきただけで見る人の琴線を揺さぶる。かっこよさに見とれているしかない…。
59歳で心臓発作で死去。過労死ですよねえ。どう見たって。ただし、ヘビースモーカーだったし、3人めの奥様、恋女房の女優、キャロル・ロンバートを飛行機墜落事故で亡くしてからは(まだ33歳、美しさの絶頂だった)アルコール依存も進んでいた。
太い眉、笑った時の白い歯とえくぼ、太くてがっちりとした首と大きな耳。最初の妻は14歳、次の妻は17歳年上! 言ってみればジゴロ上がりなんだけど。今や魅力の裏付けにしかなってない。年上の妻に見染められるまでは家出・材木人夫・ネクタイ売りと苦労人。
『或る夜の出来事』(It Happened One Night 1934)の新聞記者役と『風と共に去りぬ』(Gone with the Wind 1939)のレット・バトラー役は永遠! グレース・ケリーとエヴァ・ガードナーと共演したのは『モガンボ』(Mogambo 1953)。

 

クリストファー・リー(Christopher Lee 1922-2015 英)

Christopher Lee

ホラー映画のドラキュラ伯爵が決定打。背が高くて(193㎝)顔も良い。仕事に恵まれ、若手に尊敬され終えた93年の生涯。従兄弟は「007」シリーズの原作者イアン・フレミング。第二次世界大戦中はSOEで特殊任務にあたっていた。
1950~60年代、 『吸血鬼ドラキュラ』(Horror of Dracula 1958)。ドラキュラ伯爵・クリストファー・リーとヘルシング教授・ピーター・カッシングのコンビは大成功。戦後ホラー映画の黄金期を築き、最強コンビとなり、好敵手として数多くの作品で共演し、交友関係は生涯続いた。
暗黒の王子としての貴族的な風格とサディスティックな吸血シーンが衝撃的。以後、クリストファー・リーを超す吸血鬼俳優は出ていない。
シリーズ終了後はアメリカにわたり、非ホラー映画でも活躍。老いてなお『ロード・オブ・ザ・リング』三部作(The Lord of the Rings 2001・2・3)や『スターウォーズ』シリーズのうち2作(Star Wars 2005・8)に出演。90歳を超えても映画出演をつづいた。
生涯250本以上の映画に出演し、世界で最も多くの映画に出演した俳優としてギネスブックに記載されている。
今のホラー映画は俳優というよりトリック撮影や特殊効果・CGに見せ場が移っちゃってるから、このテのスター輩出は、なかなか難しいんだろうなあ…。 

 

クリント・イーストウッド(Clint Eastwood 1930-  米)

Clint Eastwood 1930-

最初に人気に火がついたのはテレビシリーズの西部劇、『ローハイド』(Rawhide 1959-1965)。3,000頭の牛を追い、西部の大平原を越えていく。背が高くて(193㎝)甘いマスク。陽気だけどちょっとシニカル、女の子にも手が速い若いカーボーイ役。
続いてマカロニ・ウエスタン、イタリア製作の西部劇、『荒野の用心棒』(Per un pugno di dollari 1964)を皮切りに作られた3部作。イーストウッドのすごいところは、スターが独立すると作品選びやらしがらみでキャリアが迷走、ままあるんですが、驀進していく。生涯の代表作となる『ダーティハリー』(Dirty Harry 1971)シリーズ5作作られた。西部劇や刑事もの、アクション映画から、作る映画の幅が広がり、話題作や女性うけしそうなテーマの映画をも輩出していく。学歴は大学を出たか出ないかも怪しく、下積み時代は苦労も多かった。地頭がいいのでしょう。
監督業にも乗り出す。題材選びからはじまる時代を読むセンスで数々の栄誉を勝ち取り、危なげなくキャリアをまっとうし、名声をほしいままにした。
政治家として市長を務めたこともある。大統領選出馬をすすめられたこともあり、当選間違いなし! なんだけど、ご本人、まったく興味はなかったとのこと。

 

グレゴリー・ペック(Gregory Peck 1916-2003 米)

Gregory Peck 1916-2003

黒髪の形のいい眉の知的な美男子。いい男とは「トール・ダーク・アンド・ハンサム」だと言われた時代に彗星のように現れた。
映画入りの時は各社が争奪合戦。フォックス専属となり、出る作品は人間性とヒューマニズムを娯楽作品に託した異色作がならぶ。グレゴリー・ペックを第二次世界大戦後の初のトップ・スターたらしめたのは、作品の内容が戦後感覚だったから。
『子鹿物語』(The Yearling 1946)はMGM。若き開拓者の父親役は代表作の一つ。
契約終了後はご存じ、『ローマの休日』(Roman Holiday 1953)でオードリー・ヘップバーンのお姫様を追いかけて特ダネを狙う新聞記者役で映画を大成功に導く。ノスタルジックな『アラバマ物語』(To Kill a Mockingbird 1962)ではアメリカ南部で妻を亡くして男手ひとつで子どもを育て、黒人の青年を弁護する弁護士を演じて好感度はまたまたうなぎのぼり。
晩年はホラー映画『オーメン』(The Omen 1976)に出演して、往年のファンはびっくり仰天。出演料は低く、興行収入の一部を受け取る契約で、グレゴリー・ペックにとっては最も稼げた映画になった。
気管支肺炎により87歳で死去。

 

グレン・フォード(Glenn Ford 1916-2006 米)

Glenn Ford 1916-2006

カナダ首相の甥で、子どもの頃アメリカに移住。
1950~60年代の映画出演本数は60本。うち50年代の公開は24本で、2位がトニー・カーティスとカーク・ダグラスの21本で、つまり最多露出スター。当時の流行だったニューロティックな暗い役柄が多い。押さえのきいた演技のできる人で、激しすぎず、底に秘めた情念や万感の感情を感じさせるタイプ。 フィルム・ノワールの傑作『ギルダ』(Gilda 1946)で戦中最高の人気を誇ったリタ・ヘイワースとタフな二枚目として共演し、2人はハリウッドのレジェンドたるゴールデン・コンビに。ハイティーンの非行を描いた『暴力教室』(Blackboard Jungle 1955)では家族を守るために目には目を歯には歯を、とならざるを得ない教師を演じ、大人たちは眉をひそめても若者には大評判。映画は社会現象となってトップスターに。ユーモラスな役もこなす幅広いアクション俳優。
『八月十五夜の茶屋』(The Teahouse of the August Moon 1956)では京マチ子と共演。『スーパーマン』(Superman 1978)ではクラーク・ケントの父親役。西部劇も軍人役もハマり、ユーモラスな役もこなす幅広いアクション俳優。

 

クロード・レインズ(Claude Rains 1889-1967 英)

Claude Rains 1889-1967

準主役のはずなのに、出る映画出る映画、みな主役を食ってしまう偉大な性格俳優。身長が169cmで、小さい。小男の悲哀を気概に変え、誇り高く粋で洗練されている。そして時折見せるアンモラルさ。キャリアは60年を誇る。
『カサブランカ』(Casablanca 1942)のフランス人の警察署長、『汚名』(Notorious 1946)は愛するイングリッド・バーグマンに裏切られる富豪のスパイ、どっちも敵役のはずなのに、ついクロード・レインズ側にぐらりと傾いてしまったのは私です。『アラビアのロレンス』(Lawrence of Arabia 1962)ではイギリス軍の重鎮、と代表作は錚々たる映画史に残る名作ばかりなので、見つけやすい。そしていったん見たら忘れられない。
『透明人間』(The Invisible Man 1933)が出世作、包帯を巻いた姿でスクリーンに現れ、顔を見せなくても演技力で観客を魅了してしまう。『オペラの怪人』(Phantom of the Opera 1943)では初のトーキー、テクニカラー。自分には全く釣り合わない相手に密かに思いを寄せる男の姿にまたも感動。
墓碑には「すべては一度、すべては永遠であり、魂は、かつて生き、永遠に生きる」と刻まれている。

 

ゲイリー・クーパー (Gary Cooper 1901-1961 米)

Gary Cooper 1901-1961

神のように美しい、とは若き日のクーパーのためにあるような言葉。演技よりも個性の魅力で男性女性を問わず広い観客層に愛され、大人気スターの座を30年にわたって保持しつづけた。
デビューはサイレント時代。『つばさ』(Wings 1927)のチョイ役で世界で一番早く、日本で人気が出た。トーキー時代の到来とともにハリウッドきってのトップ・スターに。長身(190㎝)で二枚目で、勇気とナイーブな知性に満ち、忍耐強く誠実で、ラブシーンは下手だけどユーモアと真摯さが同居。一流監督にも愛され、駄作が少ない。
温厚で怒りを外に表すことはめったになくても、ひとたび怒るや抜き手も鮮やかに敵を倒す。口数は少なく、「YUP(ああ)」「NOPE(いいや)」ばかり言っている。言葉で気持ちを表現するよりも行動で表現する静かなる男。
代表作は『モロッコ』(Morocco 1930)、『オペラ・ハット』(Mr. Deeds Goes to Town 1936)『打撃王』(The Pride of the Yankees 1942)『誰がために鐘は鳴る』(For Whom the Bell Tolls 1943)『昼下がりの情事』(Love in the Afternoon 1957)『真昼の決闘』(High Noon 1952)とまだまだ続く…。
前立腺がんで60歳で死去。

 

ケーリー・グラント (Cary Grant 1904-1986 英)

Cary Grant 1904-1986

英国生まれのソフィスティケイティッド・ダンディ。10代で家出してアクロバットチームに参加して全米を回る。セレブ女性に気に入られて上流社会のエレガンスを身につけた。ハリウッドでは「第二のゲーリー・クーパー」として売り出され、陽気だけど軽薄ではなく、ダンディで意外に!? 生真面目。
最初は「大根」なんて言われていたものの、キャリアを重ねるうちに「大人な」「余裕の」演技と評価は変わっていった。共演女優を輝かせる俳優なので、フィルモグラフィーを並べていけばそのまま美人女優リストができあがる。クラーク・ゲイブルみたいに女を征服するのではなく、もっとロマンチック。ラブシーンも上手で、名シーンが多い。
公私ともにリッチで優雅なバチュラーのおじさまです。
代表作はアルフレッド・ヒッチコック監督の『北北西に進路を取れ』(North by Northwest 1959)、大女優キャサリン・ヘップバーンとジェームズ・スチュアートという豪華キャストの 『フィラデルフィア物語』(The Philadelphia Story 1940)、1930~40年代が全盛のスクリューボール・コメディの傑作『ヒズ・ガール・フライデー』(His Girl Friday 1940)など。

 

コンラート・ファイト(Conrad Veidt 1893-1943 独)

Conrad Veidt 1893-1943

ドイツ表現主義の、映画史に燦然と輝く『カリガリ博士』(Das Cabinet des Doktor Caligari 1920)の痩身のチェザーレ役。また、各賞を総なめにした2019年のホアキン・フェニックス主演の映画『ジョーカー』のモデルの起源は、もとをたどっていくと、コンラート・ファイトが演じた『笑う男』(The Man who Laughs 1928)に行きつく。
映画に映し出された初めての同性愛は『他の人々とは異なって』(Anders als die Andern 1919)。ドイツ初のトーキー『六十八番の花嫁』(Das Land ohne Frauen 1929)にも主演。 ドイツでは100本以上の映画に出演し、ドイツを代表する俳優の一人だった。
ところが新妻がユダヤ系。 妻と離婚してナチスへの支持を表明する覚悟があれば、ドイツで俳優活動を続けられる。現に 反ナチスを翻した大物俳優は何人もいた。
妻がユダヤ系である以上、自分はユダヤ人であることを表明したのちイギリスに渡り、また財産の大部分をイギリスに寄付して対ドイツ戦争を支援。
英語をマスターしてからハリウッドに移る。 『カサブランカ』(Casablanca 1942)ではドイツの将校役。 心臓発作で50歳で死去。

 

 

さ行

サミー・デイヴィスJr.(Sammy Davis Jr. 1925-1990 米)

Sammy Davis Jr. 1925-1990

アフリカ系を超え、アメリカを代表するエンターテイナー。生まれながらの芸人の子で、ハーレムのボードヴィルショーの初舞台は3歳。
身長が165㎝しかない。そして頭がラッキョウ型で大きく、脚は短い。若いころはそれなりに肉がついていたんですが、次第に痩せていく。つまり、見た目ははっきり言って貧弱。
それを芸と気迫で圧倒していく。ブラック系の方の天性の敏捷な身のこなし。キレが良く、スピーディー。タップダンスの至芸はもちろん、ほんのちょっとした所作なんかもしなやかで、決まる。決まりすぎる。歌もブラック・ミュージックの伝統を受け継ぎ、鍛え上げ・磨き抜いかれたジャジー&ファンキーヴォイスで、またスケールが大きい。楽器もできる。演技やパフォーマンスを超えた凄みがある。
当然一世を風靡し、「ミスター・エンターテイメント」と呼ばれた。
日本ではサントリーウィスキーのCMに出たこともある。
映画の代表作は『ポギーとベス』(Porgy and Bess 1959)。シナトラ一家の一員となってからの『オーシャンと十一人の仲間』(Ocean's Eleven 1960)、『七人の愚連隊』(Robin and the Seven Hoods 1964)。
代表曲は「キャンディ・マン」(The Candy Man Can 1972) 、テレビでは冠番組「サミーデイビスジュニアショー」(The Sammy Davis Jr. Show 1966)など。
熾烈な人種差別を受けた。そして卓越した芸は人種差別の壁を軽々と突き破った。

 

ジーン・ケリー(Gene Kelly 1912-1996 米)

Gene Kelly 1912-1996

1940~50年代のハリウッドミュージカルの最盛期を象徴したMGM映画。なかでも製作:アーサー・フリード、監督:スタンリー・ドネン、主演:ジーン・ケリーは黄金期の黄金トリオ。(もう1人のハリウッド・ミュージカルの巨人、フレッドアステアの活躍は1930年代から)
『踊る大紐育』(On the Town 1949)、『雨に唄えば』(Singin' in the Rain 1952)、『巴里のアメリカ人』(An American In Paris 1951)の単なるダンスを超えたユーモアとペーソスの独創的なモダン・バレエはジーン・ケリーの才能あってこそ生まれた。全部必見! のミュージカル映画です。
町の元気なお兄ちゃん、といった雰囲気で、キャラクターに華があり、お尻と太ももがしっかり太く、ダンスは重心が安定していてスピードがあって軽快! フレッド・アステアのダンスが「エレガンス」なら、ジーン・ケリーのダンスは「親しみやすさ」と「躍動感」。
後に監督業もつとめ、『ザナドゥ』(Xanadu 1980)では老いてなお軽やかにステップを踏み、親子、いや、下手すると孫ほどの年の差美人と3度目の結婚をして、6年後に83歳で死去。死因は脳卒中。

 

ジーン・ハックマン(Gene Hackman 1930-  米)

Gene Hackman 1930-

ご覧のとおりの「味のある」顔。ダスティン・ホフマンは演劇学校の同級生。遅咲きの花は一気に花開いた。
決定打は『フレンチ・コネクション』(The French Connection 1971)。刑事もの。代表作。
演じるのは”ポパイ”ことドイル刑事。熱い熱い。思わず裸足で逃げ出したくなってしまう。獰猛な雑種の猟犬のごとき煮えたぎる執念、疾走するエネルギー、タフで執念深く、メラメラ怒りに燃えながら麻薬組織の犯人を追い詰める。男たちの怒号と背中が入りまじり、映画史に残る壮絶すぎる見事なカーチェイス。 ロケーションが随所にちりばめられていて、ドキュメントタッチで描かれたリアルさと緊迫感とスピード感のある演出とバツグンの映像センス。
屈折していて、タフな男を演じられる性格俳優として、以後は引っ張りだこ。
『ポセイドン・アドベンチャー』(The Poseidon Adventure 1972)は沈みゆく船を脱出し生還を目指す決死のサバイバル。
「神は忙しい。我々は自分で自分の問題にあたらなくはいけません。誓いましょう。愛する人のために、戦い抜くことを! 」のジーン・ハックマン扮する型破りの肉体派!? 牧師のセリフに、しびれましたねぇ~。
『許されざる者』(Unforgiven 1992)では製作・監督・主演のクリント・イーストウッドに三顧の礼をもって迎えられ、敵役でした。

 

ジェームズ・キャグニー(James Cagney 1899-1986 米)

James Cagney 1899-1986

小柄な体に負けん気をみなぎらせたイキのいい下町のにいちゃん。1930年代のハリウッドに旋風を巻き起こした。
当時はギャング映画が名物で、『民衆の敵』(The Public Enemy 1931)では成り上がって最後に惨殺されてしまう暗黒街の若者を血気たっぷりに演じ、とくに相手の女の顔にグレープフルーツの切り口を押し付ける場面は、残酷描写がうるさかった当時なのでたいへんな反響を呼ぶ。
『白熱』(White Heat 1949)はマザコンのギャングが母は殺され妻には裏切られ信じていた仲間がスパイだと知り錯乱して死んでいくというすさまじいもの。
ただし、キャグニーは本人は苦労人・好青年で、家族を養うためにブロードウェイの舞台で踊っていたところを映画にスカウトされた人なので、歌もダンスもお手のもの。会社に直訴して出演した『ヤンキー・ドゥードゥル・ダンディ』(Yankee Doodle Dandy 1942)のキビキビしたステップは、みていて胸すく! ご本人もホワイトハウスの階段を鮮やかにタップを踏んで下りてくるシーンが一番のお気に入り。
西部劇にも出たしコメディもこなす。舞台で知り合った奥様とは50年添い遂げ、晩年は悠々自適。

 

ジェームズ・コバーン(James Coburn 1928-2002 米)

James Coburn 1928-2002

1960~70年代に活躍したアクションスター。長身・スリム。ダンディーで、何を着ても似合う。細面のブロンドで、ゴルゴ線が決まりすぎ! ニヤっと笑った時の真っ白い歯! つまり! カッコいい! 
黒澤明の『七人の侍』の西部劇版、『荒野の七人』(The Magnificent Seven 1960)では、一番のもうけ役、宮口精二の久蔵役はジェームズ・コバーン! 宮口精二は刀だった。ジェームズ・コバーンはナイフ遣い。目にもとまらぬ速さでナイフを投げる! 「ルパン三世」の次元大介のモデルだともいわれてる。吹き替えの声優さんも同じだし。
日本ではジェームズ・コバーンは「LARK」のCMが放送されてまして、日本男児・日本女子はみな「Speak LARK!」の決めセリフにシビれたのでした。
『電撃フリントGO!GO作戦』(Our Man Flint 1966)は主演。映画『007』のパロディで、キッチュで楽しい。
主役の映画もあるけど、忘れられない脇役、の位置が光る映画が多い。『大脱走』(The Great Escape 1963)とか。
出演映画は数多いものの、正直言って演技派ではない。との世論をくつがえし、『白い刻印』(Affliction 1997)でついにオスカーを獲得。

 

ジェームズ・ステュアート(James Stewart 1908-1997 米)

James Stewart 1908-1997

親しみやすい人柄、調子が低くて丸味をおびた独特のエロキューション(ジミーの映画は吹き替えではなくぜひ字幕版を! )、少し長すぎるような手足。ちょっと猫背ぎみにも見える長身をもてあますような身のこなし。かげのないまなざし。どこからみても善意のアメリカ人。
若手・フレッシュスター時代は『スミス都へ行く』(Mr. Smith Goes to Washington 1939)などでWASP(アメリカの白人中間層)の理想主義を好演し、戦後は50年代が全盛期。『ウィンチェスター銃'73』(Winchester '73 1950)などの西部劇、『裏窓』(Rear Window 1954)『めまい』(Vertigo 1958)などのヒッチコック作品、『翼よ!あれが巴里の灯だ』(The Spirit of St. Louis 1957)など、アメリカ空軍予備役少将(ハリウッドの俳優としては最高位)としての自負を示す航空映画。
キャリアを通じ、『グレン・ミラー物語』(The Grenn Miller Story 1953)に凝縮されるようにハリウッドがうたいあげたアメリカン・ウェイ・オブ・ライフを象徴していた。
本人の一番のお気に入りの映画は、夢見る大人を描き、いつしか取り巻く人々を温かい気持ちにしていくウェルメイドの隠れたる佳作、『ハーヴェイ』(Harvey 1950)なんですって。

 

ジェームズ・ディーン(James Dean 1931-1955 米)

James Dean 1931-1955

説明無用かも。でも一応。彗星のように現れ、あっという間に去った。スター生活はたった1年。甘いマスクと上目づかいの表情は『エデンの東』(East of Eden 1955)の見どころのひとつ。
生涯に3作しか主演作がない。大河ドラマ『ジャイアンツ』(Giant 1956)撮影直後にカリフォルニアのハイウェイで自動車事故により24年の短い生涯を閉じた。
幼い時に失った母親への愛着、疎遠だった父親との関係、農場でおじおばと過ごした少年時代。鋭い感受性と愛情への飢餓感。主演3作にはディーンの半生のすべてが盛り込まれている。 『理由なき反抗』(Rebel Without a Cause 1955)は死から約1ヶ月後に公開された。
ずば抜けた演技力をもつ俳優であったことは改めて書いておかなくては。顔と手や体、全体で細かく感情を表現する。ストイックな性格で、公の席は苦手で、役者仲間からは異端児扱いされ、残された逸話も多くはない。のも伝説に拍車をかける。
同時代のエルヴィス・プレスリーとともにアメリカ経済最盛期の十代の象徴であり、子どもと大人の間の若者の存在を徹底的に感じさせた。ディーンの演じた若者の鬱屈や反抗は時代を超えた青春の象徴。

 

ジェームズ・メイソン(James Mason 1909-1984 英)

