先日、おじががんで72才で死亡。ちなみに発見されるまではほぼ病気には縁がなく、見つかった時に はステージ4で、3~4ヶ月の闘病であっという間にいなくなってしまった。
- 職場のお悔やみ掲示板で同僚の父母ならともかく本人・妻がでてくるとしみじみ見てしまう。
- 新聞の訃報欄ではまず享年をまずチェックする。
- 両親は存命(父80代前半・母70代後半)だが、ご機嫌伺いとか用事で行くと聞かされるのはお葬式の話と死ぬ話ばかり
- 定年退職の年齢が延長されそうな雲行きで、お給料がいただけるのはありがたいが、リタイア=解放= 自由の日々が先延ばしにされてしまいそうなことに大きな衝撃を受けてしまった
- 余命カウントダウンタイマー を自分とオットの誕生日で試し、「未亡人になるのは75才か」と確認する
と人生80年時代、折り返し点を過ぎた私。あと何年生きられるのであろう。正確に言えば、あと何年 、遊べるのであろう。
「リタイヤ」とか「定年後」のキーワードがとても気になってくるお年頃でもあ ります。
で、いかに死ぬべきか、なども、早すぎるでしょうか。頭の中を去来したりします。
もっとも死にたくない死に方
もっとも死にたくない死に方としては 「頭はハッキリ・体が動かず・自分が介護で家族に厄介かけているのが情けなくかつ恥ずかしいのだが 死ぬこともできない」ってパターンでしょうか。
わかりやすい例でいくと、先頃お亡くなりになられた西城秀樹さんとか田中角栄さんとか。
あんまり死にたくない死に方
認知症なんかも、人に迷惑かけるという点では困るのですが、逆のパターンで「頭が先に天国にいって しまい、体はわりかし本能で動かせたりする」状態であり、家族に厄介かけるのは同じでも、自分自身は痛くもかゆくもない。
そして、まだ死んだことない。未体験。死ぬのはやっぱり、コワイです。の恐怖心がマヒしてしまうことにおいては大変にありがたい死に方だと思います。
しかし、もし選べるものなのであれは、家族に限らず、よそ様のお手をわずらわせるのは本意ではなく、認知症ではあまり死にたくありません。
がんで死ぬと思えばまず間違いない
厚生労働省の発表によれば、日本人の死亡原因の1位はがん、2位は心疾患、3位が肺炎、4位が脳血 管疾患、5位が老衰です。 つまり、好むと好まざるにかかわらず、自分はがんで死ぬのだと見るのがカタい線ではないかと思いま す。
昔、病院に勤務していたことがあり、そこの看護師さんの偉い人は「がんはね、今は、『不治の病』じ ゃないの。『慢性疾患』なの。うまく付き合っていかなきゃけない病気なのよ。」とおっしゃってまし た。
がんと一口に言っても千差万別。部位名聞いただけで「こりゃだめだ」と内心お医者さんがサジを投げてしまうがんから、かぜに毛が生えたくらいの症状くらいしかなく、予後も非常に良好だったりする。ひとくくりにしてしまうことなど本来できない病気であるはずだ。
たくさんの種類のがんがあるゆえにがんにかかる人の絶対数が多く、全身どこでもがんになってしまえば統計上は「がんで死んだ」になっちゃうからがんが死亡原因1位なんじゃないのか。
ともあれ、がんで死ぬとして、「痛いのではないか」「苦しいのではないか」「日頃の生活に支障が出ないか」「がんの治療をしながら人間どれほどのことができるのか」が気がかりです。
人は必ず死ぬ運命であり、逃れられないのだし、仕方がないと半分諦めているのですが、どうせなら痛くない苦しくな いがんで死にたい~。
痛くて痛くて四六始終1日24時間七転八倒する苦しみは嫌だ~。避けたい~。
そして出来うれば意識が遠のき、「死ぬのコワイ」の恐怖をあまり味わわずに死ねますように。
死ぬ時期
それは、若い時は「おばあさんになってまで生きていたくない」とか思ったりしましたよ。自分的には 「子どもを産んだらおばさん」の意識で生きてきました。いつからおばあさんになるのだろう。孫の顔 を見る未来など、オタクで非モテの息子を見ていて、とても来るとは思えないのだけれど。
基本人様に負担かけてまで生きていたくない。私ってとっても律儀で、真面目だわ。
つまり介護認定基準に おける要支援状態、要介護状態の手前くらいでこの世からいなくなりたいのですが、神様が私の願いをお聞きくださるのなら、
「おまえ、自分の言いたいことばっかり一方的にしゃべりやがって」と呆れ果てられてしまいそうだわ。でも、希望だけなら!
