昭和の大宰相、白足袋、バカヤロー解散、麻生太郎大臣は娘の子、すなわち孫。言わずと知れた吉田茂(1878-1967)。総理大臣在任中から晩年までを過ごした昭和の香りと風格を今に伝える神奈川県大磯の邸宅。平成29年4月から一般公開されています。
旧吉田茂邸 アクセス・入場料・駐車場
アクセス
- 電車・バス
JR東海道線大磯駅から神奈川中央交通バス 湘南大磯住宅行き・二宮駅行き「城山公園前」下車徒歩約3分 - 車
国道1号西湘バイパス「大磯西IC」より3分・小田原厚木道路「大磯ICIC」より7分
国道1号線沿い「城山公園交差点」よりすぐ
開館時間・休館日・入場料
開館時間
9:00~16:30(入館は16:00まで)
休館日
毎週月曜日
(祝日または休日にあたる場合は開館し、翌日休館)
毎月1日・年末年始(12/29~1/4)
入館料
一般500円、中・高校生(学生証提示)200円
(20名以上一般450円、中・高校生150円)
駐車場
隣接駐車場あり。(26台)
平日は無料。
土日祝日 1時間300円 以降30分毎150円 上限なし
旧吉田茂邸は神奈川県立大磯城山公園の一部。場所は離れてしまうが、第一・第二駐車場あり。(あわせて55台)
9時と同時に開門。
開館したてなので駐車場はガラガラ。
入口へと。
内門(兜門)
軒先に曲線上の切り欠きがあり、兜の形に似ていることから「兜門」。
また、サンフランシスコ講和条約締結を記念して建てられたことから、別名「講和条約門」。
屋根には「檜皮葺き」というヒノキの立ち木から剥いだ表皮を成型した檜皮を用い、少しずつずらしながら重ね、竹釘で固定していく伝統的技法が用いられている。
平成23年度に屋根の葺き替えなどの修復工事を行った際には棟札が発見され、昭和29年に建てられたこと、昭和57年に修復が行われていたことが判明。
先にお庭見せていただこう。奥へ進みます。
案内板があったので、吉田茂銅像を目指す。
途中、なぜか「愛犬ポチ之墓」の墓標が。裏には「昭和9年」とありました。
吉田茂銅像
地元有志の方々による建立委員会によって、昭和58年に建立。お顔は講和条約締結の地、サンフランシスコを向いている。
「昭和21年5月に総理大臣となり、25年から29年まで、連続して五次にわたって政権を担当した。
戦後日本の憲法・政治・外交・経済・社会体制すべて、吉田内閣の手によってととのえられた。日本を敗戦占領下かたとき放し、独立をもたらしたサンフランシスコ対日平和条約は、吉田首相が実らせたものであり、日本歴史の金字塔である。
その間、吉田茂は総裁として日本の保守党の本流を形造った。総裁・首相とんった池田勇人・佐藤栄作たち、いずれも吉田学校の門下生である。多くの人材輩出も吉田の残した功績の一つであった。
俗にワンマンと呼ばれて、その意志と我の強さをつらぬき通す一方、ウィットとユーモアに富んで、座談の名手でもあった。」(戸川猪佐武撰)
松の間から海が見える。吉田茂がこの海を眺めていたころ、高速道路なんかなかったんだろうな…。
お屋敷に戻ります。
アスファルトの続く通用門は、どなたがお使いになるのかしら。
ほどほどに高台にあるので、お庭を見下ろすことができます。
日本庭園
池を中心にその周囲を散策して自然の移り変わりを愛でるもので、「池泉回遊(ちせんかいゆう)式」。
設計者である造園家中島健氏は、数寄屋建築の旧吉田茂邸との調和や花を愛した吉田茂の嗜好をふまえ、様々な草花やツツジ類、ウメなどを多く取り入れ、色彩豊かな庭造りを行い、昭和36年頃に庭園が完成。
年月を経て、肥大化した樹木の切戻しを主とする剪定や、衰えてしまった松林を庭園の背景に戻すための育成を行い、吉田茂が晩年散策していた当時の雰囲気を感じ取ることができるよう、昭和40年代の景観を復元し、その姿を維持するための管理が行われている。
さて、では中を見せていただきましょう。お庭だけなら、無料です。
ゆるやかな坂を上っていきます。
旧吉田茂邸は、吉田茂の養父、吉田健三氏が、明治17年に別荘として建築したもので、その後、増改築を重ね、吉田茂が昭和19年頃から、その生涯を閉じる昭和42年、89歳までを過ごした邸宅。
豪壮で近代的な数寄屋檜作りの旧吉田茂邸は、建築家吉田五十八氏の設計のもと、京都の宮大工により建築されたもの。
政界引退後も多くの政治家が「大磯詣で」を行い、また、国内外の要人が招かれるなど近代政治の舞台ともなり、
平成21年3月、旧吉田茂邸は惜しくも消失。大磯町が再建し、平成29年4月より一般公開がスタート。
旧吉田茂邸(内部)