James Mason 1909-1984

ローレンス・オリヴィエと並び称されたイギリスの名優。オリヴィエは白、メイソンは黒ですかね。ケンブリッジ大学を出て建築家になるはずが、世界大恐慌でうまくいかず、演劇の道に。暗さと重厚さを兼ね備え、臨機応変。声はベルベットヴォイスと言われた。柔らかく、深みがあり低くて艶がある。
キャロル・リード監督の『第三の男』に先立つフィルム・ノワール『邪魔者は殺せ』(Odd Man Out 1947)が出世作。名優名優と言われている割には主役の映画がパッと浮かんでこない。オスカーにも何度もノミネートされているのに、手が届かず、しかし観客と批評家、どちらもうならせ、「無冠の帝王」と呼ばれた。
主演は『ロリータ』(Lolita 1962)があったか。(でも、倒錯に走ってる…)それでも『スタア誕生』(A Star Is Born 1954)でジュディ・ガーランドの夫役でスターが落ちぶれて妻の足手まといになるまいと入水自殺を遂げるシーンとか『北北西に進路を取れ』(North by Northwest 1959)の冷やかな悪の総元締めなど、いったん見たら「誰だろう、あの人…」と無性に気になってしまうんですねえ。悲劇とか悪役とかだと、余計に。忘れられない。

 

ジェラール・フィリップ(Gerard Philipe 1922-1959 仏)

Gerard Philipe 1922-1959

男の人相手にこんなこと言っていいのかわからないんですが、泣きたいほどの清らかさ、気高さ、優雅さ、ナイーブさと気品。1950年代のフランス映画の産んだ、世紀の珠玉の宝石。はかなくも美しい、はわたし的にはジェラール・フィリップのためにある言葉。醒めて懐かしむ夢のように切ない甘さが漂う究極の二枚目。
カンヌで法律を勉強していたら、戦時下のパリから疎開してきた映画人と知り合ったのが映画界入りのきっかけ。舞台経験を経てコンセンヴァトワールでさらに演技を磨き、『肉体の悪魔』(Le Diable au corps 1947)『パルムの僧院』(La Chartreuse de Parme 1947)、『花咲ける騎士道』(Fanfan la Tulipe 1952)『赤と黒』(Le Rouge et le Noir 1954)『モンパルナスの灯』(Les amants de Montparnasse (Montparnasse 19)  1958)と続き、ブリジット・バルドーの言葉を借りれば、「生きながらにしてすでに伝説」に。
アイドルというよりは端正なインテリで、フランスのエスプリを体現しているかのような映画人であり、舞台人。36歳の若さでガンで死去。
奥様は5歳年上。やっぱり~、ってかんじ。

 

ジェリー・ルイス(Jerry Lewis 1926-2017 米)

Jerry Lewis 1926-2017

1950年代アメリカを代表するお笑いコンビが「底抜けコンビ」。歌手のディーン・マーティン(ツッコミ)とボードヴィリアンのジェリー・ルイス(ボケ)の二人組。
両雄並び立たずのことわざ通り、最後にはコンビ解消しちゃうんですが(ジェリー・ルイスにばかりスポットがあたり、ディーン・マーティンは耐えられなくなった)、2人とも、超一流中の一流で、一人立ちしたあとも圧倒的なパフォーマンスが続くところがまたすごい! 
2人で出てる映画だと代表作は『画家とモデル』(Artists and Models 1955)と『底抜けニューヨークの休日』(Living It Up 1954)など。テンポが速く、ひょうきんに歌い、騒ぐジェリー・ルイスと負けじと張り合うディーン・マーティンは大人気で51年から56年までマネーメイキング・スターに名を連ねる。
独立後はコメディアンとして全開。世界NO.1の喜劇王・天才コメディアンとしてシナリオ、監督、主演をこなし、才能をいかんなく発揮していく。代表作は『底抜け大学教授』(The Nutty Professor 1963)。奇想天外、支離滅裂。日本でいうとドリフのノリに通じるギャグ満載で、踊りまくる。必見ですよ。

 

シドニー・ポワチエ(Sidney Poitier 1927-  米)

Sidney Poitier 1927-

アフリカ系アメリカ人の、ボードヴィルや歌や踊りではなく、演技で名声を築き上げたさきがけが、シドニー・ポワチエ。 (もう1人、ウディ・ストロードという巨人もお忘れなく) 「白人が望む二枚目・インテリの理想的な黒人」を、武ではなく、知で演じる。時代もあり、致し方ない部分は確かにある。まず、企画がないんだから。 シドニー・ポワチエがいて、ハリー・べラフォンテがいて、デンゼル・ワシントンやエディ・マーフィーやモーガン・フリーマンへの道が開かれていったのです。 『暴力教室』(Blackboard Jungle 1955)で注目され、『野のユリ』(Lilies of the Field 1963)ではじめてアフリカ系としてアカデミー主演男優賞及びゴールデングローブ賞主演男優賞受賞という歴史的快挙を成し遂げた。授賞式でのスピーチは「私一人で貰ったとは思っていない。これまで努力した何百人もの黒人映画人の努力が実ったものだと思っている」。ハル・ベリーも同じようなこと言ったなあ。 出演作はほかに『夜の大捜査線』(In the Heat of the Night 1967)、『招かれざる客』(Guess Who's Coming to Dinner 1967)など。 生まれは貧しく、学歴もなかった。生涯、努力と忍耐と寛容で道を切り開いた。

 

ジャッキー・クーガン(Jackie Coogan 1914-1984 米)

Jackie Coogan 1914-1984

チャップリンの映画『キッド』(The Kid 1921)の子役。男に捨てられた女から赤ん坊を預かって育てる羽目になるチャップリン。クーガン坊やの可愛らしさと怜悧さはまさに神! 子役はたいてい親たちに映画界に入れられ、気がついたら自分の親よりもずっと高給取り(ということもわかっていないのだが)になり、言われるままに演じ、小さくて可愛いから仕事がありなくなればおしまい、を本能で感じ取っている。 観客にとっては大きくなった子役はお払い箱で、またすぐかわいい子役をみつけて夢中になってしまう。 映画会社は人気のある子役をできるだけ成長させないように監視を続け、もうこれ以上は無理となると捨ててしまう。そういう仕打ちをされて、その後の人生がすっかり狂ってしまう。 ジャッキー・クーガンわずか8歳で週給2万ドルを稼いでいた。あどけなさと愛らしさで1,000万ドル以上の大金を稼ぎながら、それを彼のマネージャーと再婚した実の母親に奪われたとして訴訟騒ぎを起こし、のちに子役の財産を守るための法律「クーガン法」ができるきっかけとなった。 クーガン自身は、テレビシリーズ『アダムズのお化け一家』(The Addams Family 1964-66)で再び名声を取り戻しました。

 

ジャック・レモン(Jack Lemmon 1925-2001 米)

Jack Lemmon 1925-2001

チャールズ・チャップリンと並ぶ映画の天才。俳優を通り越している。次元が違う。とにかく上手い。少し上手すぎるのが欠点ではないかと思ってしまう。 平凡で、少々セコい、都会のどこにでもいるような独身男。実はいちばん難しい。そういう男をやらせたら天下一品。 ジャック・レモンが演じる男たちは哀愁とユーモアをとらえて飽きさせず、お涙頂戴部分も過度の湿り気に流れない。塩梅というものを十分に心得た天性の大人の役者。おかしさと哀しさ。やさしさと強さ。 ジャック・レモンは現場ではほとんどノイローゼ状態らしい。刃の上を渡るような感じで演技している。 『ミスタア・ロバーツ』(Mister Roberts 1955)でヘンリー・フォンダとジェームズ・キャグニーを前にしてやたらに目立った二枚目半、『お熱いのがお好き』(Some Like It Hot 1959)の女装して夜通しで踊る恋のタンゴのスペクタクル、『アパートの鍵貸します』(The Apartment 1960)独り者男のやるせなさ、そして愛する女を想うせつなさが全身にあふれていた。『あなただけ 今晩は』(Irma la Douce 1963)も外せない。 『おかしな二人』(The Odd Couple 1968)でウォルター・マッソーと組んで”おかしな”シリーズに出演。晩年は『チャイナ・シンドローム』(The China Syndrome 1979)、『ミッシング』(Missing 1982)などでの問題作にも出演。

 

シャルル・ボワイエ(Charles Boyer 1899-1978 仏)

Charles Boyer 1899-1978

1930~40年代にフランスとハリウッドで活躍。この方もエロキューションがセックスアピールのタイプ。ハリウッドではフランス訛りの英語が受けた。舞台経験が長く、トーキーの到来と映画への登場のタイミングがぴったりだった。 フィルモグラフィーを追っていくと、とにかく当代のトップの美人女優のラインナップができあがる。『うたかたの恋』(Mayerling 1936)のダニエル・ダリュー、『沙漠の花園』(The Garden of Allah 1936)のマレーネ・ディートリッヒ、『歴史は夜作られる』(History Is Made at Night 1937)のジーン・アーサー、『征服』(Conquest 1937)のグレタ・ガルボ、『ガス燈』(Gaslight 1944)のイングリット・バーグマン、『殿方ご免遊ばせ』(Une parisienne 1957)のブリジット・バルドー…とものすごい。女性の心を惹きつけ震わせる、大人気のメロドラマ・恋愛映画の国際スターだった。 愛妻家で、奥さまがガンで亡くなり、その2日後に自殺してしまった。世紀の二枚目スターの死は世界をかけめぐった。享年78。一人息子も21歳に自殺で亡くしている。言葉がみつからない…。。。

 

ジャン=ピエール・オーモン(Jean-Pierre Aumont 1911-2001 仏)

Jean-Pierre Aumont 1911-2001

コンセルヴァトワールを卒業し、『乙女の湖』(Lac aux dames 1934)で人気爆発! 可憐な乙女に愛される若き水泳教師を演じ、甘いマスクと肉体美の水着姿に女の子の目はくぎ付け! 演技のできる二枚目として1930年代後半は引っ張りだこで、共演者の顔ぶれはジャン・ギャバン、ルイ・ジューウェ、アルレッティ、ダニエル・ダリューと ものすごい。若き日の出演作はほかに『白き処女地』(Maria Chapdelaine 1934)、『北ホテル』(Hôtel du Nord 1938)など。
前途洋々のはずが、ドイツ軍のパリ侵攻。両親ともにユダヤ人だったためアメリカに亡命。亡命先から自由フランス軍に志願・従軍。祖国を取り戻すために戦った。
終戦後は金髪・青い瞳、優雅で洗練されたヨーロッパの香りをもつ美男スターとしてたちまち人気者に。
後にフランスに戻るものの、アメリカとヨーロッパを行き来し、映画にテレビに舞台に息長く活躍。渋い中年時代の代表作は『アメリカの夜』(La Nuit américaine 1973) など。
美貌の二枚目にふさわしく、奥さまは2人とも女優さん。(マリア・モンテスとピア・アンジェリの双子のお姉さん)ほかに噂があったのがジョーン・クロフォード、ヘディ・ラマール、ヴィヴィアン・リー、バーバラ・スタンウィック、グレース・ケリー…豪華すぎます。

 

ジャン=ポール・ベルモンド(Jean-Paul Belmondo 1933-  仏)

Jean-Paul Belmondo 1933-

何かにつけて同時代のアラン・ドロンと比較された。ドロンの美貌、ベルモンドはボクシングでつぶれた鼻の”普通”の青年。ドロンの感性、ベルモンドはコンセンヴァトワール出身の理論演技派。
「俺は最低だ」とつぶやきながらパリの路上で死ぬチンピラを演じた『勝手にしやがれ』(À bout de souffle 1959)でスターとなる。構成を無視したかのような映画づくりと、映画スターのイメージを変えたベルモンドのマスクに、観客は息をのんだ。ヌーヴェル・ヴァーグの代表作であり、ベルモンドの代表作でもある。ヌーヴェル・ヴァーグの寵児。反体制の象徴。
人なつこい甘ったれたムードをいっぱいに保ちながら人生のペシミズムを表現。ただし湿っぽくならないやんちゃぶりが個性でもあり、魅力。気どりがなくてしかも粋。
出演作はほかに『気狂いピエロ』(Pierrot Le Fou 1965)もヌーヴェル・ヴァーグの記念碑的作品で、『ボルサリーノ』(Borsalino 1970)ではアラン・ドロンと夢の共演。『リオの男』(L'Homme de Rio 1964)はアクション! コメディ! 魅了満載の隠れたるカルト的名作。「ルパン三世」の原点であり、あの鼻はコミック「コブラ」のモデルですよね。日本のサブカルに、影響大。

 

ジャン=ルイ・トランティニャン(Jean-Louis Trintignant 1930-  仏)

Jean-Louis Trintignant 1930-

アメリカのマリリン・モンローに対し、フランスのブリジット・バルドーが誕生した『素直な悪女』(Et Dieu... créa la femme 1956)が出世作。憂い顔の青年で、同時代のアラン・ドロン、ジャン=ポール・ベルモンドとは別の個性、誰にでも受けるハンサムというわけではないけど、デリケートで知的な個性で、大人の男の色気があるんですね。若いときはバレエをやっていて、たくましいのと同時に繊細さがある。
『男と女』(Un homme et une femme 1966)の音楽と映像に凝縮された大人の恋心をロマンチックに演じてトップスターに。(1986年と2019年に後日譚の続編も作られた。)『激しい季節』(Estate violenta 1959)の年上の女とのラブシーンと辛い別れ、、『Z』(Z 1969)は社会派サスペンス。政治的なテーマのある作品でも演技派の風格をみせる。『暗殺の森』(Il conformista 1970)の華麗な虚無感、 『離愁』(Le train 1973)の秘めたる心。身の危険をかえりみず、思わすロミー・シュナイダーに手を差し出してしまう。泣けてくる。
人生のひだを演じることができる、通好みの俳優さん。

 

ジャン=ルイ・バロー(Jean-Louis Barrault 1910-1994 仏)

Jean-Louis Barrault 1910-1994

フランス映画の金字塔『天井桟敷の人々』(Les enfants du Paradis 1945)の主演男優として。
『天井桟敷の人々』の何がすごいのかというと、ドイツ占領下のフランスで作られた映画。圧制の中3年以上の年月をかけて作られた執念の超大作である。19世紀のパリを舞台にした大河ドラマであり。贅を尽くした衣装や大がかりのセット、そして美女を取り巻く絢爛たる愛憎絵巻という内容は、戦時下の映画であることを少しも感じさせない。オーソドックスのなかに果てしない広がりが感じられる。反戦のメッセージを盛り込むことも、まして占領軍に屈服することもなく、ひたすら己の信じる芸術作品を作り上げたレジスタンス魂、根底にある反ナチズムの反骨精神が、今なお強く人々の心を打つのです。
女芸人で皆が恋焦がれるアルレッティの「愛しあう二人にはパリは狭いわ」「恋なんて簡単よ」は映画史に残る名セリフ。2人の出会いのきっかけとなるバローのパントマイムのシーンはことに有名。名優しか出てこない。火花散るとはこのことです。
ジャン=ルイ・バローは、本業!? は舞台俳優で、映画の出演作は多くない。自分と妻の名前のついた劇団を率いて1980年代まで活躍し、日本にも何回か来ています。

 

ジャン・ギャバン(Jean Gabin 1904-1976 仏)

Jean Gabin 1904-1976

私は20世紀のフランス映画のNo.1男優はジャン・ギャバンだと思う。
父は芸人、母は歌手。人夫をはじめいろいろな肉体労働をしたあげく、フォーリー・ベジュールの舞台で踊るようになった。映画界入りは端役からでジュリアン・デュヴィヴィエ監督に見出され、『望郷』(Pépé le Moko 1937)でトップスターの座に。「ギャビー! 」と愛する女の名前の叫びが汽船の汽笛にかき消されるラストシーン。男の貫禄。「これが男だ! 」と全身全霊で主張している迫力。『大いなる幻影』(La Grande Illusion 1937)など、映画史上に名高い秀作も多い。
一時ハリウッドに渡ったものの、肌にあわないとすぐにフランスに戻った。
年齢とともに渋みも増し、『現金に手を出すな』(Touchez pas au Grisbi 1954)、『地下室のメロディー』(Mélodie en sous-sol 1963)へとすごみが底光りする老ギャング役で一時代を画した。
男の哀愁を演じて他の追随をゆるさない。人生をひたむきに生きる男の気品を漂わせ、フフランスを代表する演技派にのぼりつめ、晩年の映画人生をまっとうした。男のロマンの真髄をそのまま体現した俳優。 心臓マヒで72歳で死去。

 

ジャン・マレー(Jean Marais 1913-1998 仏)

Jean Marais 1913-1998

詩人でもあり、映画監督としてのジャン・コクトーが美の化身、として世に送り出したのがジャン・マレエ。ギリシア彫刻を思わせる彫りの深い、二枚目なんて言葉が陳腐に聞こえてしまう、人間離れしたスケールの美しさ。舞台俳優だったころからコクトーの舞台に出ていて、2人の関係は半ば公認だったし、人気俳優だった。マレーはコクトーの映画と舞台にはすべて出演している。
「私の耳は貝のから 海の響きを懐かしむ」がコクトーの詩。映画でも、当時としてはセンセーショナルな、詩人コクトーのイマジネーションが結集したアバンギャルドな、美術・衣装・カメラ・照明・台詞・俳優の演技から仕草にいたるまでの行き届いた演出、動きのたおやかさ。幻想的な映像美がみどころ。
また、映画にとどまらず、のちの時代の、テレビドラマ、アニメーション、マンガ作品など様々なメディアに影響を与えている。 代表作は『美女と野獣』(La Belle et la Bête 1946)、『双頭の鷲』(L'Aigle à deux têtes 1947)、『オルフェ』(Orphée 1950)など。
岸惠子とも共演作がある。(『忘れえぬ慕情』(Typhon sur Nagasaki 1956)監督が見染め、2人は結婚。岸惠子はパリにお嫁に行ってしまった。小津安二郎監督は「いったい日本の男は何をしているんだ。ガラス瓶の底みたいな目の色をした男に岸を取られて。」と嘆いたんとか。

 

ジョエル・マクリー(Joel McCrea 1905-1990 米)

Joel McCrea 1905-1990

1940年代後半に立て続けに西部劇映画に出演した二枚目スター。
キャリアのはじめのうちの代表作はヒッチコック監督の『海外特派員』(Foreign Correspondent 1940)。ヒッチコック監督がハリウッドに渡り、『レベッカ』で大成功を納めたあとの2作めで、黒いこうもり傘が連なる階段での殺人と逃亡シーン、オランダが舞台で、大きな風車が回る中、犯人を追って中に入り込む、などのディテールが素晴らしい。
ルックスも精悍で好感度高く、怜悧な人柄、着実な演技でメロドラマやコメディ映画にも出演作は数多い。
人気が出て、作品を選べるようになり、出演作に西部劇が増えてくる。バッファロー・ビルの伝記映画『西部の王者』(Buffalo Bill 1944)で地位を確立。
正統派の二枚目で、伝説の西部劇スター、ウィル・ロジャースに目をかけられていたとも。結婚は女優さんとで(フランシス・ディー)、子どもは3人、生涯添い遂げ、投資に長け(広大な牧場をギャラで購入)、もうあくせく映画に出なくても、と引退を表明。
それでも、最後の西部劇監督ともいわれたサム・ペキンパー監督の『昼下りの決斗』(Ride the High Country 1962)には出演。 84歳で死去。死因は肺炎。

 

ジョー・E・ブラウン(Joe E. Brown 1891-1973 米)

Joe E. Brown 1891-1973

1930~40年代のハリウッドで最も人気のあったコメディアンの1人。愛称は「大口のブラウン」。
ボードヴィルとブロードウェイで芸を磨いて映画界入り。人並はずれて大きな口をいっぱいに開いて奇声を発して、笑う。下品じゃなく、楽しくて親しみやすい。のキャラクターとスピーディなギャグのセンスで、すぐに人気スターに。代表作は『お化けトラクター』(Earthworm Tractors 1935)『ブラウンの怪盗手』(Alibi Ike 1935)など。
顔はこんなんですが(失礼)、野球選手時代はニューヨークヤンキースからスカウトがかかったことのある本格派(コメディアンの道と天秤にかけて断った)。運動神経バツグンだから野球ものとかボクシングものなんかお手のもの。体を使ったコメディが決まる。テーマも明朗で文部省推薦ものだし、特に子どもたちに大人気!
 戦時中は費用は自分もちで大西洋を何回も横断し、軍隊慰問に縦横無尽の大活躍。反ナチで、のちにドイツ系の女の子2人を養女にした。息子が米陸軍航空隊で戦死するという悲劇もあった。
戦後は映画・テレビ・ラジオのジャンルを問わず活躍し、『お熱いのがお好き』(Some Like It Hot 1959)で演じた大富豪、オズグッド・フィールディング3世のラストの決めセリフ「完全な人間はいない。」でキャリアに有終の美を飾った。

 

ジョージ・C・スコット(George C. Scott 1927-1999 米)

George C. Scott 1927-1999

こ、怖い…。お人柄も見た目どおり気難しい。共演者も戦々恐々だったらしい。態度も声も荒っぽく、将校だのお医者さんだの、演じる役も権威のある、威風堂々の役ばかり。アカデミー賞を獲得しても「あんなのくだらん肉の集まりだ」とアカデミー史上最初の受賞拒否。賞をもらってもノミネートを重ねても断固拒否。
それでも演技力はずば抜けており、史上最高の俳優とうたわれた。ショーン・ペンと並び「この人が出ている映画に、絶対ハズレなし」。
『ハスラー』(The Hustler 1961)では冷酷な金の亡者を演じてポール・ニューマンをビビらせ怒らせる。
『パットン大戦車軍団』(Patton 1970)で最初のアカデミー賞主演男優賞受賞拒否。(辞退はしても記録は残り、宙に浮いたオスカー像は軍事学校に保管されている。ちなみにニューヨーク映画批評家賞は黙って受け取った。)
『タップス』(Taps 1981)では若き日のティモシー・ダルトン、ショーン・ペン、トム・クルーズという信じられない豪華メンバーを率い、当然クレジットはトップ。
晩年まで活躍し、『クリスマス・キャロル』(A Christmas Carol 1984)のスクルージ教授役やブロードウェイの舞台での「セールスマンの死」も絶賛の嵐。
結婚は5回。腹部大動脈破裂により71歳で死去。