とりあえず全部並べておき、実際は神様から下された運命に黙々と、粛々と、従いますので。
死ぬ場所
自分の家で、自分の家の畳コーナー(畳の部屋は玄関脇で物置と化している、リビングの一部を一段高 くして畳を置いている)で死ねれば理想なのでしょうが、その場合は孤独死なのでしょう。
家族の総帥のおばあちゃんが亡くなる時は、広大な日本家屋の畳の部屋に親類縁者がずらーっと揃い…のパターン は手持ちの家と家族構成ではあり得ない。
オットは既に亡く(のはず)、子どもは出て行って仕事で忙しく。一人で暮らし、う…とこときれて死後何日目かに発見されるパターンですかね。
悲惨と言えば悲惨と取れないこともないけれど、体じゅうのあちこちに針を刺され管を付けられて病院で「ピッピッピッピッ…」と命を監視され、寿命を延ばしていただき、最後を迎えるのと、どっちがいいのだろう。一長一短です。
死ぬ年齢
40代までは、死ぬなんて言語道断です。50代ではまだまだまだまだ早い。60代でも今時、まだまだ早いと感じます。
そして50~60代になると、あんまり変わらない人と、がっくり老け込む人、の差が出てくる。この差が 1日1歩、365日じわじわと10年・20年と続く。己の運命と日頃の心がけや環境で、個人差はますます拡がっていく。
テレビの特番とかである「長寿村の100才おばあちゃん」みたいにピンシャンしていられるのなら、 長生きしても全然かまわないのですが。
しかしいくら元気でも長生きしすぎると、お金に不自由してし まうかもしれない。(年金は減るし貯金が底をつき、息子に見捨てられたら貧乏にあえがなければいけ ない)…パートとかで雇ってくれる所はあるだろうか。80・90過ぎてお店を開かないと食べていけなくなったらどうしよう。
若いウチにパタっと死んでしまうのは周りにとってはインパクトが大きい。しかし惜しんでもらえる度合いは、長寿の場合のそれよりは大きいであろう。
ここは、「元気でいられる年齢」で決まりですね。
いつ死んでもいいんだが
いちおう結婚して、子孫は残しました。母はいないよりはいた方がいいに決まっているが、自分ひとりでも生きていけるでしょう。
住宅ローンも繰上返済して完済しちゃったし、各種社会保険料は長年、キッチリ納めさせていただいてます。払うものは払い、早めに死ぬ。コレ、決して表沙汰に出せないもの の、国が最も求める日本人のあらまほしい姿であるはず。
オットからも子どもからもおよそやさしい言葉や態度など頂戴できず、彼らは私に長生きしてほしいとの意向は希薄と見ました。
特に思い残すこともない…。
しかし今日明日では困るのです。心の準備ができていない。
そして今年じゅうは絶対に死なない!ロンドンいくんだもの!ファーストクラスに乗るんだもの!
パリとニューヨークにはいちおう行ったので、あとはスペインとイタリアとシルクロードに行きたい。 (生命保険の満期保険金を退職まで据え置いてユーラシア大陸横断のツアーに混ざりたい。1人で出かける度胸とスキルはないので。)
つまりですね。今まで一生懸命働いてきたんだもの。
蓄えた小金を死ぬまでに遊びにキッチリ使い果たしてからじゃないと、大げさに言えば悔しくて死んでも死にきれないわ。
稼いだお金は全部パッと使い、なくなったら生活保護を受ける。そんな豪快な生き方が、今までできてこなかった。
願いがかなうはずもなし
死ぬ前の日まで家族といつも通りの時間を過ごし、朝、おばあちゃん起きてこない。起こしに行ったら 天国に行ってしまった後だった。誰だって誰にも迷惑かけずに、苦しまずに死にたい。
望んで叶うもの ならば強く強く激しく激しくお願いしたいところですが、ままならないのが現実であるならば、お願いする時間が惜しい。
そして酒と煙草と女を絶ったお坊さんががんで死んだりする。頑張っても報われるとは限らない。まことこの世は無常です。
とりあえずやりたいことをやろう。日頃からアンテナだけは張っておき、コトが起こったらその時に考えよう。人に聞こう。あるのかないのかわからないこと心配して、余計なエネルギーを使いたくない。
それでも、「あれ、こんなはずじゃ」は少しずつ増えていく。(目がかすむ、物忘れ激しい、食べ過ぎ ると胃もたれする、季節の変わり目は神経痛痛い、代謝が落ちる)じわじわじわじわ、ヒタヒタと迫ってくるのです。対抗せねば楽しい毎日に差支える。
全くもう、やらなきゃならないこと、気にかけとかないといけないことが次から次だ!!!