 

ジョージ・チャキリス(George Chakiris 1934-  米)

George Chakiris 1934-

『ウエスト・サイド物語』(West Side Story 1961)のマンハッタンのプア・プエルトリカンの不良少年団のシャーク団のトップ、ベルナルド役として。紫のシャツをかっこよく着こなして、ビシッと決めるダンスは、見事! セクシー! ラテンの血のエキゾチシズム! ただし本人はギリシャ系。
舞台はNYのゲットー。ファンタジーではなく現実がミュージカルに持ち込まれ、白人とプエルトリカンのストリート・ギャングが主人公。設定がリアルすぎる。
さらにハリウッドではミュージカルといえば個人芸が中心だけど、ブロードウェイだと必ず群舞がある。『ウエスト・サイド物語』の冒頭、ニューヨークロケで撮影されたダンス、「アメリカ」「マンボ」「クール」みな総毛立つ出来栄え。
ジョージ・チャキリスはこの1作で国際スターとなった。ただしフランスで撮影された同じくミュージカル映画『ロシュフォールの恋人たち』(Les Demoiselles de Rochefort 1967)でのチャキリスのダンスは『ウエスト・サイド物語』のそれと、あまりにも気合の入りかたが違いすぎて(つまりユルい)ガクゼンとするしかなかったのも確か。
出演作はほかに『ブーベの恋人』(La Ragazza di Bube 1963)など。

 

ジョージ・バンクロフト(George Bancroft 1882-1956 米)

George Bancroft 1882-1956

舞台経由でサイレント時代にハリウッド入り。海軍にいたことがあり、強面の偉丈夫。西部の荒くれ男やすごみとドスのきいたギャング役などで活躍。
ディートリッヒと出会う前のジョセフ・フォン・スタンバーグ監督の『紐育の波止場』(The Docks of New York 1928)や『サンダーボルト』(Thunderbolt 1929)のあたりは人気絶頂。 しかし天狗になってしまったらしく、傲岸不遜な態度は役柄そのまま。現場では疎まれるようになってしまう。
監督に「拳銃で撃たれたら倒れろ」と指示され、「俺はジョージ・バンクロフトだ。一発の銃弾くらいじゃ死なない。」と演出を拒否した、とのエピソードが伝わっています。
脇役時代の出演映画には名作、傑作が目白押し。『汚れた顔の天使』(Angels with Dirty Faces 1938)では悪徳政治家(主演:ジェームズ・キャグニー)、『駅馬車』(Stagecoach 1939)では保安官、(主演:ジョン・ウェイン)、『北西騎馬警官隊』(North West Mounted Police 1945)では武器密輸のならず者(主演:ゲーリー・クーパー)など。
きっぱり引退し、余生は南カリフォルニアで牧場を経営。

 

ジョージ・ペパード(George Peppard 1928-1994 米)

George Peppard 1928-1994

ニューヨークのアクターズスタジオ出身の演技派。甘いマスクと演技力で『ティファニーで朝食を』(Breakfast at Tiffany’s 1961)でオードリー・ヘップバーンの相手役に抜擢される。もちろん人気も急上昇。
しかしその後の出演作にはアクション映画が多い。代表作はハワード・ヒューズの生涯を描く『大いなる野望 』(The Carpetbaggers 1964)。ただ、正統派でかげりのあるイケメンアクションスターは、ペパードが世に出た1960年代だと時代に合わない。現場で監督やプロデューサーと衝突、契約した映画を途中降板して損害賠償を請求されたり、興行成績がふるわなかったりで、1970年代の終わりまでは「カネにならないスター」と呼ばれ、トラブルメーカーのイメージが先行してしまった。
しかし明けない夜はなく、年齢を重ね、余裕と貫禄をたくわえテレビシリーズ『特攻野郎Aチーム』(The A-Team 1983-87)のリーダー役は大ヒット。
あの美形の青年が、ベトナム戦争の無罪の脱獄兵ですかあ…。クレジットが流れ、「…どこかで見たような名前だ…。」とモヤモヤし、真実を知って!? 二度見してまったのは、きっと私だけじゃないはず。

 

ジョージ・ラフト(George Raft 1901-1980 米)

George Raft 1901-1980

私のPCの壁紙は一時、ジョージ・ラフト☆彡 「スネークアイズ」とうたわれた、からみつくかのような粘っこいまなざし。
ニューヨークのヘルス・キッチン(地獄の台所)と呼ばれた貧民街に生まれ育ち、町の不良どもに仲間入り。ジャズエイジが訪れ、ダンサーになり、金持ちの女性の夜のお相手をつとめる。踊りは超一流で、フレッド・アステアは「セクシー! 」と絶賛。『ボレロ』(Bolero 1934)や『ルムバ』(Rumba 1935)など、ごらんください♪
テキサス・ギナンの口利きでハリウッド入り。『暗黒街の顔役』(Scarface 1932)が出世作。(注:スカーフェイスはアル・カポネの別名)ラフトはボスの若き用心棒役。デビューしたてで芝居ができず、窮余の一作、画面の片隅でいつもコインをいじっている。ミステリアス。ボスの妹と仲良くなり、一緒のところをボスに打たれて息絶える。指から落ちたコインは床をころがり、やがて、止まる。
ギャングといえば残忍・粗野と思いきや、ラフトは、ダンディー。髪は漆黒、ビシッとグリースで固め、ソフト帽をかぶり、真新しいスーツに身を包む。感情を外に表さない、白面の貴公子ならぬ白面のギャングスター。唇を動かさずにしゃべる。人間味が感じられず、冷酷な凄みがある。
当然、モテる。とてもとてもモテる。ノーマ・シアラー(大プロデューサーの未亡人)やベティ・グレイブル(10歳以上年下)との仲は有名。でもどちらも、身分が違う、将来のある彼女にはふさわしくないと身を引いてしまった。
カメオ・スターとして出演した『お熱いのがお好き』(Some Like It Hot 1959)ではギャング史上に残る聖バレンタインデーの虐殺をおこした1930年代のシカゴのギャングのボス、スパッツ・コロンボを演じた。帽子・コート・磨きあげた靴に白いスパッツ・黒いリムジン・マシンガン…。絵にかいたかのようなダンディなギャングで、あたかも若き日の自分をもう1度演じたかのよう。

 

ショーン・コネリー(Sean Connery 1930-  蘇)

Sean Connery 1930-

007といえばジェームズ・ボンド、ボンドといえばショーン・コネリーの時代を築いた。スパイが情報員となり、スーツにブリーフケース、秘密兵器を満載したアストン・マーティンを乗り回し、武器として鍛えた肉体とセックス・アピールをフル回転させる男性美の極致。7作に出演している。ベスト1の呼び声高いのは第2作、『007 ロシアより愛をこめて』(From Russia with Love 1963)
さらにすごいのはスッパリと007シリーズを卒業したこと。そしてカツラを取って、むしろ007後にキャリアが花開いたこと。どちらもなかなかできることじゃないですよ~。『風とライオン』(The Wind and the Lion 1975)、『薔薇の名前』(Le Nom de la Rose 1986)あたりでジェームズ・ボンドのイメージから脱却。大人の余裕を色気をあますところなく発揮しながらの『アンタッチャブル』(The Untouchables 1987)、『インディ・ジョーンズ/最後の聖戦』(Indiana Jones and the Last Crusade 1989)『小説家を見つけたら』(Finding Forrester 2000)など、老ければ老けるほどよくなる俳優さん。
見るべき映画が多すぎる!

 

ジョセフ・コットン(Joseph Cotten 1905-1994 米)

Joseph Cotten 1905-1994

オーソン・ウェルズの演劇グループに参加したのがきっかけで映画史に残る『市民ケーン』(Citizen Kane 1941)ではオーソン・ウェルズ扮するケーンと親交のあった演劇評論家役。のちの時代に受け継がれていく映画技法と、フィクションとノンフィクションをつないでいく巧みさ。『第三の男』(The Third Man 1949)の二流小説家役。光と影でモノクロ映画の頂点を極め、チターの調べが叙情とサスペンスを緩急よく盛り上げる。映画史を代表する名場面の連続だったりする。この2作で早くも頂点を極め、ウェルズとの交流は終生続く。
ヒッチコック監督の『疑惑の影』(Shadow of a Doubt 1943)、イングリット・バーグマンの『ガス燈』(Gaslight 1944)、マリリン・モンロの『ナイアガラ』(Niagara 1953)など、知的で控えめな美男子として今なお知られている名作映画に出演。
実際のお人柄も役柄そのままにエレガントな男性だったらしい。映画を見ていてもファッションや動きや身のこなしや話し方が端正で。
その後は映画では脇役にまわるものの、テレビショーやテレビドラマにも安定して出演していて、人気もあった。

 

ジョニー・ワイズミュラー(Johnny Weissmuller 1904-1984 羅)

Johnny Weissmuller 1904-1984

ターザン役者は数あれど、エルモ・リンカーンなんて筋肉はいいけど顔が…。(失礼)6代目のターザン役者、ジョニー・ワイズミュラーまできて、やっと二枚目になってくれました! ワイズミュラーのあと、彼をしのぐターザン役者はいない。
なんてったって超一流のアスリート! 1924年のパリオリンピックでは自由形で金メダル3、水球で銅メダル1。1928年のアムステルダムオリンピックでは自由形で金メダル2を獲得。 100メートル自由形で1分の壁を破った世界最初の人でもあるのです。
引退後はBVDのモデルになって下着姿を披露し、全米をプロモーションして回ったところで映画にスカウトされた。『類猿人ターザン』(Tarzan the Ape Man 1932)大ヒット! 象を呼ぶ「ワーァ ァアアァ~」の呼び声とオリンピックアスリートのほれぼれする泳ぎっぷりで人気爆発! シリーズは12本にも及び、ワイズミュラーは200万ドル以上を稼いだと言われている。
映画俳優としてはターザンだけ。だったかもしれないけど、引退後も事業に社会活動に活躍し、一時代を築き上げ、伝説となり、名士として生涯を終えた。
79歳で肺水腫で死去。棺が地面に降ろされたとき、彼が生み出したターザンの叫び声が3回。故人の遺言でした。

 

ジョン・ウェイン(John Wayne 1907-1979 米)

John Wayne 1907-1979

古きよき時代のパイオニア精神をしょって立つ、男っぽい正義の味方。よくも悪くもアメリカの象徴。パワーを持ったリーダー役で絶妙な父性の代表。小気味よい勧善懲悪の世界に、男のつらさやシャイな愛情、友情の強い絆などを骨太に演じて、血の通ったヒーローを体現した。身長194cmの巨漢。片足を引きずりぎみに、すこぉし背中を丸めて歩く。ちょっと照れたような仕草や堂々としたエロキューション。手にはライフル。あれがアメリカだったなあ、と思わせる。
ジョン・フォード監督の『駅馬車』(Stagecoach 1939)のガンマンで一躍スターに。その後はフォード一家の家長として『黄色いリボン』(She Wore a Yellow Ribbon 1949)、『静かなる男』(The Quiet Man 1952)、『リバティ・バランスを射った男』(The Man Who Shot Liberty Valance 1962)など。フォード監督作品以外だと『リオ・ブラボー』(Rio Bravo 1959)、『史上最大の作戦』(The Longest Day 1962)、遺作となった『ラスト・シューティスト』(The Shootist 1976)など。
タカ派にすぎるんじゃないか、は置いといて、出演映画は大衆に愛され続けている。

 

ジョン・ガーフィールド(John Garfield 1913-1952 米)

John Garfield 1913-1952

39歳の若さで急逝。もともと猩紅熱を患い、心臓が悪く事件性はないものの、赤狩りの犠牲となってしまった心労が早すぎた死につながったことは想像にかたくない。
アメリカ男子のエッセンスは1にボギー、2がジョン・ガーフィールド、3がマーロン・ブランド。
ニューヨークのローワーイーストサイドに生まれ、母親が死に、不良少年のリーダーで風切って歩いていた。入れられた学校でボクシングと演技に目覚め、病気をしてボクシングは断念。認められて演劇学校の奨学金を獲得。
ユダヤ系で、演技力のある人だから、暗く、かげりのある屈折した青年なんか演じさせると実にうまい。『四人の姉妹』(Four Daughters 1938)は、クセのある作曲家役でいわばマーロン・ブランドやジェームズ・ディーンのさきがけで、しかもスタイリッシュ。たちまち人気スターとなり続く『郵便配達は二度ベルを鳴らす』(The Postman Always Rings Twice 1946)、『紳士協定』(Gentleman's Agreement 1947)。どちらもテーマに影のある名作。
知名度があがってきたところで、幼なじみの奥さまが共産党員で、赤狩りにつかまってしまう。 葬儀には数千人のファンが集まり、街頭では10,000人以上が棺を見送った。

 

ジョン・ギールグッド(John Gielgud 1904-2000 英)

John Gielgud 1904-2000

ローレンス・オリヴィエの先生。マーロン・ブランドの先生。
ロンドンの王立演劇学校で学び、ハムレット役者として活躍。20世紀最高のハムレット役者と言われた。父がポーランド人なので、純粋なイギリス人の顔ではない。透き通るような面差しの美青年でした。
ヒッチコック監督のイギリス時代の作品『間諜最後の日』(Secret Agent 1936)で若々しい姿を見ることができる。
本業は舞台だし、演出もすれば劇場の設立に奔走、後進の指導と働き続ける。
演技は当然正統派・高潔・貴族的・格式高い。なので時代時代のシェイクスピア映画や、歴史スペクタクルなどの大作映画の重鎮の脇役に名を連ねる。年齢を重ねるごとに、キャラクターは変わらないけど、ライトな映画にも出るようになる。さらに、キャリアが息長く、50年代以降20世紀の終わり近く、90歳過ぎても映画に出続けた。
出演作は『ジュリアス・シーザー』(Julius Caesar 1953)、『リチャード三世』(Richard III 1955)、『炎のランナー』(Chariots of Fire 1981)など。
ゲイだったんですって。スキャンダルもあったんですが、生前は伏せられていた。本人も生涯ひた隠し続けた。時代ですね。

 

ジョン・ギルバート(John Gilbert 1897-1936 米)

John Gilbert 1897-1936

世紀の美女、グレタ・ガルボとのコンビで映画を変えた。それまでの女優さんって、メリー・ピッグフォードとかリリアン・ギッシュとか「かわいい、けなけな女の子」の映画が人気だった。ところが。若干ハタチでスウェーデンからやってきたガルボが知的で妖しくセクシーな大人の女を演じて、時代を変えてしまった。『肉体と悪魔』(Flesh and the Devil 1926)は空前のヒットを飛ばし、観客は今まで見たことのないものを見た。
共演前から『メリー・ウイドー』(The Merry Widow 1925)では男爵の役でサイレント映画ならではの表情の動きやアクションは何とも優雅。淀川長治さん曰く「これはあらゆる戦争映画のなかのNo.1です」の『ビッグ・パレード』(The Big Parade 1925)では兵士役。すでに大スターだった。
ガルボとのゴールデンカップルは『アンナ・カレニナ』(Love 1927)、『恋多き女』(A Woman of Affairs 1928)と続く。
ここで、映画はトーキーに移る。ガルボなんて、大大大スターだったから、やっぱり周りが守って、乗り切った。でも、ジョン・ギルバートは甲高いキンキン声で失笑をかう。失意のまま38歳の若さでアルコール中毒による心臓発作で世を去った。

 

ジョン・バリモア(John Barrymore 1882-1942 米)

John Barrymore 1882-1942

まずブロードウェイでスターとなりニューヨークとロンドンでハムレットを演じて大好評。はじめは映画と舞台をかけもちしていた。
ハムレットを演じるくらいだから、演技力ははじめから折り紙つき。そして、凛々しさと哀愁が同居する世紀の美男。ことに自分で自分の横顔がお気に入りで、アングルも横顔にとにかくこだわり、残された写真も横顔が目立つ。「偉大な横顔」(The Great Profile)との愛称!? までついている。
細身・細面で癇が強いタイプなので、サイレント時代の代表作は『狂へる悪魔』(Dr.Jekyll and Mr.Hyde 1920)、ジギル博士とハイド氏ですね。そして『シャーロック・ホームズ』(Sherlock Holmes 1922)、『海の野獣』(The Sea Beast 1926)では白鯨を追い求めるストイックな漁師。
トーキーの波も、舞台出身だから余裕で乗り切れたまではよかったんですが、俳優は神経を使うハードな仕事、アルコールから離れられなくなっていく。容色の衰えも進み、奇行も増えていった。60歳で肝硬変で死去。
トーキー時代の代表作は『グランド・ホテル(Grand Hotel 1932)、『特急二十世紀』(Twentieth Century 1934)など。どちらも名作です!

 

スチュワート・グレンジャー(Stewart Granger 1913-1993 英)

演劇学校を卒業してエキストラから映画入り。コスチューム・プレイの『灰色の男』(The Man in Grey 1943)でダークサイドのジェームズ・メイソン、大輪の花のようなマーガレット・ロックウッドに対する長身の美男子のグレンジャーは脇役ながら主役の2人を差し置いて大評判。
以後メイソンとグレンジャーは2大スターとして1940年代のイギリス映画を引っ張った。
もっとも、二枚目は同じでもタイプは違う。ドラマティックな役、手ごたえのある役はあらかたメイソンが持って行ってしまう。メイソンがハリウッドに行ってしまってからのイギリス時代は、振り返れば作品・役柄とも絶頂期だったのかも。
メイソンに続き、グレンジャーにもハリウッドから声がかかり、MGMと7年契約。まずはエロール・フリンの後釜としてスワッシュバックラーもので『ゼンダ城の虜』(The Prisoner of Zenda 1952)、続いてリタ・ヘイワースやエヴァ・ガードナーなどの美人女優のお相手を堅実にこなす。
アメリカ国籍を取得し、契約終了後はフリーランスとしてドイツ、イタリア、スペイン、母国イギリスで活躍し、テレビにも進出した。
一時、『聖衣』のジーン・シモンズと結婚していたことがある。(『悲恋の王女エリザベス』(Young Bess 1953)では夫婦で出演)
前立腺がんのため、ロサンゼルスで80歳で死去。

 

スティーヴ・マックイーン(Steve McQueen 1930-1980 米)

Steve McQueen 1930-1980

50歳、肺がんで彗星のように逝った。1960年代を旋風のように駆け抜けたスーパースター。中肉中背、美男子でない、普通の男がスターになる時代を作ったのがマックイーン。
本領は孤高のアウトロー。不屈の男と言ったらこの人。『荒野の七人』(The Magnificent Seven 1960)のガンマンをはじめ、『ゲッタウェイ』(The Getaway 1972)『パピヨン』(Papillon 1973)など、ヒット作はどれも孤独なヒーロー。荒野を一人ゆく姿がよく似合う。理屈をこねないとこがいい。美男でもない、大男でもない、タフそうにも見えない。ドイツ系のアメリカ中西部農民の顔。それでいてアクション抜群、子どものようなやさしいマスクに敏捷な動きが素晴らしい。不良少年が大人になったような孤独感を体現し、憂いの影がまた魅力。まぶしそうな遠い視線。ハードな横顔にはにかんだ笑みが浮かぶとき、だれもがぐっときてしまう。
不幸な生い立ちで、不良少年の矯正学校に入れさせられ、立ち直った。スターになっても定期的に訪れている。オートバイ狂でレースカー狂で、俳優のプライバシーを訴えたり、タイアップ広告を自分の承諾なしやったと訴訟を起こしたり。晩年は有名になりすぎて、人前に出る機会はめっきり減り、そして病に倒れた。

 

ズビグニェフ・ツィブルスキ(Zbigniew Cybulski 1927-1967 波 )

Zbigniew Cybulski 1927-1967

イタリアン・ネオリアリズモの影響を受けたポーランド派と呼ばれる、レジスタンスや当時のソビエト支配下の世相を描く映画の流れがあった。ポーランド派の産んだ最大のスターがズビグニェフ・ツィブルスキ。
ポーランド派最大のアンジェイ・ワイダ監督『灰とダイヤモンド』(Popiół i diament 1958)では共産党幹部の暗殺をもくろみ、最後には逃げまどい、ごみ置き場でけいれんしながら死んでいく亡命政府派の青年の1日を描いた。ヴェネツィア国際映画祭国際映画批評家連盟賞を受賞。
ツィブルスキ演技スタイルとイメージ(黒い革ジャン・大きなサングラス)は革新的だった。反逆する若者を演じ、さらに撮影の帰りに「走り出した列車に飛び乗ろうとして失敗し、事故死」。享年39歳。見事な演技と非業の死によりポーランドのジェームズ・ディーンと呼ばれており、ポーランド映画の伝説であり続ける。
カポーティ、チェーホフ、イエジー・スコリモフスキも舞台で演じたし、ポーランドのテレビ番組でも活躍。出演作はほかに『第8曜日』(Ósmy dzień tygodnia 1958)(若きポーランドのカップルのお話)、『サラゴサの写本』(Rękopis znaleziony w Saragossie 1964)(ポーランドの幻想怪奇譚)など。

 

スペンサー・トレイシー(Spencer Tracy 1900-1967 米)

Spencer Tracy 1900-1967

気性の激しいアイリッシュ。撮影所とのケンカや暴力沙汰は日常茶飯事。ご覧のとおりの容貌で、王子様役はできない。見てほしいのは演技。ハリウッドが生んだ最高の演技者の一人。
『少年の町』(Boys Town 1938)では不良少年たちを更生させるフラナガン神父、『日本人の勲章』(Bad Day at Black Rock 1955)では日本人に武道を習った義理堅い男、『老人と海』(The Old Man and the Sea 1958)では巨大な鯨と闘う老いた漁師、『ニュールンベルグ裁判』(Judgment at Nuremberg 1961)ナチスの戦争犯罪を裁く裁判官、『招かれざる客』(Guess Who's Coming to Dinner 1967)娘が黒人と結婚するのを悩みながら許す父親。
スペンサー・トレイシーを見てると曹操の歩出夏門行の一節が浮かんでくる。「老驥は櫪に伏すも志 千里にあり 烈士暮年 壮心やまず」。力強い信念を持った大人の男。誇りと闘う意志を持った強い父親。
背は低い。美男子ではない。悪役をやれるほどの危険な魅力もない。にもかかわらず1930年代から30年以上、他のスターからも尊敬されるスターであり続け、ファンにも人気があり、その作品は大半が興行的にヒットしている。稀有な存在なのです。
キャサリン・ヘップバーンとのロマンスも有名。

 

 

た行

ダーク・ボガード(Dirk Bogarde 1921-1999 英)

Dirk Bogarde 1921-1999

外交官になるところを演劇に転身。最初に人気に火がついたのは、コメディ。『わたしのお医者さま』(Doctor at Sea 1955)などの医学生の青春もの。甘いマスクのイギリス男子。
そのあとじわじわ路線を変えてくる。倒錯と魔性が入り込んでくる。性格俳優のキャリアに磨きをかけていく。ジョゼフ・ロージー監督と組んだ『召使』(The Servant 1963)『銃殺』(King and Country 1963)と『できごと』(Accident 1967)、『ダーリング』(Darling 1965)…。ルキノ・ヴィスコンティ監督の『地獄に堕ちた勇者ども』(The Damned 1969)、『ベニスに死す』(Death in Venice 1971)で頂点へ。『愛の嵐』(Il Portiere di  1974)、『プロビデンス』(Providence 1977)も忘れちゃいけない。
ダーク・ボガードは、同じ上流階級でも、権威と重責を担う貴族や将校なんかは向かないし、やらない。ヨーロッパの熟したにおい。デカダンス。
狂気とエロティシズムと孤独の残酷なまでの表現に魅せられると同時にぞっとさせられる。 男に潜在する妖しい魅力、それを自分から発散する魅力。病んだ貴族性。ダニエル・デイ・ルイスにはない女性的魅力。暗くて深い甘美な世界。

 

タイロン・パワー(Tyrone Power 1914-1958 米)

Tyrone Power 1914-1958

太い眉毛はアイルランド系の印。濃い2枚目。タイロン・パワーは4代続いている。祖父はアイルランドのコメディアン、父は舞台俳優、息子も映画俳優。
20世紀フォックスにスカウトされ美男スターとして売り出される。 恋愛映画、ミュージカル、西部劇、戦争映画、スワッシュバックラー、文芸映画を真面目にこなし、興行収入も順調。マネーメイキングスターにも入った。
正統派の二枚目から、そろそろ別の境地に挑戦、のあたりで、映画のロケの真っ最中に心臓マヒで44歳で突然の死。タイロン・パワーのお父さんも、現場でなくなっている。
『快傑ゾロ』(The Mark of Zorro 1940)は大先輩、ダグラス・フェアバンクスの映画のリメイク。大好評。
『血と砂』(Blood and Sand 1941)では情熱的なマタドール。華麗な立ち振舞いと苦悩する姿。
『愛情物語』(The Eddy Duchin Story 1956)は第二次大戦前後に実在したピアニスト、エディ・デューチンの伝記映画で、キム・ノヴァクの美しさとカーメン・キャバレロのピアノ演奏に酔いしれ、 『情婦』(Witness for the Prosecution 1957)ではマレーネ・ディートリッヒに一途に愛される価値のある男として説得力ありすぎ。

 

ダグラス・フェアバンクス(Douglas Fairbanks 1883-1939 米)

Douglas Fairbanks 1883-1939

サイレント時代のアメリカ映画に君臨した明朗活発な快男児。明朗な性格と骨身を惜しまぬアクロバット的な冒険アクションで人気を爆発させ、D.W.グリフィス監督、チャップリン、世界の恋人といわれたメリー・ピッグフォードらとユナイテッド・アーティスツ社を結成。メアリーとの結婚は全米を熱狂させた。クラーク・ゲーブルが現れるまでは、ハリウッドのキングとはダグラス・フェアバンクスを指す。
映画は『奇傑ゾロ』(The Mark of Zorro 1920) 、『三銃士』(The Three Musketeers 1921) 、『バグダッドの盗賊』(The Thief of Bagdad 1924) 、『ドン・Q』(Don Q Son of Zorro 1925) と時代活劇で一世を風靡。
スタントなんか使わない。当時のアニメーションなんかとは比較にもならない。言ってみればオーバーアクション気味の、漫画っぽいノリなんですけど、観衆は、大喜びですよ! 映画作りに心血を注ぎ、費用と労力を惜しまず、のちのスワッシュバクラー、海族映画にもおおいに影響を与えた。
体力の限界もあってかトーキー映画にはいまいち意欲がわかなかったらしく、興行成績もふるわなかった。引退。5年後、心臓発作により56歳で死去。

 

ダニー・ケイ(Danny Kaye 1911-1987 米)

Danny Kaye 1911-1987

耳にもとまらぬ!? 早口で歌をうたう。ブロードウェイで39秒で50人のロシア人作曲家を早口でコミカルに暗唱する歌を歌ってまさに舌の芸術! と絶賛を浴び、映画界入り。
奥さまが劇作家でマネジメントと作詞作曲を兼ね、ダニー・ケイの前にも後にもダニー・ケイなし、の至芸を二人三脚で送り出した。
出演する映画はミュージカルやライトコメディ。『虹を掴む男』(The Secret Life of Walter Mitty 1947)は気の弱いな男性がポケタポケタポケタ…の効果音とともに荒海を航海する船乗り、西部劇のヒーロー、外科医になって、美女の熱いまなざしを浴びる…の白昼夢が繰り返される。夢いっぱいのテクニカラー映画。 『5つの銅貨』(The Five Pennies 1959)はジャズマンの伝記映画で、ルイ・アームストロングとの豪華な掛け合いは絶品。 『ホワイト・クリスマス』(White Christmas 1954)、クリスマスソングの第定番の元祖はここ! アメリカの産んだ大作曲家、アーヴィング・バーリンづくしの音楽映画!
と、どの役も明朗で洒落た都会的センスのコメディアンぶり。見せ場のダニー・ケイの歌も、映画ごとにきちんと用意されていて、楽しめる。慈善活動に熱心だったことでも名高い。

 

W・C・フィールズ(W. C. Fields 1880-1946 米)

W. C. Fields 1880-1946

1920・30年代に活躍したアメリカのコメディアン。日本だといまひとつピンとこないものの、アメリカではチャップリンやキートンと並び今も大人気。
ギャグのスタイルは、女と子どもと動物が大嫌い。いつも不機嫌で、苦虫をかみつぶしたような顔をして、人間と社会を嫌っている。「ミザントロープ」つまり人嫌いがニックネーム。「ミソジニスト」、女嫌いでもある。人を困らせる。ので笑いをとる。楽器をメチャメチャに演奏してすさまじいノイズを出し、周囲の人間を困らせる、とか。女性の患者さんがくると口を大きく開けさせ、嬉々として患者を困らせる治療をするとか。ものすごい大きなゴルフバッグをもちこみ、仲間が笑うと中から銃を出してズドンと撃つ、とか。
大きな赤い鼻は大酒のみの証拠。禁酒法の時代に「法律がいけないと禁じるくらいならきっと素晴らしいものに違いない」と浴びるように飲み始めたんだとか。
女嫌いでも無名時代に結婚している。実の子どもは可愛がったし、きちんと!? 愛人もいたんだそうです。
代表作は『ザ・バンク・ディック』(The Bank Dick 1940)、『かぼちゃ大当り』(It's a Gift 1934) 、『マイ・リトル・チカディー』(My Little Chickadee 1940) など。

 

ディーン・マーティン(Dean Martin 1917-1995 米)

Dean Martin 1917-1995

ジェリー・ルイスと組んだ「底抜けコンビ」が大ブレイク、コンビの代表作は『画家とモデル』(Artists and Models 1955)。全米で知名度を上げたあと、コンビは解散、独り立ち。
ジェリー・ルイスは生涯コメディアンの道を貫いたけど、ディーン・マーティンはそもそも歌手。そして底抜けコンビのコントはジェリー・ルイスがあってこそ、との見方も多かった。ところが!? 下馬評をくつがえし!? 歌手としてはもちろんのこと、俳優として、エンターテイナーとして大成功。シナトラ一家の一員でもあります。
歌手としての代表曲は「誰かが誰かを愛してる(Everybody Loves Somebody)」古き良きアメリカを感じさせるメロディ。ビートルズ旋風の吹き荒れる中、46歳でビートルズを押し退けNo.1に輝いた名曲。ほかには「想い出はかくの如く(Memories Are Made of This)」
演技ももちろんお手のもので、ミュージカルもこなせばシリアスもできる。大御所のクロスビーやシナトラとも共演している。シリアスだと『走り来る人々』(Some Came Running 1958) 、ミュージカル仕立てだと『七人の愚連隊』(Robin and the Seven Hoods 1964)。
「ディーン・マーティン」の名前の冠のついたテレビ番組のホストとしても活躍。ラスベガスでのショーも大盛況。

 

チャールズ・チャップリン(Charles Chaplin 1889-1977 英)

Charles Chaplin 1889-1977

説明不要かも。でもいちおう。
世界映画史上に不滅の足跡を残した大芸術家。映画を芸術の域にまて引きあげた大天才。言葉ではなく、映像が映像たる誇りとともにそびえ立つ。
ロンドンに生まれ、舞台に立ち、アメリカ巡業でマック・セネットと契約。山高帽にチョビヒゲ、だぶだぶのズボンにフロックコート、ステッキ、放浪する紳士、という扮装を生み出し、『犬の生活』(A Dog's Life 1918)、『担へ銃』(Shoulder Arms 1918)その他多くの秀作を生み、『キッド』(The Kid 1921)、『黄金狂時代』(The Gold Rush 1925)、『街の灯』(City Lights 1931)と多くの傑作を生み出した。
喜劇王として監督として、演技、キャラクター、すべてが超越しており、キャラクターそのものが作品。子どもから大人まで、男女人種の区別なく誰にでもわかるボディ・アクションによる表現を大成し、さらに観衆を喜ばせ、楽しませ、泣かせ、襟を正させる。
サイレント時代の映像が今なお、引き合いに出されたたえられっぱなしなものなあ。女性関係は、ロリコンで、スキャンダルもいろいろあった。完璧主義者で、『街の灯』の花売り娘との出会いのシーンでは、納得がいかず、一年以上にわたって342回のNGを出した。赤狩りによりアメリカを追われ、スイスに移住。88歳で死去。

 

チャールズ・ファレル(Charles Farrell 1900-1990 米)

Charles Farrell 1900-1990

サイレントがトーキーに移りかわるころ、涙ウルウル。感動の嵐。チャールズ・ファレルとジャネット・ゲイナー、珠玉のコンビの代表作は『第七天国』(7th Heaven 1927)。お話は、下水掃除夫の若者はムチ打たれている娘を助けてやり、やがて二人は愛し合い、結婚。戦争がはじまり、夫は戦地へ。戦死の知らせがきてもも妻は信じられず、待ち続け、ついに夫は妻のもとに戻り、二人はひしと抱きあう…と筋だけ聞けば別になんてことない。なのに、二人の純粋さ、ひたむきさ、けなげさに、泣けてきてしまうのですよ~。ゴールデンカップルとして『街の天使』(Street Angel 1928)、『幸運の星』(Lucky Star 1929)と共演映画が次々作られた。
オフスクリーンでも、二人は恋人だった時もあったけど結局結婚はしなかった。
そしてコンビの成功は、ジャネット・ゲイナーの可憐さと演技力が大きかった。コンビ解消後、俳優の仕事が先細りになると、カリフォルニアのパームスプリングスにテニスクラブを作った。クラブはパームスプリングス繁栄の主役となり、手腕を認められ、市長を務めている。
1950年代にはテレビ出演がある。 心臓マヒで89歳で死去。

 

チャールズ・ブロンソン(Charles Bronson 1921-2003 米)

Charles Bronson 1921-2003

日本ではどうしても「マンダムのCMに出てた人」になってしまう。アリゾナとユタとハリウッドで撮影され、BGM「男の世界」の流れる中、アゴをなでながら「う~ん、マンダム」…1970年のことでした。社会現象レベルでブロンソンブームがおこり、社運を賭けたCMで業績はV字回復、広告主は社名も「マンダム」に変えてしまった。
俳優離れした!? しわだらけの顔。タタール人の血をひいている。中東・モンゴル系を思わせる異国情緒で、デビューしてからしばらくは脇役、悪役専門。 『荒野の七人』(The Magnificent Seven 1960)、『大脱走』(The Great Escape 1963)で注目され、「ブサメン」のはずがは「独特の忘れられない個性」「男くさくかっこいい」と評価も変わる。独特の間がありますね。沈思しているかに見える。フランス映画『さらば友よ』(Adieu l'ami 1968)、『雨の訪問者』(Le passager de la pluie 1970)、イタリア映画『狼の挽歌』(Città violenta 1970)、日米仏のトップスターが共演した『レッド・サン』(Red Sun 1971)などで国際スターに。
正義感なのに殺し屋、がトレードマーク。 炭鉱夫の息子で、苦労人。晩年はアルツハイマーを患い、81歳で肺炎で死去。

 

チャールズ・ロートン(Charles Laughton 1899-1962 英)

Charles Laughton 1899-1962

イギリスの、巨漢の、押しも押されぬ名優。
この風貌なので、ハムレットはできない。しかし『ヘンリー八世の私生活』(The Private Life of Henry VIII 1933)ならできる! そんじょそこらの二枚目俳優では演じることは不可能だ。ロートンがいたからこそのリアリティ。
もともとは王立演劇学校で学んだ正統派の舞台俳優であり、オペラ歌手と同じ、体が楽器。美声でも知られ、長年にわたり舞台で朗読会をつとめている。
映画は乞われたら出るスタンスで、『戦艦バウンティ号の叛乱』(原題: Mutiny on the Bounty 1935)はサディスティックな船長、『ノートルダムの傴僂男』(The Hunchback of Notre Dame 1939)ではせむし男、『情婦』(Witness for the Prosecution 1957)ではマレーネ・ディートリッヒの弁護士役と、主役なら看板俳優、脇役なら性格俳優として、映画のジャンルを問わず、スクリーンに現れればまず見た目にインパクト大きく、次に演技で、映画をさらってしまう魅力にあふれている。
特に悪役だと貫禄があり、ふてぶてしさといやらしさが増幅されて、凄みがある。そして裁判官や弁護士を演じさせてもまた絶品だという両刀づかい。

 

チャールトン・ヘストン(Charlton Heston 1923-2008 米)

Charlton Heston 1923-2008

身長190cmの巨漢でダイナミックな肉体美。やや吊り上がり気味の目の彫りの深い顔立ちで、顔も体もギリシア彫刻のよう。一歩間違えれば容貌魁偉。が『十戒』(The Ten Commandments 1956)、『ベン・ハー』(Ben-Hur 1959)などの壮大なスケールのスペクタクル史劇や超大作では風格となり、絶対の存在感。シネスコ大画面が日本に上陸したころ、それにふさわしく「銀幕の巨人」を印象付づけた。剛勇でありながら知的。見上げる大木を思わせる大型スターの魅力。エキセントリックな正義感といった役どころが似合う。
『地上最大のショウ』(The Greatest Show on Earth 1952)、『大いなる西部』(The Big Country 1958)、『猿の惑星』(Planet of the Apes 1968)と、史劇以外の出演映画の幅も広く、ひと癖あるものばかり。
マッチョな肉体美を礼賛されながらもあくまでも知性を押し出した役柄を選んでいった。学生結婚した奥さまとは終生仲睦まじく、円満な人柄でハリウッドでの信頼も厚く、社会活動にも熱心だった。
…欠点がない…。日本人に言わせれば、ちょっと右がかってるトコくらいかな。

 

ディック・パウエル(Dick Powell 1904-1963 米)

Dick Powell 1904-1963

3つの顔を持つ、童顔のミュージカルスター、フィルムノワールの探偵、映画監督。
地方の舞台で踊っているところをスカウトされて『四十二番街』(42nd Street 1933)、『ゴールド・ディガース』(Gold Diggers of 1933 1933)に出演。童顔で若く見えるし、明るく陽気なキャラクターと美声。バズビー・バークレーの華麗な振り付けによるトーキー初期のワーナー・ブラザーズのミュージカルでまたたく間にスターに。
ただ、いつまでも同じような役しかやらせてもらえないし、自分も年を取るし…と会社を移籍し『ブロンドの殺人者』(Murder, My Sweet 1944)の原作はレイモンド・チャンドラーの「さらば愛しき女よ」。つまり私立探偵フィリップ・マーロウを演じている。
もともと「歴史に残る俳優や歌手の器じもなし」と、青春スター時代から投資や事業に長け、敏腕だった。プロデューサー兼監督として『征服者』(The Conqueror 1955)、『眼下の敵』(The Enemy Below 1957)なども手掛けている。『征服者』は出演者やスタッフがロケ中に核実験の死の灰を浴びたのではないか。だから関係者がつぎつぎがんで死んでいくのではないか、と騒がれたいわくつきの映画。ジョン・ウェインも、スーザン・ヘイワードも、ディック・パウエルもがんに倒れ、なくなった。享年58歳。
最後の夫人は『グレン・ミラー物語』のジューン・アリスン。

 

デヴィット・ニーヴン(David Niven 1910-1983 英)

David Niven 1910-1983

イギリス紳士の役がピタリはまる。生まれはイギリスだし、イギリス人だけど、舞台経験はない。イギリス軍の将校さんがお父さんなので、良家の子息であることは間違いないのですが、士官学校を卒業し、配属されてほどなく、肌に合わなかったのか除隊。アメリカに渡り、苦労したあとエキストラから映画界入り。大物プロデューサーのサミュエル・ゴールドウィンに認められたことで運が開けた。
ただし洒脱なジェントルマンとしての頭角を現すのはイギリス軍従軍・帰還・復帰後で不惑を過ぎてから。
大人の余裕とイギリス式ユーモア、ダンディで味の出たジェントルマンとして『八十日間世界一周』(Around the World in 80 Days 1956)、『旅路』(Separate Tables 1958)、『ピンクの豹』(The Pink Panther 1963)とヒット作が続き、出資した会社が大当たり、自叙伝は名だたる美人女優との情事を赤裸々に告白してベストセラー。税金から逃れるためにスイスに移住。
しかし良いことばかりだったのでもない。最初の奥さまを俘虜の事故で亡くしているし、次の奥さまは周りも認める!? 浮気症の悪妻だった。最晩年の3年間は筋萎縮性側索硬化症に苦しめられた。

 

凸凹コンビ(Abbott and Costello)

Abbott and Costello

ボケが長身の面長、バッド・アボット(Bud Abbott 1895-1974)。丸顔がツッコミのルウ・コステロ(Lou Costello 1906-1959)。志村けんもおおいに影響を受けたといわれている。1940年代から1950年代の半ばにかけて人気沸騰のコメディアンの二人組。日本では「凸凹コンビ」。
ヴォードヴィルの舞台とラジオの成功をひっさげて映画界入り。出たとたんにマネー・メイキング・スターの仲間入り。8,600万ドルの軍事公債を売り上げた。
2人の掛け合いは、今の目から見るとテンポがゆるく、ネタも上品。看板ネタは「Who's On First? 」(一塁手は誰? )一塁手がWho、二塁手がWhatで、三塁手がwhen、皆名前。質問と名前が入り乱れ、聞いてて言ってて訳わからん、って具合。
成功しすぎたツケも大きく、稼ぎは国税庁に目をつけられ、ギャラの取り分でもめ、後発のディーン・マーティンとジェリー・ルイスの底抜けコンビに抜かれ、コンビは解散。コステロは心臓発作で50代の若さで亡くなってしまった。 出演作は『凸凹二等兵の巻』(Buck Privates 1941)、『凸凹フランケンシュタインの巻』(Abbott and Costello Meet Frankenstein 1948)、テレビショー『凸凹劇場 アボット・コステロ』(The Abbott and Costello Show 1952-54)など。

 

トーマス・ミッチェル(Thomas Mitchell 1892-1962 米)

Thomas Mitchell 1892-1962

『駅馬車』(Stagecoach 1939)の飲んだくれのお医者さん、『風と共に去りぬ』(Gone with the Wind 1939)のスカーレット・オハラのお父さん。『真昼の決闘』(High Noon 1952)の町長。といずれも歴史に残る映画であり、時には主役そっちのけで、「あの人、誰…? 」と気になってしまう。アメリカ映画の産んだ最も偉大な俳優の一人。
ブロードウェイで修行を積み、脚本・監督・プロデュース、全部やった。映画に進出して、すぐ頭角を現し、以後ひっぱりだこ。
クレジットは主演男or女優の次の3番目か4番目。役柄は基本は骨があり、屈折しながらも気概にほれぼれと見とれてしまうひとくせある登場人物。なんですが、『素晴らしき哉、人生!』(It's a Wonderful Life 1946)でお金を落としてしまい、狼狽しまくるビリーおじさんなどの珠玉の演技も、また見ごたえあり。映画ごとに演技が多様で説得力がある。テレビ時代に入ると、新しいファンをまたまた獲得してしまう。
『刑事コロンボ』を舞台で初めて演じたのもトーマス・ミッチェル。そのあとがピーター・フォークのテレビ版。
がんに倒れる直前まで現役。結婚は3回。子どもは女の子1人。

 

ドナルド・オコナー(Donald O'Connor 1925-2003 米)

ヴォードヴィリアンの家庭に生まれ、1歳で初舞台、子役でゲーリー・クーパーの子ども時代を演じ(『ボー・ジェスト』(Beau Geste 1939))、愛くるしい姿で一時代を作った子役スターだった。
大人になり、MGMミュージカル映画の金字塔『雨に唄えば』(Singin' in the Rain 1952)では主人公、ジーン・ケリーの相棒役。ソロで「メイク・エム・ラフ」、ジーン・ケリーとペアで踊る「モーゼス」。デビー・レイノルズを加えて踊る「グッド・モーニング」。みんな伝説。動きが速く、軽やか&コミカルでアクロバティック。
活躍した時期の前半の作品は日本未公開の映画が多いので、すごさがあまり伝わってこない。『Feudin', Fussin' and A-Fightin』(1948)中の「Me and My Shadow」などおすすめ。
カラー映画の出演だと、全然関係ないかもしれないけど、芸は100点満点100点でも、オコナーの瞳の色が薄く、目があまり大きくないので、特にカメラがロングで引くと表情が読みにくい。さらに時代はミュージカル映画の衰退期に入る。
が。ミュージカル好きはたいてい「実は私、ケリーさんよりオコナーさん好き♡」とそっとつぶやくのです。
出演作はほかに『ショウほど素敵な商売はない』(There's No Business Like Show Business 1954)など。

 

トニー・カーティス(Tony Curtis 1925-2010 米)

Tony Curtis 1925-2010

家は貧しく、悲惨な少年時代。従軍し、退役軍人の恩給で演劇学校に通い、映画界入り。
とたんに目元涼しい甘いハンサム、クセのある黒髪をグリースで固めたリーゼントスタイル(エルヴィス・プレスリーのリーゼントの元ネタ)のキザな二枚目青春スターとして女の子に大人気。少しくずれた雰囲気があるのが持ち味・魅力。
マネーメイキングスター入りを果たし、さらに作品を選び、俳優としての幅を広げていく。『魔術の恋』(Houdini 1953)で恋女房、ジャネット・リーとおしどり共演で世紀の奇術師フーディーニに扮し、演技は高く評価される。『ペティコート作戦』(Operation Petticoat 1959)でケーリー・グラントと組み、『お熱いのがお好き』(Some Like It Hot 1959)と『グレートレース』(The Great Race 1965)ではジャック・レモンと組み、コメディアンとしての地位を確立。『ヴァイキング』(The Vikings 1958)と『スパルタカス』(Spartacus 1960)ではカーク・ダグラスと組んで史劇にも挑戦。
画家としても有名で何点かはニューヨーク近代美術館の永久コレクションになっている。

 

トム・ミックス(Tom Mix 1880-1935 米)

アメリカ映画の黎明期の元祖・西部劇スター。
ロナルド・レーガンやジョン・ウェインが子どもの頃、トム・ミックスは「キング・オブ・カウボーイ」 と呼ばれていた。ウェインのハリウッドのキャリアの始まりはスタジオの小道具運搬係。トム・ミックスが世話してくれた。
ワイルドウエストショーの世界から映画界、いえ活動写真の世界入り。1909年。 曲乗り・牛追い・投げ縄・早撃ち、格闘がお手のものなのはもちろんとして 映画に脚本がもちこまれる。 愛馬のトニー(サイレント時代はスターの愛馬もスターだった)と登場。 ヒーローと悪役がいて、正義は必ず勝つ。 西部劇という映画のジャンルを定義づけた。
ミックスの映画はアクションシーンが見せ場で痛快な娯楽作。子ども向けのつもりで作っていた。ただし大衆には受け、興行成績はいい。ありし日の日本のアニメみたい。 1巻ものだけど(15分)月2本のハイペースでトム・ミックスの映画は量産され、 現役25年間の出演本数は291本。現存するのは1割くらいしかない。稼いだギャラは当時の金額で600万ドル。
引退後はサーカスに出たりラジオ番組を持ったり。
死は突然にやってきた。高速道路を通行中、洪水で流された橋に激突して事故死。享年60歳。事故現場にはいまでも記念碑がたつ。 出演作は『天晴トニー』(Just Tony 1922)、『天下無敵』(The Last of the Duanes 1924)、『古今無双の強者』(Great K&A Train Robbery 1926) など。

 

 

な行

ニコラス・ブラザース(Nicholas Brothers 米)

フェイアード・ニコラス(Fayard Nicholas 1914-2006)とハロルド・ニコラス(Harold Nicholas 1921-2000)のダンスコンビ。2人は実の兄弟。
バンドマンの父とピアニストの母の間に生まれ、小さい時からヴォードヴィルの舞台を見て育った。弟はお兄ちゃんに憧れてダンスを始める。なんと。正規の踊りの訓練は受けたことがない。恐るべき子供たち! 兄のフェイアードは10歳くらいの時にはもういっぱしのダンサー。弟のハロルドは7歳年下で、2人の初期の踊りは、弟はまだ小さくて、11歳! 可愛い! にこにこ笑いながら出てきて踊り出すとものすごい。
アフリカ系アメリカンのパフォーマーは、少なくても私の取り上げる範囲では「人種差別の屈折」がある。苦労人だから世に出るころには年くっちゃってる。しかし、ニコラス・ブラザースには良くも悪くもかげりがない。 キレとスピードが、持って生まれた天分に拍車をかける!
コットンクラブのステージに立った途端にスーパースターとなり、出演した映画は『ストーミー・ウェザー』(Stormy Weather 1943)(2人の代表ナンバー「Jumpin Jive」はこの映画のほかでも見ることができる)、『踊る海賊』(The Pirate 1948)、『銀嶺セレナーデ』(Sun Valley Serenade 1941)など。
2人は生涯栄光の座にあり、世界をまわり、後進の指導にあたった。マイケル・ジャクソンは生徒だったし、フレッド・アステアやミハイル・バリシニコフの感嘆のコメントも残されている。

 

は行

バージェス・メレディス(Burgess Meredith 1907-1997 米)

『ロッキー』(Rocky 1976)シリーズのミッキー役。キャリアは長く、山あり谷あり。パッと見は地味でも短い出番は必ず見せ場にしてしまう。監督もできれば演出もできる。巧みな演技の任せて安心の名優。
ブロードウェイで実績を積んで映画界入り。『廿日鼠と人間』(Of Mice and Men 1939)でオスカーにノミネート、『G・I・ジョウ』 (The Story of G.I. Joe 1945)のおもちゃのGI人形は売れに売れる。
赤狩りにつかまって、映画の仕事は来なくなってしまったけど、舞台にテレビにラジオに忙しい。コマーシャルのナレーションなんかも数多く手がけた。
テレビシリーズの『怪鳥人間バットマン』(Batman 1966-1968)では悪役ペンギンを演じて大人気、映画化もされ『イナゴの日』(The Day of the Locust 1975)で映画に完全復帰、続いてロッキー3部作。
映画に出ればアカデミー賞、テレビに出ればエミー賞、舞台に上がればトニー賞。切れ間なく活動していることに感心してしまう。円満で有能で。結婚は4回。『モダン・タイムス』のポーレット・ゴダードと結婚していたこともある。3回目。5年あまりで離婚。

 

バート・ランカスター (Burt Lancaste 1913-1994 米)

日本で人気が爆発したのは『ベラクルス』(Vera Cruz 1954)。帽子・シャツ・ズボン・手袋・とすべて黒づくめの悪党を演じた。クライマックスのガンファイト。撃ち合ったあと、ランカスターが白い歯を見せてニヤッと笑う。観客は一瞬、彼が勝ったのかと思う。しかし次の瞬間、前のめりに倒れて死ぬ。大評判となり、主役の正義の味方、ゲーリー・クーパーを食いまくってしまった。
ただきれいで紳士的でセクシーなだけでなく、強烈な個性を持っている。悪役もできれば精神異常者もできる。妻を殺す男もできればアル中の敗残者もできる。犯罪者もできれば犠牲者もできる。スターであり同時に個性派である。という新しいタイプの映画スターの先駆者のひとり。
俳優のあり方も同じく先駆者。スタジオのボスのいいなりにはならない自己主張する一匹狼。スターの地位を確保するとすぐに独立して、既成の映画会社では作れない大胆なテーマを持った異色作や問題作を作っていった。自分の出る映画・出ない映画関係なしに。プロデューサーとも俳優の生命をもてあそぶゴシップ・ライターとも平気でケンカ。パーティーには出ない。プレミアショーにも出ない。セクシーだけど女優とのゴシップもほぼナシ。
『山猫』(Il gattopardo 1963)では19世紀のシチリアの貴族に起用された。悪党から貴族になった。
代表作はほかに『地上より永遠に』(From Here to Eternity 1953)。

 

バスター・キートン(Buster Keaton 1895-1966 米)

俗に三大喜劇王はチャップリン・キートン・ロイド。
キートンは、サイレント時代が全盛期。そしてトーキー時代の映画の作り方が大がかりになり、肌に合わず、才能を発揮できなかった・しなかった。映画作りに夢中で、自分の作った映画の権利うんぬんには無関心。そしてチャップリンの映画に多用される「ペーソス」や「テーマ」がもともとキートンには希薄だったことも、理屈をこねくりまわしたい後世の人間には物足りなかったのかもしれない。
キートンは笑わない。凍てついた白塗りの顔で、無表情。スタントなしのアクロバティックな演技。手に汗握るシュールな名場面の数々はスピード感に満ちて迫力満点。
『キートンの鍛冶屋』 (The Blacksmith, 1922)では馬を走らせようと手綱をふるうと握ったまま馬に引きずられてしまう。『キートン西部成金』(Go West  1925)では牛の大群に追われ、走って走って走りまくる。『キートンのセブン・チャンス(キートンの栃麺棒)』(Seven Chances 1925)では花嫁候補の大群と崖から転がり落ちる大石から走って逃げる!『キートンの船長(キートンの蒸気船)』(Steamboat Bill,Jr. 1928)では大風がきて家は飛び、突然大壁が倒れてくる!
みな映画の原点を感じさせ、感動的であり、古典となり、アイディアは後世のコメディ映画やアクション映画に受け継がれていく。

 

早川雪洲(Sessue Hayakawa 1886-1973 日)

軍人さんになりたかったのに、ケガをして試験に落ちてしまった。生きる目的を失い、心機一転アメリカへ。素人芝居がハリウッドの目にとまり、映画俳優になった。
『タイフーン』(Typhoon 1914)と『チート』(The Cheat 1915)。豊頬の白塗り。切れ長の情熱的な妖しいまなざし。一挙手一投足に東洋の神秘とエキゾチシズムのカリスマ性があり、何よりセクシーだった。全米女性が転んだ! 惚れた! ハリウッドの最初のアジア人のスターだった。それもただのスターじゃない。二枚目のスーパースター。雪洲人気はダグラス・フェアバンクス、チャーリー・チャップリン、ジョン・バリモアと同格。
大成功のあとは舞台に立ったり、日・米・欧映画に出演したり。『戦場にかける橋』(The Bridge on The River Kwai 1957)も生涯の代表作の一つ。
もともと俳優になる気なんか全然なかったのに、契約したからには演技しなければならない。やってのけた。明治の人の気迫と集中力ってすごい。司馬遼太郎の小説みたい。
そして奥さま、鶴子夫人が賢夫人だった。雪洲が浮気して作った子を黙って引き取って育てた。人生の転機には必ず、夫人の後押しがあった。

 

ハリー・ケリー(Harry Carey 1878-1947 米)

シニア(お父さん)とジュニア(息子)2人いる。シニアはサイレント時代の西部劇の大スター。
ウィリアム・S. ハートの後継者というべき、頑丈な体つきとゴツゴツした顔だちは風雨にさらされた西部の男にふさわしい。正統派、寡黙な、しかも無敵の男の西部劇。「シャイアン・ハリー・シリーズ」といいまして、スターだったハリー・ケリーの製作責任者についたのが若き日のジョン・フォード監督。なので『誉の名手』(Straight Shooting 1917) をはじめ、ジョン・フォード監督の初期の映画はハリー・ケリー主演。「最高の西部劇スターはハリー・ケリーだ」とのちに語り、大スターの一挙手一投足が後の名作西部劇に与えた影響が大きかったことは想像にかたくない。『捜索者』のラストシーンで、ジョン・ウェインは右肘に左手をあててハリー・ケリーのポーズを取った。
2人の交流は終生続き、「息子をよろしく」とのハリー・ケリーの遺言を律儀に守り、ジュニアはフォード一家の一員となった。ハワード・ホークス監督の『赤い河』(Red River 1948)では親子共演している。
トーキーに入ってからは『スミス都へ行く』(Mr. Smith Goes to Washington 1939)の議長役で役者としての懐の深さを見せてくれました。

 

ハロルド・ロイド(Harold Lloyd 1893-1971 米)

サイレント時代の三大喜劇王の1人。
チャップリンやキートンみたいな舞台経験がない。アイディアで勝負する。ありとあらゆるひらめくギャグを連発する。会社のギャグマンのほかに、自腹で雇った5人のギャグマンがいた。使ったギャグの報酬は、1つ100ドル。
ロイドは真面目な好青年。メガネをかけたサラリーマン。都会の銀行、デパート、バス、電車、自動車。モダンで明るい。すべては美しい時代のアメリカの都会の真っただ中。ロイドのやればできる。がんばれば道が開ける、の映画はなんか説教くさくなっちゃいそうなんですけど、ギャグの連発でとにかく面白く、胸にしみる。輝いている。
『要心無用』(Safety Last! 1923)では大都会の真ん中の有名デパートの時計の針にぶらさがっているシーンはサイレント映画を代表する名シーン。時計の針がグーっと動く。見上げる群衆。困った警官の顔とため息。女の叫び超え。
『豪勇ロイド』(Grandma's Boy 1924)は、おばあちゃんに「これは『勇気の木』。お前のお父さんはこれを身につけて、南北戦争で勇敢に戦ったのじゃ。」ボケットに勇気の木を入れたら、あら不思議。人と会ってもろくに挨拶もできないはずなのに、銀行を襲ったギャングを一人で捕まえちゃう! 代表作はほかに『ロイドの人気者』(The Freshman  1925)など。
商才もあり、トーキー後は出演作は少なくてもセレブ生活を満喫。共演して恋におちて結婚した奥さまとは終生添い遂げた。

 

ハワード・キール(Howard Keel 1919-2004 米)

1950年代のMGMミュージカルのエロール・フリンまたはクラーク・ゲイブル。身長193cmの長身・精悍。肩幅広く胸厚く、カッコよくてたくましい。顔はハンサムだしバリトンヴォイスはワイルド&セクシー。
航空機会社に就職し、あまりの美声に余興で歌えと言われて歌いはじめた。いくつかの歌唱コンテストで優勝したのち、ブロードウェイ経由でハリウッドへ。大抜擢のデビュー作は超大作『アニーよ銃をとれ』(Annie get your gun 1950)。映画は大成功をおさめ、キールはスターとしての地位を確立。ほかのヒット作には『ショウ・ボート』(Show Boat 1951)(エヴァ・ガードナーと共演)や『掠奪された七人の花嫁』(Seven Brides for Seven Brothers 1954)、『カラミティ・ジェーン』(Calamity Jane 1953)(ドリス・デイと共演)など。
歌が専門なのでダンスは共演者担当。体が大柄なので、共演女優が小柄だったりすると、ハワード・キールの大きさと相手役の可憐さが絵になり、良きながめだったりする。
ミュージカル映画が下火になるとコンサートを開いたり西部劇に出たりした。
テレビシリーズ『ダラス』(Dallas 1978-91)の中盤から10年間、J.R.ユーイング役でよみがえり、再び人気スターに。

 

ハンフリー・ボガート(Humphrey Bogart 1899-1957 米)

説明無用かも。でもいちおう。ボギーがいなくなって半世紀以上たつというのに、いまだアメリカの、ハリウッドのアイコンであり、男そのもののアイコンであり続ける。大きすぎる存在。
脇役を10年以上続け、『化石の森』(The Petrified Forest 1936)が出世作。ギャングを演じ、孤独と悲哀が強面に漂う。ギャングの哀れを名演し、人気に火がつく。 フィルム・ノワールの元祖・古典。ダシール・ハメットの原作を映画化した『マルタの鷹』(The Maltese Falcon 1941)で私立探偵サム・スペードを演じ、『カサブランカ』(Casablanca 1942)では反ナチスのため、自由のために愛する女を諦めるやせ我慢の美学。
いわゆる二枚目を超えた大人の男。良い役と悪役を同じ顔で演じられた最初のスター。つまり本物の悪党との区別がつきにく い。渋いドスのきいたエロキューション。着るなら襟を立ててトレンチコート。すごみとやさしさがあって、ロマンチックと哀愁をしょったハードボイルドでスタイリッシュなヒーロー。キザっぽくなる一歩手前の絶妙な男の匂いを感じさせる姿は、まさにダンディズムの極致。
『脱出』(To Have and Have Not 1944)、『三つ数えろ』(The Big Sleep 1946)で共演し、恋に落ちて結婚(ボギーにとっては4回め)したローレン・バコールとボギーは、ハリウッドのベストカップルとしても名高い。

 

ピーター・オトゥール(Peter O'Toole 1932-2013 愛)

Peter O'Toole 1932-2013

『アラビアのロレンス』(Lawrence of Arabia 1962)砂漠に映える長身の屈折した心理を持つ英雄を演じ、たった1作で国際スターに躍り出た。とにかくオトゥール、エロい。エロすぎる…。砂漠に立つ男なのになぜ。男しか出てこない映画なのになぜ!? 重厚にしてなまめかしすぎる。絶対両立しないはずのものを見た。固定観念がことごとく砕け散っていく。これぞ映画の醍醐味。
メンタルが繊細で躁鬱の気があり偏執狂的である。長期間・大人数の映画撮影に耐えることとは相反し、スクリーンでこのテのパーソナリティを残すことは難しい。が、見ただけで明らかにエクセントリックであり、異世界を感じさせる迫力で観客を魅了・圧倒させるオーラの持ち主。。。 伝わるプライベートでは、ストレートなはずなんだけど、ゲイっぽい。分裂がまたここに。
内面が多様すぎる。当然というか、アルコールは手放せなかったようで、大病をして、画面に現れただけでピリピリと走る緊張感は、あまり長持ちせず、老け方も早かった。花の命は短くて。
ほかの主な出演作は『ベケット』(Becket 1964)、『何かいいことないか子猫チャン』(What's New,Pussycat? 1965)、『冬のライオン』(The Lion in Winter 1968)、『チップス先生さようなら』(Goodbye, Mr. Chips 1969)、『ラストエンペラー』(The Last Emperor 1987)など。

 

ピーター・カッシング(Peter Cushing 1913-1994 愛)

Peter Cushing 1913-1994

ホラー映画の名優中の名優。もともとはイギリスのテレビの人気スター。
『フランケンシュタインの逆襲』(The Curse of Frankenstein 1957)では、正邪の区別もかえりみず研究に没頭する狂気の科学者に変貌していく、真に迫りすぎる名演技で世界を席巻した。
続く『吸血鬼ドラキュラ』(Dracula 1958)では時に冷静に、時にアクティブに吸血鬼を追い詰めていくバツグンの説得力。ラストのドラキュラ伯爵とヘルシング教授の戦いは圧巻!
フランケンシュタインとドラキュラ伯爵を演じたクリストファー・リーとのコンビで22本の作品がある。仲も良かった。
『バスカヴィル家の犬』(The Hound of the Baskervilles 1959)ではシャーロック・ホームズを演じる。バスカヴィル卿がクリストファー・リー。痩身・細面のカッシングはまさに適役。クリストファー・リーが2人のコンビ作で人間を演じるのは初めてだった。
今の目でみればクラシカル。CGなしでおどろおどろしい怪奇の世界を作り上げ、役者の演技だけで恐怖を盛り上げていく。
チープな作品でも常に妥協せずに挑み、孤高の演技を貫いた。
『スター・ウォーズ エピソード4/新たなる希望』(Star Wars: Episode IV A New Hope 1977)では帝国軍のターキン総督役。さすがだ。襟を正さずにはいられない。

 

ピーター・セラーズ(Peter Sellers 1925-1980 英)

Peter Sellers 1925-1980

チャールズ・チャップリン以来のイギリスの絶品コメディアン俳優。イメージは、そうですね、タモリさんを〇〇〇〇倍パワーアップさせたと思ってください。都会的で洒脱。芸達者で真面目な顔してやることなすこと報復絶倒。
『ピンク・パンサー』(The Pink Panther 1963~1982)シリーズでヘンリー・マンシーニのテーマソングとともに現れるセラース演じるクルーゾー警部は、第1作で完全に主役を食ってしまい、シリーズは全8作作られた、20世紀屈指のコメディシリーズ。
『博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか』(Dr. Strangelove or: How I Learned to Stop Worrying and Love the Bomb 1964)は東西冷戦の時代に生まれた超々墨汁よりブラック。セラーズは大統領・将校・エキセントリックな科学者の1人3役(ホントは4役の予定だったがケガで断念)。言われなければ同じ人物だと気づかない。ソ連軍の脅威にアメリカが暴走。キノコ雲があがり、「また会いましょう」の音楽が流れるラストまで、怪優の怪演作はスタンリー・キューブリック監督にとっても畢生の名作となった。
コメディアンの常、スランプ・スキャンダル・アルコールからは逃れられず39歳でペースメイカーが入り、心臓発作により54歳で急逝。
出演作はほかに『マダムと泥棒』(The Ladykillers 1955)など。

 

ピーター・ローレ(Peter Lorre 1904-1964 匈)

Peter Lorre 1904-1964

あいつが殺人鬼だ! 子どもにお菓子屋おもちゃを買い与えている。手のひらに「M」をチョークで描き、追い抜きざまに肩に触れる。肩には殺人者の烙印、「M」が白く浮かび上がる。不気味な、目をむいたハゼみたいに目玉が飛び出す。神がかった世紀の顔。を持つ男。
狂気と内なる衝動に追い回される小男を説得力をもって演じて空恐ろしい。殺人犯と警察と暗黒街の犯罪組織の三つ巴のスリリングな追撃戦。要所要所で鳴り響く、殺人犯の吹く口笛とメロディー…。の ドイツのフリッツ・ラング監督作品、『M』(M – Eine Stadt sucht einen Mörder 1931)でスターに。
ユダヤ人なのでナチスが政権を握るとドイツにはいられない。フランスを経てイギリスにわたり、アルフレッド・ヒッチコック監督の『暗殺者の家』(The Man Who Knew Too Much 1934)に出演。異形の形相がまたもや光る。
続いてハリウッドへ。ギャング映画とフィルム・ノワールの時代、『マルタの鷹』(The Maltese Falcon 1941)と『カサブランカ』(Casablanca 1942)に出演している。
その後は正直そのあとはだんだん影は薄くなっていった。

 

ピエール・フレネー(Pierre Fresnay 1897-1975 仏)

Pierre Fresnay 1897-1975

ジャン・ルノワール監督の骨太の名作『大いなる幻影』(La Grande Illusion 1937)で、敵味方を超え、滅びゆく貴族階級同士、エリッヒ・フォン・シュトロハイムと杯を交わすフランス貴族ボワルデュー大佐。
正統派の二枚目俳優。フランスではとてもポピュラーな、『男はつらいよ』の原点ともいわれている人情喜劇「マルセイユ三部作(マリウス・ファニー・セザール)」で主人公マリウスを演じ、1920~30年代に舞台で人気を博す。イギリス時代のアルフレッド・ヒッチコック監督『暗殺者の家』(The Man Who Knew Too Much 1934)年にも出ている。
第一次世界大戦中はフランス軍の兵士として活躍して英雄扱いだったものの、第二次世界大戦のドイツ占領下では、ドイツの息のかかった映画会社の映画に出ていたため、逮捕。証拠不十分のため釈放されたものの旗色は悪かった。(フレネーは危機的状況にあったフランスの映画産業を救うために映画の仕事をしていたと説明)
それでも、清廉高潔な聖人の伝記映画『聖バンサン』(Monsieur Vincent 1947)は大ヒット。
出演作はほかに『密告』(Le Corbeau 1943)など。

 

ピエール・リシャール・ウィルム(Pierre Richard Willm 1895-1983 仏)

Pierre Richard Willm 1895-1983

ジャック・フェデー監督の不朽の名作『外人部隊』(Le Grand Jeu 1933)で、流れ流れて最果て、モロッコの外人部隊に入り、それでも昔の女が忘れられない…の放蕩お坊ちゃまを演じた。無常と虚無を演じられるブロンドボーイ。もっとも見どころはフェデー夫人のフランソワーズ・ロゼーが根こそぎ持って行ってしまうのですが…。ラストシーンのトランプ占いのカードは主人公の死を暗示する。聞こえてくる外人部隊の軍楽とマダムの涙。
おなじく不朽の名作、ジュリアン・デュヴィヴィエ監督『舞踏会の手帖』(Un Carnet de Bal 1937)は、若き未亡人が、16歳の時の初めての舞踏会の手帖を頼りに、昔の踊り相手を訪ねて回る。リシャール・ウィルムはアルプスのガイド。「詩人になりたいって言ってたわね」と語りかけると「本物の詩人になったよ。一文字も書かないもの。」と笑う。オムニバス映画で、悲惨なエピソードの方が多いんだけど、リシャール・ウィルムのパートは、明るくさわやか。
主演の代表作は『モンテ・クリスト伯』(Le Comte de Monte-Cristo 1943)。 『ヨシワラ』(Yoshiwara 1936)では早川雪洲と共演。
1950年代には俳優業を引退し、自伝も出版。

 

ビル・ボージャングル・ロビンソン(Bill "Bojangles" Robinson 1878-1949 米)

Bill

アフリカ系アメリカ人の、偉大なるタップダンサー。この人くらいになると、人種の壁などかすんでしまう。20年代前半のアメリカの、間違いなく黒人エンターテイナーのトップ。ガリバー状態。
まずロビンソンのタップダンスは斬新だった。軽々とステップを踏む。代表的なパフォーマンスは階段をリズミカルで複雑なステップを踏みながら登りおりを繰り返し、タップを響かせるのがオハコ。(特許を取得したかったが諸事情で断念)
「黒人だから」なんて言う人、誰もいない。老若男女人種を問わず人気があり、名子役シャーリー・テンプルとの『小連隊長』(The Little Colonel 1935)、『テンプルの愛国者』(The Littlest Rebel 1935)などで共演し、ダンスコンビを組んだ。白人と黒人のダンスコンビ。1930年代ですよ。さらに自身の人生を元にしたミュージカル『ストーミー・ウェザー』(Stormy Weather 1943)では主演を務めている。
サミー・デイビス・ジュニアの教師・指導者であり、グレゴリー・ハインズはロビンソンの伝記映画を製作・主演。1989年、アメリカ議会はロビンソンの誕生日である5月25日を全国タップダンスの日と定めた。

 

ビング・クロスビー(Bing Crosby 1903-1977 米)

Bing Crosby 1903-1977

クリスマスシーズンに似合う、真夏にはちょっと暑苦しいんじゃない!? の声量があり、柔らかなヴォイスの20世紀のポピュラーソングの大家。「クルーナー」の語源はクロスビー。マイクロフォンを使って観客に歌声をきかせるのに適した歌い方を確立したのはクロスビー。
歌手としての業績・功績は言わずもがな。役者としても大成し、『我が道を往く』(Going My Way 1944)ではアカデミー賞をとっている。ニューヨークの下町に、なんだかポーっとした若きオマリー神父が赴任してくる。飄々と、子どもに歌を教えて合唱隊を作り、不良少年に声をかけ、家出した女の子の面倒を見てあげて恋の橋渡し。教会を立て直し、「星にスイング(Swinging on a Star)」を披露し、また次の教会へと…との心温まる下町人情コメディで、いや~、好きですねえ、こういうの!
『スイング・ホテル』(Holiday Inn 1942)と『ホワイト・クリスマス』(White Christmas 1954)(前作が大好評で改めてまた作った。)で挿入歌「ホワイト・クリスマス」はいまや地球を制覇してるし、シリアスな演技なら『喝采』(The Country Girl 1954)、ミュージカルなら『上流社会』(High Society 1956)、シナトラ一家に別格で参加した『七人の愚連隊』(Robin and the Seven Hoods 1964)をどうぞ!

 

ファーリー・グレンジャー(Farley Granger 1925-2011 米)

Farley Granger 1925-2011

忘れられない映画が3本。
全編1カット撮影、映画の上映時間と実時間が同じ、に巨匠が挑んだアルフレッド・ヒッチコック監督の『ロープ』(Rope 1948)。選ばれた人間は人を殺してもいいのだ。とスリルを味わうためにのみ殺人をおかし、死体を部屋の中に隠し、関係者をアパートに引き入れる。怒りに震えるジェームズ・スチュアートに見破られる。
同じくヒッチコック監督の『見知らぬ乗客』(Strangers on a Train 1951)。B級映画っぽく活気があり、しかも名シーンばかりなので見ていて楽しい! クライマックスの猛回転するメリーゴーランドの格闘シーン。メガネが落ち、メガネのレンズに殺人が映り込むシーン、必死になって下水溝に落ちた証拠のライターを拾い上げるシーン、テニスの試合中、観客は球を追って視線が右に左に動くのに、一人だけ、不気味な男が一点を見つめているシーン…。
ルキノ・ヴィスコンティ監督作品の『夏の嵐』(Senso 1954)もすさまじかった。貴婦人を誘惑し、裏切り、密告されて銃殺される逃亡兵役。背筋凍ったものなあ。
美男子は美男子なんだけど、ちょっとやさぐれてるというか、だらしなさをプラスして、役に深みを加えた俳優さん。私生活ではゲイであることを早くから公表した。映画から遠ざかったあとは舞台に熱心だった。

 

フランク・シナトラ(Frank Sinatra 1915-1998 米)

Frank Sinatra 1915-1998

アメリカの芸能界のドンといった貫禄と恰幅で「マイ・ウェイ」など熱唱するシナトラのイメージが先行してしまいますが、映画のシナトラは、若々しい。
もともとは「ボビーソクサー」、2つ折りのソックスを履いた10代の女の子にキャーキャー騒がれる、甘い声でロマンチックな歌をうたうアイドル歌手だった。『踊る大紐育』(On the Town 1949)の頃なんて、やせっぽちの気の弱い水兵さん役。早すぎる成功のあとにスランプや、赤狩りの時代の、もともとイタリア系で自分自身も差別を受けて育っているがゆえの社会活動に目がつけられ、一時は歌手人生の存亡の危機に追い詰められた。起死回生の映画が『地上より永遠に』(From Here to Eternity 1953)。真珠湾攻撃で死んでいく若き米兵を演じ、演技力が認められ、奇跡の復活を果たしており、その後はマフィアとの仲を取りざたされたりしながらもシナトラ一家でショーを開き、『オーシャンと十一人の仲間』(Ocean's Eleven 1960)を作り、生き抜いた。勝ち抜いた。
ほかの出演作はミュージカルだと『錨を上げて』(Anchors Aweigh 1945)、『上流社会』(High Society 1956)、シリアスドラマだと『黄金の腕』(The Man with the Golden Arm 1955)など。

 

フレッド・アステア (Fred Astaire 1899-1987 米)

Fred Astaire 1899-1987

20世紀のダンスの神様はアステアただ一人。
タップダンスはもともとは大道芸。ボードヴィル・ミンストレル・ブロードウェイと時代と客層に合わせて変化していく。
フレッドアステアは、タップダンスを洗練させエレガンスの極みにまで連れて行った。また、映画の中のダンスを独立したパートではなく、物語を進めていく必要不可欠の要素とした。また、むやみにカットを割らず、またカメラをダンサーがフレームに入る位置に置いて、観客にじっくり・しっかり踊りを見せる。
ブロードウェイでは実の姉とコンビを組んだ。スクリーンデビュー後、ほどなくジンジャー・ロジャースとコンビを組んだ。アステア&ロジャースはアメリカの歴史に残るゴールデン・コンビ。代表作は『トップ・ハット』(Top Hat 1935)。
コンビ解消後は引退どころか『イースター・パレード』(Easter Parade 1948)、『バンド・ワゴン』(The Band Wagon 1953)と鉄板・神ミュージカルを送り出した第二の黄金期がやってくる。
大がかりなミュージカル映画を作るのが難しい時代になると、テレビにも多数出演。
60代を過ぎるとミュージカル以外のシリアスな映画で「いぶし銀」の立ち位置で時折出演。
人柄はシャイで完璧主義者。

 

フレッド・マクマレイ(Fred MacMurray 1908-1991 米)

Fred MacMurray 1908-1991

ミュージシャンを目指していたけど、ブロードウェイのミュージカルからスカウトされてスクリーンデビュー。メロドラマもミュージカルもハードボイルドも西部劇、すべてイケる。一流監督の作品に出演し、トップ女優の相手役を堅実にソツなくこなし、評価と実績を積み上げていく。
イメージはまともで思慮深いナイスガイなんだけど、代表作とされるのは相反するタイプ。『深夜の告白』(Double Indemnity 1944)。バーバラ・スタンウィック演じる強欲な妻と一緒に夫を殺害しようと画策する保険のセールスマン。さらに『アパートの鍵貸します』(The Apartment 1960)ではシャーリー・マクレーンを手玉に取って二股をかける会社役員。
続いてディズニー映画『ボクはむく犬』(The Shaggy Dog 1959)の犬嫌いの父親役、映画は大ヒットしてディズニー映画への出演も続く。
知名度があがったところでテレビシリーズ『パパ大好き』(My Three Sons 1960-72)に出演し、これまた人気シリーズとして長く続いた。
私生活では投資もうまく金銭感覚も堅実で撮影の合間には広大な牧場でワイナリーも経営。悠々自適、大成功をおさめた円満な俳優人生。

 

フレデリック・マーチ(Fredric March 1897-1975 米)

Fredric March 1897-1975

銀行員から俳優を目指し、バリモア一家の一員として舞台で売り出す。ギリシア彫刻を思わせる端正な美貌は品位にあふれ、表情にはつねに内に秘めた情熱がただよう。初期のころは眉間にシワもなく!? 高潔な2枚目俳優として軽妙な役も演じている。『ジキル博士とハイド氏』(Dr. Jekyll and Mr. Hyde 1931)はこのころの代表作。は美男のマーチのハイドへの変貌が見どころ。ホラー映画の古典であり、ハシリとしても名高い。
広い額と引き締まった口元は意志の強さを表し、硬骨漢。映画会社を飛び出し、舞台を務める。
性格俳優としての転機は『我等の生涯の最良の年』(The Best Years of Our Lives 1946)。帰還兵が市民生活に復帰する不安と困難を乗り越えていく様子が描かれ、映画のテーマが時流ににピタリ沿っていて、それでいていつの時代にも変わらない、誰もが自分を投影できる。ハリウッドの誇る正真正銘の名作でマーチは苦渋に満ちた中産階級の家長役を演じた。
美男型から性格俳優への変貌を見事にこなした数少ない俳優。深い教養とあたたかい人間性に裏打ちされた人間描写の豊かさをたたえた稀にみる個性は、若き日のマーロン・ブランドやウィリアム・ホールデンの憧れだった。

 

ベイジル・ラスボーン(Basil Rathbone 1892-1967 南アフリカ共和国)

Basil Rathbone 1892-1967

南アフリカ生まれで。両親にスパイの嫌疑がかかり、3歳のときにイギリスにやってきた。いったんは保険会社につとめたものの、演劇への思いは立ちがたく、ロンドンの舞台に立ち、ブロードウェイ経由でハリウッドへ。
舞台では正統派のシェイクスピア俳優。第一次世界大戦時、従軍して英国陸軍のフェンシングチャンピオンになっている。つまりハリウッドNo.1の腕前。時のスワッシュバクラーものの大スター、エロール・フリンやタイロン・パワーは教えを乞う立場。『海賊ブラッド』(Captain Blood 1935)や『ロビンフッドの冒険』(The Adventures of Robin Hood 1938)では敵役。悪役が上手いと、チャンバラは盛り上がる!
続いて『フランケンシュタインの復活』(Son of Frankenstein 1939)ではフランケンシュタイン、『バスカヴィル家の犬』(The hound of the Baskervilles 1939)ではシャーロック・ホームズを演じ、一気に役者としてのテリトリーを固めた。アメリカではホームズものの極め付きはベイジル・ラスボーン。14作に出演している。
晩年まで忙しく、数多くのテレビ番組、主にドラマ、バラエティ、ゲーム番組に出演。75歳で心臓発作で急逝。

 

ベラ・ルゴシ(Bela Lugosi 1882-1956 匈)

Bela Lugosi 1882-1956

ハンガリー生まれ。第一次世界大戦に従軍し、母国で舞台や映画に出演していたものの、1918~20年のハンガリー革命の失敗により、反政府活動に手を染めていたルゴシは、母国を去らなければならなかった。ドイツ映画に出演したのち、アメリカへ移住。
性格俳優としてブロードウェイでドラキュラ伯爵を演じ、喝采を浴びる。映画化が『魔人ドラキュラ』(Dracula 1931)。黒スーツ・黒マントで主演。吸血鬼の本場!? 出身のハンガリー訛りの英語と母国を離れてエトランゼとして生き抜いてきた気迫の演技力によりドラキュラ俳優の第一人者に。
また『恐怖城』(White Zombie 1932)は世界で最初のゾンビ映画。ルゴシの役どころはゾンビをあやつる呪術師で、これまた映画史に残るエポックメイキングな作品。
A級映画への作品はあとは『凸凹フランケンシュタインの巻』(Bud Abbott and Lou Costello Meet Frankenstein 1948)くらい。ただしB級映画でも毅然と襟を正し、演技をつづけた。
晩年のルゴシといえば、ジョニー・デップ主演の『エド・ウッド』。「史上最低の映画監督」エド・ウッド監督とのエピソード。かつては一世を風靡した憧れの人との出会いと別れは、ひときわ胸に迫ります。

 

ヘンリー・フォンダ (Henry Fonda 1905-1982 米)

Henry Fonda 1905-1982

『暗黒街の弾痕』(You Only Live Once 1937)で追い詰められていく殺人犯を演じて一流スターの仲間入り。『怒りの葡萄』(The Grapes of Wrath 1940)では放浪する小作農。激情的な演技は次第に落ち着いた渋みが加わっていく。『荒野の決闘』(My Darling Clementine 1946)ではシャイな保安官のワイアット・アープ、『十二人の怒れる男』(12 Angry Men 1954)では粘り強い陪審員。
地味に見えるリアルな演技、かつ人間の深いところにある信念をよびさますかのような魅力あるキャラクター。見かけはハンサムとか英雄とはかけ離れているのに男の強さとやさしさ、人間のもつ誠実さ、静かなる意志ををほんのちょっとしたしぐさで表現できる絶妙さ。
子どもはジェーン・フォンダとピーター・フォンダ。どちらも俳優として大成したものの、親子の断絶・確執は続いた。死期が迫り、名優のほまれ高かったのになぜかオスカーに縁がなかった父のために娘ジェーンが『黄昏』(On Golden Pond 1981)の年老いて頑固で、最後には娘とのわだかまりも消え、和解する父親役をプレゼント。オスカー像を病床の父親に届けたのは、ハリウッドで最も美しいエピソードの一つ。

 

ポール・ニューマン(Paul Newman 1925-2008 米)

Paul Newman 1925-2008

1960年代のアメリカを代表する役者のひとり。ハリウッド産業によって「作られた」スターからスター自らが「作り出した」個性へ。後者の最もわかりやすいスーパースターがポール・ニューマン。
はじめは「第二のマーロン・ブランド」でひとくくりにされていた。次第にアクターズスタジオで同期のジェームズ・ディーンより大人のキャラクターを、マーロン・ブランドほど重くなく演じる魅力ある大スターの地位を確保していいく。初期の代表作は『ハスラー』(The Hustler 1961)。
『明日に向って撃て!』(Butch Cassidy and the Sundance Kid 1969)で頂点を極める。アメリカ映画伝統の西部劇を、アメリカン・ニューシネマの映像詩的作品としてポエジーたっぷりに再生した傑作。ロバート・レッドフォードとのコンピも絶妙で、二人は『スティング』(The Sting 1973)で再び共演。
ポール・ニューマンの出ている映画ならまず秀作。出演作を選ぶのが上手い。知的で粋で都会的で何をやってもサマになる。
後進の育成、政治活動、社会活動にも熱心で一家言を持ち、夫人との終生仲睦まじいおしどり夫婦ぶり。バート・ランカスター、グレゴリー・ペックとともに映画スターの社会的地位を引き上げた。

 

ポール・ヘンリード(Paul Henreid 1905-1992 墺)

Paul Henreid 1905-1992

現イタリア当時オーストリア領で生まれたウィーン貴族の末裔。ドイツで映画や舞台に出ていたが第二次世界大戦が勃発し、イギリスへ。そしてアメリカへ。
映画史にポール・ヘンリードは2回姿を現す。
まず『情熱の航路』(Now, Voyager 1942)。1940年代が全盛の「フィルムのファースト・レディ」と呼ばれた大大大…女優、ベティ・デイヴィスの相手役。悲惨な、今でいう引きこもり人生を送っていた女性が、周りの助けをもらって一転、美しいレディに変身。妻子あるポール・ヘンリードと恋に落ちるのです。
そして「ポール・ヘンリードが2本のたばこに火をつけ、1本をベティ・デイヴィスに渡し、ベティ・デイヴィスが受け取り、一服し、見つめあう…」シーンが何回か出てくる。ココ! 恋愛映画の古典として大事! 名シーン! テストのヤマ! って感じで、ハリウッド映画の仲では「君の瞳に乾杯! 」「明日考えるわ」並みの知名度があります。
もう1つは『カサブランカ』(Casablanca 1942)。イングリッド・バーグマン演じるヒロイン、イルサの夫、反ナチの活動家、ラズロを演じている。
この2つがある限り、ポール・ヘンリードの名前は残っていくのでしょう。
肺炎で87歳で死去。

 

ポール・ムニ(Paul Muni 1895-1967 米)

Paul Muni 1895-1967

マーロン・ブランドが最も尊敬した俳優と言われている。
ユダヤ劇団を振り出しに舞台で活躍。『暗黒街の顔役』(Scarface 1932)でセンセーションを巻き起こしたギャング役者No.1。ギャング映画が下火になるとたちまち『科学者の道』(The Story of Louis Pasteur 1936)で偉い細菌学者ルイ・パスツールを演じたりする。エミール・ゾラの伝記映画にも出た。『ゾラの生涯』(The Life of Emile Zola 1937)。メイキャップがとてもうまく、12歳で80歳の役を演じていたんだとか。『大地』(The Good Earth 1937)では中国人を演じて違和感がない。
もともと、体があまり丈夫ではなく、性格もパーティーに出たり女の子と遊んだり!? するタイプではなく、内にこもるタイプ。かわりに役づくりの執念と集中力はものすごく、演技力は高く評価されながらも気難しく、出演作を選びすぎ(裏を返せば役を選ぶ自由がある、強い立場にいることの証明)て寡作になり、わき目もふらず集中するから変人としてのエピソードも伝わっている。
50代後半に目を患い、健康もすぐれず、表舞台から遠ざかっていった。心疾患で71歳で死去。

 

ボブ・ホープ(Bob Hope 1903-2003 米)

Bob Hope 1903-2003

(ビートたけし+明石家さんま+所ジョージ)×〇〇〇〇倍、のイメージ。好感度抜群のアメリカの国民的コメディアン。大物中の大物であり、功績・業績は数限りない。
本領はトークなんですね。マシンガントークでネタを連発して、おもしろい。だから、ラジオ・テレビ・司会業が冴える。アカデミー賞授賞式の司会も何回も務めている。
映画に限ってだと『百万弗大放送』(The Big Broadcast 1938)で歌った歌は大ヒット。
『腰抜け二挺拳銃』(The Paleface 1948)。カラミティ・ジェーンは任務のために弱虫男と結婚して西部へ。決闘では自分のタマははずれても奥さんが撃ってくれて訳わからんうちに英雄扱い。インディアン(←時代)につかまってあわや股裂きの刑にと思いきや、靴がぬげて絶体絶命の危機脱出! 挿入歌「ボタンとリボン」(Buttons And Bows)は日本では「バッテンボー」の歌として親しまれた。主演の映画の邦題には「腰抜け」がつくことが多い。
ビング・クロスビーとのコンビだと「珍道中」シリーズ7本。マドンナがドロシー・ラムーア。美女をめぐって男二人が恋のさやあて。クロスビーも大歌手だし、歌あり踊りあり、行先が世界(モロッコだのアラスカだのバリだの)なのでご当地ネタも楽しい。ベストの呼び声高いのは『アラスカ珍道中』(Road to Utopia 1946)。
100歳で大往生。

 

ボリス・カーロフ(Boris Karloff 1887-1969 英)

Boris Karloff 1887-1969

イギリスの外交官の家系に生まれ、親戚に『王様と私』のアナ・リオノウンズがいる。なお、お母さんはインド人。さらに「知る限りインド一の美人」との証言もあり。なので肌の色はセピアよりで黒い瞳・彫りが深い。
舞台経験を積みながらハリウッドにやってきた。下積みが10年続き、『フランケンシュタイン』(Frankenstein 1931)に主演。重い衣装、12㎝のプラットフォーム入りの靴、ヘビーな特殊メイクに耐え、セリフなしで陰鬱で、残酷なんだけど哀れなモンスターを演じた。不朽の名作です。カーロフ本人は「役者にとって自分のイメージが決まるということは幸せなことだ。」と生涯語った。続編も2本作られている。
続いて『ミイラ再生』(The Mummy 1932)はミイラ映画の元祖、『黒猫』(The Black Cat 1934)、フランケンシュタイン映画の続編を2本。
以後は怪奇映画だけでなく、それ以外のジャンルの映画にも挑戦。
晩年は車いすの上で演技をつづけた。
5回結婚しており、「離婚した次の日に再婚」なんて経歴があり、目がテンになってしまうけど、「もの静かで謙虚で、紳士的な人だった」と人柄には肯定的。また子ども好きで子供向けのラジオ番組を持ちおとぎ話やなぞなぞを語っていたんだとか。

 

ホルスト・ブッフホルツ(Horst Buchholz 1933-2003 独)

Horst Buchholz 1933-2003

ドイツのジェームズ・ディーンと言われた。10代で人気スターに。出世作は『わが青春のマリアンヌ』(Marianne, meine Jugendliebe 1955)(ドイツ語版)は夢の中、ほんとうにいたかいないかも定かではない、美しい女性と少年との出会いと別れ。『詐欺師フェーリクス・クルルの告白』(Confessions of Felix Krull 1957)はトーマス・マン原作のピカレスクロマン。硬質の、少年の面差しを残した顔立ち。表情が読みにくいんですよね。個性なのか、それとも、ドイツの役者さんのナショナリティなのかは置いといて。
ハリウッドに進出し、黒澤明の『七人の侍』の西部劇版、『荒野の七人』(The Magnificent Seven 1960)で映画史に名は永久に刻まれる。一番の若手、チコ役。
ビリー・ワイルダー監督作品、『ワン・ツー・スリー』(One, Two, Three 1961)もいいなあ。東西冷戦下を時代背景に、コチコチの東ドイツの青年役。
ほどなくドイツに戻り、テレビに出たり、ヨーロッパ映画に出たりはずっと続いていたものの、日本まではなかなか様子が伝わってこない。『ライフ・イズ・ビューティフル』(La vita è bella 1997)のレッシング医師役で久々に年を重ねた姿を見ることができた。
股関節の手術後、肺炎を併発して69歳で急逝。

 

ま行

マーロン・ブランド (Marlon Brando 1924-2004 米)

Marlon Brando 1924-2004

メーキャップなしで、素顔で「ターミネーター」、恐怖の男。ぬめぬめしていてタフで醒めていて暴力的。底にどろりとよどむ頽廃の魅力。『ゴッド・ファーザー』(The Godfather 1972)の姿と、往年のギャングスター、…比べちゃいけないんだけど、比べてしまう。強烈な個性と盤石の演技力で1950年代のハリウッドを席巻した。
舞台仕込みの演技、「ニューヨーク派」の表現を西海岸に定着させる先頭に立った。お人柄も芸術家肌なんだから、と言い聞かせつつ、反抗的でトラブルメーカー。周囲をきりきり舞いさせる。業界からボイコットされたりもした。ただしこれに先立ち、ご本人もアカデミー賞授賞式をボイコットしてアメリカ先住民族を送り込んだりしている。女性遍歴もお相手の国籍は、グローバル。つまり、人種問題なんかも先陣を切っている。と書いておこう。
代表作はありすぎるんですが…『欲望という名の電車』(A Streetcar Named Desire 1951)、『革命児サパタ』(Viva Zapata! 1952)、『波止場』(On the Waterfront 1954)、巨人ぶりを見せつけたのは『ゴッド・ファーザー』と『地獄の黙示録』(Apocalypse Now 1979)など。
若死にせず、80歳まで存命でした。乾杯!

 

マイケル・ケイン(Michael Caine 1933-  英)

Michael Caine 1933-

出演作が多い。ギャラとスケジュールが合えばどんな駄作・凡作にも律儀に出演することで有名。アカデミー賞の受賞式は『ジョーズ'87 復讐篇』の撮影のため欠席、「出席できたらなんてあいさつするつもりだったんですか」と聞かれ、答えは「プロデューサー諸君、オスカーをもらったからといって出演料をふっかけないから安心してくれたまえ。」
今でこそ「サー」の称号をいただき、大御所の貫禄ですが、出たてのころは、労働者階級の出自のわかるコックニー訛り、金髪で額の目立つ、なまっちろい美青年でシニカルな英国式ユーモアのムードをかもしだし、よく言えば飄々、悪く言えば!? 情けない…。ご本人曰く「自分が売れるなんて、思っていなかった。自信がなかった。だから、何にでも出た。」
出世作は『ズール戦争』(Zulu 1964)、オスカー獲得は『ハンナとその姉妹』(Hannah and Her Sisters 1986)、『サイダーハウス・ルール』(The Cider House Rules 1999)、個人的なおすすめは『探偵<スルース>』(Sleuth 1972)。
古稀を過ぎ、クリストファー・ノーラン監督との幸せな出会いがあり、いまや作品にかかせない存在。

 

マイケル・レッドグレイブ(Michael Redgrave 1908-1985 英)

Michael Redgrave 1908-1985

アルフレッド・ヒッチコック監督のイギリス時代の代表作、『バルカン超特急』(The Lady Vanishes 1938)の主演男優として。
1938年の映画なのに! キレッキレ! 飛ばす飛ばす! 脂の乗り切ったスピードと躍動感は、まさに人類の遺産と言い切ってしまいます!
お父さんもお母さんも奥さまも子どももことごとく俳優。(ヴァネッサ・レッドグレイヴは娘)。俗に「ヒッチコック美人」との言葉がありますが、男優にも好み、傾向があり、同じ二枚目でも、ギラギラしたタイプ、たとえばクラーク・ゲーブルなんかは使わない。ノーブルで紳士的なキャラクターが往々にして多い。
高慢ちきな令嬢が特急列車の中で老婦人と知り合うが、夫人(実はスパイ)は疾走する列車のなかから忽然と消えてしまう。なのに、乗客(の中に老婦人を拘束している一味がいる)は「そんな人は乗っていない」と口をそろえる。幸い、民族音楽を研究している青年(マイケル・レッドグレイブ)が信じてくれて、二人は一緒に老婦人を探す。列車はいつの間にか支線に入り、クライマックスの銃撃戦になだれこむ! そしてあっけにとられるラストシーン!
イギリスとアメリカ、舞台と映画で活躍。出演映画はほかに『扉の陰の秘密』(Secret Beyond the Door 1947)、『チップス先生さようなら』(Goodbye, Mr. Chips 1969)など。

 

マクシミリアン・シェル(Maximilian Schell 1930-2014 墺)

Maximilian Schell 1930-2014

女優で『居酒屋』『白夜』のマリア・シェルはお姉さん。
オーストリア生まれで、子どもの頃、オーストリアはナチスドイツに併合されたため、家族はスイスに逃亡。 スイスの舞台がキャリアのはじまり。
英語とドイツ語が話せる。なのでインターナショナルな映画、それも大作にストイックな二枚目のドイツ人・ドイツ軍人としてキャスティングされ、戦争のむなしさと狂気を訴える…役柄が多い。『誇り高き戦場』(Counterpoint 1967)、『オデッサ・ファイル』(The Odessa File 1974)、『戦争のはらわた』(Cross of Iron 1977)、『遠すぎた橋』(A Bridge Too Far 1977)、『ジュリア』(Julia 1977)。 『ニュールンベルグ裁判』(Judgment at Nuremberg 1961)では弁護士。
もちろん、「英語がしゃべれるドイツ軍人のやれる俳優」のワクにとどまらず、南アメリカの革命指導者や、皇帝や物理学者、お宝を狙う悪党の親分なんかも演じている。
舞台では「史上最高のハムレット役者の一人」とされ、監督もこなし、マレーネ・ディートリッヒのドキュメンタリー映画、『マレーネ』はノンフィクション映画の傑作。ピアニストでもあり指揮者でもあった多彩な人。

 

マックス・フォン・シドー(Max von Sydow 1929-2020 典)

Max von Sydow 1929-2020

スウェーデンの誇る巨匠監督、イングマール・ベルイマン監督の看板俳優であり、ベルイマン映画出演は13本。イングリッド・バーグマンに並び、スウェーデンの産んだ国際スター。
北欧人らしい面長で端正なマスク。ベルイマン作品では一貫して人間の持つ業に苦悩するインテリを演じて神秘的な魅力をかもしだす。
『第七の封印』(Det sjunde inseglet 1957)は中世のスウェーデンが舞台。ペストが蔓延するふるさとに帰ってきた騎士は、死神にチェスの勝負を申し入れる。道中で出会う人々。死の舞踏を踊る死神が連れ去った犠牲者。映画の成功により、海外からの出演オファーを受ける。
『処女の泉』(Jungfrukällan 1960)も舞台は中世スウェーデン。娘を強姦され、復讐を遂げ、神の仕打ちに絶望しながらも救済を求めずにいられないする父親。
身の毛もよだつこわいこわい、大ヒットしたハリウッド映画『エクソシスト』(The Exorcist 1973)でメリン神父を演じ、知名度は世界規模。アメリカ映画ではイエス・キリスト役がデビュー作だし、ユーモラスで上品なプレイボーイ役、謎の殺し屋役などもあって、芸域の広さはさすが。
『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』(Star Wars: The Force Awakens 2015)では地下信仰を続ける銀河系探索者ロア・サン・テッカ役。

 

マリオ・アドルフ(Mario Adorf 1930-  伊)

Mario Adorf 1930-

日本では知名度はいま一つなのですが、ドイツの国民的俳優なので、ご紹介を。
出世作は西ドイツ映画・ロバート・シオドマク監督の『夜来る悪魔』(Nachts, wenn der Teufel kam 1957) 。第二次世界大戦末期ナチス政権下での知的障害・連続殺人・人体実験・実は冤罪かもの4拍子そろった難役に挑み、大成功をおさめる。
1960年代は濃いルックスと演技力でスパイ映画、マフィア映画、マカロニウエスタンものの悪役に欠かせない存在だった。たとえば、『暁のガンマン』(E per tetto un cielo di stelle 1968)ではジュリアーノ・ジェンマの相棒役。
1970年代になると重厚感のある役、例えば『マッテオッティの暗殺』(Il delitto Matteotti 1973)でムッソリーニ、『ブリキの太鼓』(Die Blechtrommel 1977)で3歳で成長をとめたオスカル少年!? の父、ナチズムの時代を狡猾に生きる肉屋の店主を演じ、ドイツ映画界のトップに躍り出た。
50年以上にわたり120本以上の映画に出演し、著作あり。歌手活動あり。
2003年にはドイツ映画アカデミーの創設メンバーに名を連ね、2007年にはベルリン映画祭の審査員を務めている。

 

マルクス兄弟(Marx Brothers 1887-1961 米)

Marx Brothers 1887-1961

1910~40年代に活躍したアメリカのコメディグループ。シュールで荒唐無稽な実の4兄弟(のち3兄弟)のギャグは、20世紀で最も影響力のあるコメディアンのひとつとされている。
こすっからく動き回り、イタリア訛りでピアノが得意なチコ、 絶対にセリフをしゃべらす、かわりにラッパを鳴らし、ハープが得意な金髪くるくる巻き毛のハーポ、 濃い鼻下のひげ、メガネをかけてフロックコートで図々しくけたたましく動き回りしゃべりまくるグルーチョ、 ツッコミ専門、ただ1人の普通キャラのゼーポ(途中で引退) が破天荒なギャグを繰り広げる。
出演作は『我輩はカモである』(Duck Soup 1933)、『オペラは踊る』(A Night at the Opera 1935)、『マルクス一番乗り』(A Day at the Races 1937)など。
グループは1949年にいったん解散。ソロで活躍、ときどき再結成。
チャールズ・チャップリンが「せめて君たちのように喋れたらなあ」とグルーチョにこぼすと、「あなたはあれほど稼いで、まだ欲張るのかね」と言い返されたとのこと。
「ある朝、私のパジャマの中に象が入ってきたから撃ち殺した。象がどうやって入ってきたかなんて知らんがね」のグルーチョのセリフは2005年のアメリカ映画の名セリフベスト100の53位。

 

マルチェロ・マストロヤンニ(Marcello Mastroianni 1924-1996 伊)

Marcello Mastroianni 1924-1996

20世紀のイタリア最大の国際二枚目スター。どんな役でも理性豊かにこなす。気弱で、少しだらしなくて、善良なイタリア男。堕落してもさらに漂う気品。
フェデリコ・フェリーニ監督の『甘い生活』(La dolce vita 1960)での上流階級の退廃を体験する記者役は戦後ヨーロッパの繁栄の一側面を見せ、ダメ押しの『8 1/2』(Otto e mezzo 1963)でスターの座を決定的に。その後も大監督に愛され、疾走する機関車のように出演作は粒ぞろい。『昨日・今日・明日』(Ieri, Oggi, Domani 1963)ソフィア・ローレンとの恋愛オムニバス、『ひまわり』(I Girasoli 1970)は戦争メロドラマ、『ひきしお』(Liza 1972)の共演で芽生えたカトリーヌ・ドヌーヴとの恋、グロテスクな『最後の晩餐』(La Grande bouffe 1973)、深刻な『特別な一日』(Una giornata particolare 1977)と1作ごとに違う顔を見せ、人間のもつ喜劇性と悲劇性を微妙なコントラストで演じわける。
甘美・理性・怠惰・憂いの色が入りまじって年を重ねてなお最高! 観るひとを笑わせながらものがなしい余韻を残す。
すい臓ガンにより72歳で死去。

 

ミッキー・ルーニー(Mickey Rooney 1920-2014 米)

Mickey Rooney 1920-2014

1930年代に人気のあった子役スター。ただし生涯現役。
ジュディ・ガーランドと組んだ『初恋合戦』(Love Finds Andy Hardy 1938)をはじめとする「アンディ・ハーディ」の”裏庭ミュージカル"シリーズは「みんなの弟」「みんなの妹」の親しみやすいキャラクター設定と、2人とも生まれながらの芸人の子、天才ぶりを見せつける。
また、スペンサー・トレーシーの『少年の町』(Boys Town 1938)では不良少年を演じ、芸域の確かさと広さを知らしめた。
身長が160㎝と小さく、二枚目半で童顔。明るくやんちゃでかしこい子役の「19歳で全米No.1。40歳になると誰も私に目もくれない」の言葉は重い。
映画でバイプレーヤー、代表的なのは『ティファニーで朝食を』(Breakfast at Tiffany’s 1961)の日本人役。
テレビ・ラジオ・舞台でエンターテイナーとして活躍をつづけた。 映画出演はサイレント時代から。1926年から2015年まで、実に89年間。
『裸足の伯爵夫人』のエヴァ・ガードナーを皮切りに、結婚は8回。「慰謝料払わなくちゃいけないから、さっぱり金持ちになれない。」などと苦笑交じりに告白していた。

 

三船敏郎(Toshiro Mifune 1920-1997 日)

Toshiro Mifune 1920-1997

『羅生門』(1950)と『七人の侍』(1954)のキレのあるアクション(殺陣の速さとリアリティ! 馬に乗れば両手離して全力疾走して両手で振りかぶって刀をふるう! )、ワイルドかつナイーブなセックスアピールで「世界のミフネ」へと。エリア・カザンとサム・ペキンパーとテレンス・ヤングの居並ぶテーブルに案内され「トシロー、この中から監督を選んでください」って言われたんですって。
『レッド・サン』(Red Sun 1971)は西部の荒野で宝刀を追いかける。『ミッドウェイ』(Midway 1976)では山本五十六大将。りりしくたたずまいが美しい。
外国人俳優と並んでも気品において見劣りせず、いい男とはかくあるべきでは、と見とれてしまう。
人柄は、きれい好きで几帳面。周りに気を遣うタイプで、スター気どりは大嫌い。あれだけの国際スターなのに、付き人もなし。「自分のことは自分でやりたいから。」って言って…。ただし、お酒にはのまれてしまい、酒乱のエピソードには事欠かない。
東宝を出て「三船プロ」をおこし、プライベートも波乱続きで、キャリア後半は演技に集中するどころか悩みのタネは尽きなかった。
笠智衆みたいに、年をとってほしかったなあ。

 

モーリス・シュヴァリエ(Maurice Chevalier 1888-1972 仏)

Maurice Chevalier 1888-1972

パリの下町っ子から20世紀フランスを代表するエンターテイナーへと。
どうしても『昼下りの情事』(Love in the Afternoon 1957)のオードリー・ヘップバーンのお父さん役のイメージが先に来ちゃうけど、往年のシュヴァリエは顔はフランス仕込みのエスプリきいた美男で、アクロバット出身で背が高くで程よく筋肉がつき、しかもゲーリー・クーパーの100倍明るく陽気! さらにフェロモンしたたるタイプ! ミスタンゲットに愛されて、第一次世界大戦で従軍し、捕虜収容所に収容され、ミスタンゲットは恋人のために奔走する。
狂騒の20年代にはパリのミュージックホールを制し、ハリウッドへ。『ラヴ・パレード』(The Love Parade 1929)、『陽気な中尉さん』(The Smiling Lieutenant 1931)と、巨匠エルンスト・ルビッチ監督作品に出演し、粋を極めたルビッチ・タッチ満載の作品の良さとフランス訛りの英語、ウィンク1つでお姫さまを落とすシュヴァリエのモテ男キャラクターは受けに受けた。
いったんフランスに戻り、再びアメリカ・ヨーロッパ映画に重々しくなくみずみずしいおじさま・おじいさま役で出演をつづけ、生涯大スターでした。

 

モーリス・ロネ(Maurice Ronet 1927-1983 仏)

フランスの端正な貴族型美男スターで、アラン・ドロンと同時代なのでどうしてもかすんでしまいがちですが、ドロンは下積みから成り上がった野心派、ロネはコンセルヴァトワールを卒業した正統派。『太陽がいっぱい』(Plein Soleil 1960)ではアラン・ドロンの妬みで殺されてしまうブルジョア青年役。
パセティックでドラマチックな役柄が多い。『死刑台のエレベーター』(Ascenseur pour l'échafaud 1958)はヌーヴェル・ヴァーグの最高傑作のひとつ。マイルス・デイビスの悲痛なトランペットの音色と、ジャンヌ・モローの女の匂い。ジャンヌに愛されるに値するモーリス・ロネの男ぶり。 『鬼火』(Le Feu follet 1963)も同じくルイ・マル監督の初期の意欲作でジャンヌ・モロー共演、エリック・サティの音楽が流れ、死を選ぶ青年の動きを体現する演技。
『輪舞』(La Ronde 1964)は耽美派のロジェ・ヴァディム監督作品と、時流をとらえたエポックメイキングな作品に出演し、第一線で活躍し続け、自身が監督をつとめた映画もある。肺がんで55歳で死去。早すぎた…。
2人めの奥さまはチャップリンの娘ジョセフィン。

 

モンゴメリー・クリフト(Montgomery Clift 1920-1966 米)

Montgomery Clift 1920-1966

孤独で影のあるカリスマ性のある美貌。美貌に甘んじない知性と演技力。笑う時の眼の金属的な輝き。それまでのスターはアメリカン・ウェイ・オブ・ライフを賛美し肯定したのに、モンゴメリー・クリフトは否定しないまでもひずみと闇を体現するスターだった。かげりが逆に魅力だった。観客が仰ぎ見るのではなく、自分を重ねられるスターだった。
そしてその弱さは同時にモンティを破滅にも追いやった。 『赤い河』(Red River 1948)、『山河遥かなり』(The Search 1948)、『陽のあたる場所』(A Place in the Sun 1949)、『地上より永遠に』(From Here to Eternity 1953)と名作に立て続けに出演しながらも事故で顔を負傷し、また特定の映画会社に属さず、撮影が終わるとニューヨークのアパートにこもってしまう。繊細な性格で孤独とアルコールとドラッグに走り、45歳の若さで心臓発作で死去。
晩年、ある女性ファンがモンティに合うのに成功し、ファン雑誌に載ったモンティ賛歌の記事のスクラップを見せたところ、失意にあったモンティは「私はこんなに人気があったのか」とはじめて自分の人気を知り、目をうるませたという。

 

や行

ユル・ブリンナー(Yul Brynner 1920-1985 露)

Yul Brynner 1920-1985

サハリンに生まれ、父はモンゴル系、母はジプシーと公称し、出生は自分からはつまびらかにしなかった。実際はウラジオストクで成功したスイス人の実業家の末裔。日中戦争を避けてパリへ。ハルビンに戻り、神戸からサンフランシスコへ。
『王様と私』(The King and I 1956)のタイの王様はブロードウェイの初演から大ヒット、さまざまな賞に輝き、映画化でオスカー手中におさめ、以来シャム王の姿のままのスキンヘッドを生涯のトレードマークとした。
東洋と西洋の出会いと別れ。王様は、当たり前だけど上から目線。風変りで頑固だけどエキゾティックでワイルドでセクシー。二人は反発しながらも心を通わせていく。
佳曲ぞろいで「シャル・ウィ・ダンス? 」は一番有名ですが、子どもたちとアンナ先生のかけあい「ゲティング・トゥ・ノウ・ユー」、何十人もいる王子・王女が愛らしく登場してアンナ先生に初対面の挨拶をする「シャムの子どもたちの行進」など、楽しいナンバーがいくつもある。
オンリーワンの精悍でユニークな個性で史劇(『十戒』(The Ten Commandments 1956))や西部劇(『荒野の七人』(The Magnificent Seven 1960))にも進出。

 

ら行

ライオネル・バリモア(Lionel Barrymore 1878-1954 米)

Lionel Barrymore 1878-1954

1930~40年代の名作映画に3~4番目のクレジットでよく見かける。バリモア一家の一員で、弟がジョン・バリモア。舞台出身で演技力がしっかりしており、弟ほどピリピリした個性でない分、脇役・老け役となってからもキャリアは長続きした。
『自由の魂』(A Free Soul 1931)でオスカー俳優になる。グレタ・ガルボと『明眸罪あり』(The Temptress 1926)、 『マタ・ハリ』(Mata Hari 1931)、『グランド・ホテル』(Grand Hotel 1932)、『椿姫』(Camille 1936)年と4本の共演作がある。
また、フランク・キャプラ監督作品の『我が家の楽園』(You Can't Take It With You 1938)の変わり者のお父さん役と『素晴らしき哉、人生!』(It's a Wonderful Life 1946)の意地悪な銀行家役は生涯の代表作の1つとなった。
60歳を過ぎてからは持病の関節炎で長時間立つことができなくなり、車いすの上で演技をつづけた。 2度結婚して、最初の結婚で娘を2人、まだ小さいうちに亡くしている。娘と同じ年まわりだったジーン・ハーローが亡くなった時(『晩餐八時』(Dinner at Eight 1933)で共演あり)、バリモアとクラーク・ゲーブルはまるで家族のように彼女の死を悼んだんだとか。

 

ラモン・ノヴァロ(Ramon Novarro 1899-1968 墨)

Ramon Novarro 1899-1968

スペインの裕福な家の生まれ。メキシコ革命でロサンゼルスにたどりついた。
端役で映画に出ていたところ、美貌を見込まれ、イタリア生まれの当時一世を風靡した二枚目スター、ルドルフ・ヴァレンティノの柳の下のドジョウ狙い、「ラテンの恋人」として売り出された。 『ゼンダ城の虜』(The Prisoner of Zenda 1922)、『ベン・ハー』(Ben-Hur: A Tale of the Christ 1925)、『思ひ出(学生王子)』(The Student Prince in Old Heidelberg 1927)などの代表作が続く。すべてサイレント映画。
当時の人気は大したものだったのですが、今ではなんだか印象が薄い。ヴァレンティノとの違いは何だったのだろう。
トーキー時代に入り、MGMとの契約は更新されなかったものの、全盛期にはおおいに稼いでおり、投資も順調で、優雅な生活。乞われればカメオ出演する。B級映画にも出る。テレビ出演もする。
最期が世間を騒がせた。
17歳と22歳の青年にお金目当てで撲殺される。享年69歳。もともと同性愛者で、豪邸に男娼を呼んでいたのが仇となった。 悪名高いシャロン・テート殺害事件の後に発生したこの事件は、恐怖に震えあがったロサンゼルスの住民をさらに恐怖に陥れた。

 

ランドルフ・スコット(Randolph Scott 1898-1987 米)

Randolph Scott 1898-1987

1950年代の、良くいえば肩のこらない娯楽作、別の言い方をすればB級西部劇の金髪2枚目大スター。若き日!? はケーリー・グラントと12年間同居して、…2人の仲は…。友達だそうです。本人たちがそうおっしゃってるんですから…。
投資に成功して、亡くなる時には1億ドル以上の資産の持ち主だった。あくせく働かなくても、と『昼下りの決斗』(Ride the High Country 1962)を最後に引退。
大学を出て会計士をしていたけれど、お父さんのツテでハワード・ヒューズと出会い、チャンスをつかんだ。はじめはパラマウントと7年契約を結んだものの、終了後はフリーの立場で映画会社を渡り歩く。
すでに主役級のスターの地位はガッチリ確保していたし、出演作はB級でも、人気はA級。ストイックなガンマン、頼れる保安官役。1950~53年にかけてはハリウッドのマネーメイキングスターのトップ10に入っている。
逆に言えば定番・円熟・盤石の西部劇を見るのであればおすすめ。見つけやすいのは『七人の無頼漢』(Seven Men From Now 1956)、『ネバダ決死隊』(Hangman's Knot 1952)『馬上の男』(Man in the Saddle 1951)など。

 

リー・ヴァン・クリーフ(Lee Van Cleef 1925-1989 米)

Lee Van Cleef 1925-1989

悪役人生一筋、のはずだったのに。三顧の礼をもってマカロニウエスタン映画に迎えられ、ヒーローの座についた。 人生万事塞翁が馬、映画の世界にもあるんですねえ。
アマチュア演劇に熱中し、スクリーンテストがスタンリー・クレイマー監督の目にとまり『真昼の決闘』(High Noon 1952)でデビュー。ゲーリー・クーパーを狙う悪者が1人・2人・3人…とあつまる。何しろ。この顔です。写るだけで、こわい…。
細身でスタイルはいいし、細くてするどい、鷲鼻・カギ鼻をとおりこして鷹の爪のような鼻。細面で頬骨の位置が高く、しっかりわかり、鋭い目つきの眼力はレーザービームのよう。
以後、「一発で覚えやすい悪役俳優」として西部劇や『暴力団』(The Big Combo 1955)などのフィルム・ノワール映画に出演。
こんなにすごい役者さんでも、ケガで半ば引退の時期もあった。セルジオ・レオーネ監督に招かれ、イタリアに渡って撮ったマカロニウェスタンは、儲かった。売れた。『続・夕陽のガンマン』(Il buono, il brutto, il cattivo 1966)ではついに主役! 渋い! とにかくカッコイイ! とファンのラブコールも熱い!

 

リー・マーヴィン(Lee Marvin 1924-1987 米)

Lee Marvin 1924-1987

NYのいいトコのおぼっちゃまなのに、素行が悪く、フロリダの寄宿学校に入れられた。そこも退学になり、軍隊に行ってケガをして除隊。配管工事をしていたらピンチヒッターで舞台に立たされ、そこで目が覚め!? NYに戻り、演技の勉強をした。
アクションスターとして映画にTVに知名度を上げていく。実地の戦闘経験があるから、動きや衣装・銃器の取り扱いにも一家言あり、リアルな演技ができる。 ぶ厚い唇とガッツリした面構えがワイルド。
『リバティ・バランスを射った男』(The Man Who Shot Liberty Valance 1962)ではジョン・ウェインを食ってしまった。『殺人者たち』(The Killers 1964)で主役の座、『キャット・バルー』(Cat Ballou 1965)でオスカー獲得。若き日のジェーン・フォンダの出たコメディ仕立ての西部劇で、1人2役を演じ、演技力のお墨付きもついた。『特攻大作戦』(The Dirty Dozen 1967)あたりが全盛期。
同棲していた恋人から、同居していた期間見合いの慰謝料を請求する裁判をおこされ、いわゆる「パリモニーケース」として同棲協定の必要性をクローズアップさせた当事者です。(ご本人は「茶番だ」と意にも介さないご様子でしたが)
心臓発作により63歳で急逝するまで活躍したタフガイ。

 

リチャード・ウィドマーク(Richard Widmark 1914-2008 米)

Richard Widmark 1914-2008

せせら笑うかのような灰色の瞳の冷ややかな上目遣いのまなざしとが、たまらないわ~。
デビュー作『死の接吻』(Kiss of Death 1947)では疫病神みたいな、「ハイエナ」と呼ばれた風貌が暗闇が浮かびあがる。不気味。ニタニタ笑いながら車いすの女を階段からけり落とす。ただ1作で一躍スターダムに。
『街の野獣』(Night and the City 1950)や『暗黒の恐怖』(Panic in the Streets 1950)あたりも悪役パワー全開。死人も怯える冷酷無残な悪役なんだけど、魅力的。新たなキャラクター像は後のダーティー・ハリーシリーズなどのニヒルなアンチヒーローの出現につながっていく。
ただしご本人は俳優になる前は大学の講師。奥さまは脚本家、秀でた額は知性のしるし。政治的にもリベラルだし、銃禁止・暴力禁止運動に熱心。素顔は穏やかなインテリ。
当然悪役専門では飽き足らず、役柄を広げ、『ニュールンベルグ裁判』(Judgment at Nuremberg 1961)ではアメリカ側の検事を演じた。1970年代になるとテレビシリーズでアメリカ大統領役なども演じている。
存命中に出演したフィルム・ノワールへの再評価が進み、カルトな悪役としてリスペクトされたことは、幸運だった。

 

リチャード・バーセルメス(Richard Barthelmess 1895-1963 米)

Richard Barthelmess 1895-1963

おかあさんがサイレントの大スター、アラ・ナジモヴァとお友だち。続いてD.W.グリフィス監督に認められ、純情可憐薄幸悲劇型大女優、リリアン・ギッシュとコンビを組んだ『散り行く花』(Broken Blossoms 1919)と『東への道』(Way Down East 1920)。もうこれだけで永遠の存在です。顔はいいし、純情で熱血をほとばしらせる若者の役にハマる。情熱的な演技ができる。2人の愛のドラマは映画を第八芸術にまで引き上げた。
『東への道』のクライマックス、流れる大河、氷上にリリアン・ギッシュが気絶して倒れ、先には滝。バーセルメスが氷河を飛んで救い出すシーンは、当然吹き替えなどない。
『乗合馬車』(Tol'able David 1921)では乱暴者一家にいじめつづけられた若者がついに堪忍袋の尾を切って敵の恐ろしい大男と死闘する場面は、ゴリアテに立ち向かうダビデのよう。
絶大な人気を誇ったアイドルでしたが、トーキーには向かなかった。 脇役として『コンドル』(Only Angels Have Wings 1939)と『スポイラース』(The Spoilers 1942)で姿を見ることができる。
従軍後は不動産投資で悠々自適。

 

リチャード・バートン(Richard Burton 1925-1984 英)

Richard Burton 1925-1984

今となってはエリザベス・テイラーと2回結婚した人になってしまうけど、彼の訃報を英タイムズは「Career madly thrown away」と伝えた。師のジョン・ギールグッド卿のコメントは「彼は正統派であり、魅力的で、途方もないスキルを持っていた。悲しいとしか言いようがない。彼は生まれながらの役者だった 。しかし、彼は乱暴にも演劇を捨てるという狂った方法を選んだ。彼は人にとても親切で寛大だった。」。
ローレンス・オリヴィエ男爵はリズとのスキャンダルの渦中にあった盟友を「君は名優になりたいのか。それとも世間で騒がれているとおりなのか? 」と気遣った。
労働者階級出身で(父は炭鉱夫)周囲の期待を一身に受け、裸一貫から成功の座に。野心家で頭脳明晰。加え、男らしく・パワフルかつエネルギッシュな二枚目の本来は!? シェイクスピア俳優。舞台に映画に働いた働いた。働きすぎに加え酒・たばこ・女性関係も全部フルスロットル。50歳を過ぎたあたりで体調を崩し、58歳の若さで脳溢血により死去。
映画の代表作は『聖衣』(The Robe 1953)、『史上最大の作戦』(The Longest Day 1962)、『クレオパトラ』(Cleopatra 1963)など。

 

リノ・ヴァンチュラ(Lino Ventura 1919-1987 伊)

Lino Ventura 1919-1987

8歳でフランスに移民してきた。レスリングの元ヨーロッパ・チャンピオン。
演技は未経験だったのにデビュー作が『現金に手を出すな』(Touchez pas au Grisbi 1954)でジャン・ギャバンと共演してコワモテの魅力を発揮。ジャン・ギャバンとサシで張り合える俳優なんて、そんじょそこらにいるもんじゃありませんよ! ギャバンからも「ぜひ俳優を続けるように」とのお言葉をいただき、さらに共演させていただく栄誉が続いた。
以後フィルム・ノワールに欠かせない性格俳優に。まさに男の中の男。ドスのきいた体躯に凄みのあるまなざし、四の五の言わず非情な世界の掟を通す。何があっても動じない肝っ玉。単なるギャングを演じても、この人が演じただけで一転、厚みが出る。
惚れたはれたはおくびにもださないのに! ほとんど口説きもしないのに! なぜか美女からは愛される…。『冒険者たち』(Les Aventuriers 1967)ではジョアンナ・シムカスはアラン・ドロンを袖にしてリノ・ヴァンチュラを選ぶ! 
『レ・ミゼラブル』(Les Misérables 1982)では堂々主役、ジャン・バルジャン役。
いかつい風貌の中に人間味を感じさせ30年以上も人気スターの座にあった。

 

ルイ・アームストロング(Louis Armstrong 1901-1971 米)

Louis Armstrong 1901-1971

愛称”サッチモ”。言わずと知れた20世紀を代表するジャズ・トランペット奏者でもあり、歌手でもある。代表曲は「この素晴らしき世界(What a Wonderful World)」。
映画出演も、狂言回し出演、特別出演枠(つまり出番としては少ない)で数多い。サッチモが出ている映画であれば会社が力を入れていて、キャスト・スタッフともに豪華な大作と見て間違いない。豪華なパフォーマンスがベストな状態で次代に引き継がれていくありがたさは、映画ならではのものです。
おすすめ順であげていくと『グレン・ミラー物語』(The Glenn Miller Story 1954)は万人に太鼓判バンバン押しちゃう名作、『上流社会』(High Society 1956)はグレース・ケリーの引退映画で、ビング・クロスビー、フランク・シナトラ出演で四つどもえ!? で超々豪華、『5つの銅貨』(The Five Pennies 1959)はダニー・ケイとのセッション「聖者の行進」はぜひぜひ見てほしい。『ハロー・ドーリー!』(Hello, Dolly! 1969)での全身キンキラキンのドレスのバーブラ・ストザイザントとの豪快なスキャットも見なきゃ損…。
ライブ演奏であれば『真夏の夜のジャズ』(A Jazz on a Summer's Day 1959)。

 

ルイ・ジューヴェ(Louis Jouvet 1887-1951 仏)

Louis Jouvet 1887-1951

この方が登場しただけで、何かがおきる。フランス映画界の名優中の名優中の…(以下リフレイン)名優。元々は舞台人。コンセンヴァトワールの教授職についたあと、映画に出始めた。なので出番は少ないけれど重要な脇役のポジション。舞台のキャリアを映画に昇華させる。ギリシャ以来のヨーロッパ演劇の伝統を思い知らされる。スクリーンに姿が現れただけで、周りの俳優の印象はたちまち・ことごとくのうちに色を失ってしまう。物語は個性を持ちはじめ異様な魅力の固まりになる。
『女だけの都』(La Kermesse héroïque 1935)の眼をギョロギョロさせた生臭坊主。ズルそうで気味悪く、にもかかわらずユーモアが底光りしている。
『旅路の果て』(La Fin Du Jours 1936)では若い娘を誘惑する狂気の老俳優。すさまじいとしか言いようのない演技。
『舞踏会の手帖』(Un carnet de bal 1937)では「いま曳かれていくのはジョーって奴さ。ピエールは君を残しておくよ」。ヴェルレーヌの「哀しき対話」をマリー・ベルとかけあいでそらんじた後、刑事に逮捕され、連行されていく。
私は、歴代俳優女優、眼力No.1はルイ・ジューヴェだと思います!!!

 

ルイ・ジュールダン(Louis Jourdan 1921-2015 仏)

Louis Jourdan 1921-2015

生まれも育ちもフランス。ジェラール・フィリップとだいたい同年代なんですよね。ただしフランスで人気が出始め、若手No.1の人気俳優になったあたりで父親と兄弟がゲシュタポに逮捕されてしまい、ナチスの宣伝映画に出ることを拒否し、レジスタンス運動に身を投じたため、美男子度クライマックスの年代、フランスでのキャリアはストップしてしまった。
戦後はハリウッドに渡り、ヒッチコック映画『パラダイン夫人の恋』(The Paradine Case 1947)でハリウッドデビュー。『ボヴァリー夫人』(Madame Bovary 1949)などの恋愛映画やフィルム・ノワール映画に出演を続け、オファーがあればフランス映画・イギリス映画・イタリア映画に出演。代表作は栄光のMGMミュージカル映画の最後の名花『恋の手ほどき』(Gigi 1958)とエリザベス・テイラーの不倫相手を演じた『予期せぬ出来事』(The V.I.P.s 1963)。
老け役、締めの大御所役としては『007 オクトパシー』(Octopussy 1983)、TVシリーズ『刑事コロンボ』(Columbo)「美食の報酬」で犯人役の料理評論家。
引退し、悠々自適後、ビバリーヒルズの自宅で老衰で死去。享年93歳。

 

ルドルフ・ヴァレンティノ(Rudolph Valentino 1895-1926 伊)

Rudolph Valentino 1895-1926

サイレント映画時代の伝説的存在の世界映画史上に名高い美男スター。
生涯そのものからしてハリウッド伝説と呼ぶにふさわしい。イタリアのお坊ちゃま育ちで、実家の財産を使い果たし、18歳でアメリカに逃げてきた。ニューヨークでダンスを覚えてジゴロになり、フロア・ショーで踊らせてもらえるようになったあと泥棒や恐喝の容疑で危うくお縄になりかけたあと、舞台でミュージカルの端役をもらい、それが縁で映画にも出演するようになる。
はじめはダンスの一場面やジゴロ型の端役だったが、大作『黙示録の四騎士』(The Four Horsemen of the Apocalypse 1921)で主役に抜擢され、アルゼンチンタンゴを踊る場面で女性ファンを悩殺、たちまちスターにのしあがる。2回結婚してどちらもすぐに破綻。ホモという噂が拡がる。
その後『椿姫』(Camille 1921)、『シーク』(The Sheik 1921)、『血と砂』(Blood and Sand 1922)、とセックスアピールを発散しつづけたものの、『熱砂の舞』(The Son of the Sheik 1926)完成のあと、胃潰瘍の術後の経過が悪く急死。享年31歳。葬儀には10万人のファンが集まった。

 

レイ・ボルジャー(Ray Bolger 1904-1987 米)

Ray Bolger 1904-1987

ハリウッド映画のエバーグリーン『オズの魔法使』(The Wizard of Oz 1939)のカカシ役。 カカシのボディには藁がつまっている。軽さをだすために、ふわん・ふわんと、風船みたいなステップを踏む。
もともとはブロードウェイのスターで、MGM初出演は、本人役として。『巨星ジーグフェルド』(The Great Ziegfeld 1936)。 4作めが『オズの魔法使』。はじめはカカシ役ではなく、ブリキ男にキャスティグされた。脚本を読み、カカシ役のバディ・エプセンと交代してもらった。とこが撮影中、エプセンはブリキアレルギーになってしまい、結局役を降りざるをえず、ジャック・ヘイリーに交代。
ニューヨーカー誌は『オズの魔法使』をただ一言「Heavenly!(最高!)」と評し、大ヒットした。この映画にかかわったすべての人たちにとっての代表作となった。もちろん、レイ・ボルジャーにとっても。
大きくなって大人の女性になった『オズの魔法使』のドロシー、ジュディ・ガーランドとは『ハーヴェイ・ガールズ 』(The Harvey Girls 1945)でも共演していて、名曲「アッチソン・トピカ・アンド・サンタフェ」ではレディなジュディをエスコートするレイ・ボルジャーを見ることができる。
舞台・映画・テレビにまんべんなく活躍し、膀胱がんのため83歳で死去。

 

 

 

 

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