吉田五十八の設計による部分が多くを占めていて、アール・デコの要素を取り入れた直線的な建物の外観やモルタル塗り廻しの大壁といった近代的な素材を利用した和風建築、また内部も空間を広く見せるために部屋の柱をなるべく見せない造りとなっているなど、近代数寄屋建築と呼ばれる吉田五十八の手法が随所にみられる。
玄関
外から。
靴を脱いで上がります。
玄関入口には壺があり、吉田茂が愛用した杖や帽子が置かれていた。(今はないけど)
玄関脇には下足室がある。
玄関ホール
玄関ホールには大型のガラスをはめ込んだ中庭(光庭)があり、部屋の中に光を取り入れる構造となっている。
大きな吉田茂首相のパネルが展示してあります。
玄関ホールからみた中庭。
中庭には、橋の欄干に取り付けられていた擬宝珠や、イタリア大使から寄贈されたオオシャコ貝が飾られていた。(オオシャコ貝も今はない)
楓の間
昭和22年(1947)頃、当時内閣総理大臣であった吉田茂が執務室として建てた棟で、1階の部屋は「楓の間」と呼ばれていた。部屋には吉田茂と客人が談話するためのソファーセットが置かれており、応接間も兼ねている。
昭和54年(1979)にはアメリカのカーター大統領がこの部屋で日米首脳会談を行った。
ご愛用のステッキ。
持ち手はトカゲ。外務省外交史料館所蔵資料の複製。
ゆかりの人々の写真。
昭和天皇、香淳皇后、竹内滝(実母)、竹内綱(実父)、吉田健三(養父)、牧野伸顕・峰子夫妻(義親)
アレキサンドラ英王女夫妻、ロバート・クレイギー(英)、吉田茂・雪子夫妻、蒋介石、蒋介石と吉田茂
コンラート・アデナウアー(独)、ウィンストン・チャーチル(英)、ジョン・フォスター・ダレス(米)、ダグラス・マッカーサー(米)。
階段を上っていくと
書斎
純和風。吉田茂の私的なお部屋。
掘りごたつがある四畳半の空間は、吉田茂の書斎として使われていた。
掘りごたつの向かいにあるガラス棚の中の本は、全て実際の吉田茂の蔵書。大磯町に寄付されていたため、焼失を免れた。
吉田邸から首相官邸を直接つなぐダイヤルのない黒電話。
檜造りの風呂なんかもあって、大磯の船大工が関わったとされている。
書斎の窓からみたお庭。
富士山がぽっかり、見えました!
(お部屋のガイドさんは「あと1時間くらいで見えなくなっちゃいますね」と教えてくれた)
緊急用の非常脱出口まであるのです。扉が閉まっていれば存在はわからない。
忍者屋敷みたいだなあ。総理・総裁なら、やっぱり必要なのかしら。
欄間は、名づけて「雪」。
ふすまの引手は「月」。
地袋の引手も「月」。
床の間に花が入れば「雪月花」です。とガイドさんが教えてくださった。
階段を降り
吉田茂は、第二次世界大戦後、何もかも失った日本の政治・経済を立ち直らせた立役者のひとり。
連合国軍司令部(GHQ)のマッカーサー元帥からの要求を聞きながらも、日本の独立と復興への道しるべを作り上げた総理大臣。
そんな吉田茂の「威厳のシンボル」が「葉巻と白足袋」。
マッカーサー元帥から葉巻をすすめられた時に「私はハバナ産(キューバ)しか吸いません」と、他国産であったその葉巻を断ったとの逸話も残っている。
常に白足袋で正装し「威厳と風格」を保ち、葉巻も「本物」にこだわる意地を見せることで、吉田茂はマッカーサー元帥に対しても決して卑屈にならず、占領下にあっても人間として台頭・矜持を失わなかった。
「戦争で敗れて外交で勝つ」と豪語していた吉田茂の「思い」が「葉巻と白足袋」には込められている。
さっき外から見たお庭。
礎石広場
平成21年(2009)に消失した再建前の吉田茂の邸宅には、再建された棟のほか、大正14年(1925)に建てられた旧館棟や昭和10年代に増築されたベランダ棟があった。建物の復元はせず、かわりに家屋の土台部分にあった礎石を置き、当時の面影を残している。
展示室・休憩室
吉田茂ゆかりの品々が展示されており、中央のソファーにすわって休憩ができる。
壁にかかっているのは
安田靫彦「富士秋霽」(1972)
吉田茂と日本画家、安田靫彦は同じ大磯に永住しており、靫彦は吉田邸を時折訪ねることがあった。
吉田茂は以前より五賢堂(旧伊藤博文邸内に設けられた伊藤博文・岩倉具視・大久保利通・三条実美・木戸孝允をまつった祠。1960年に吉田茂邸に移築。移転後吉田茂により西園寺公望、佐藤栄作により吉田茂が合祀、七賢堂となった。)を入れた富士の絵が欲しい。と語っており、靫彦は制作にあたり大磯ロングビーチ(現大磯プリンスホテル)で写生、翌日吉田茂邸に出向くも面会ができず、帰宅後訃報を知って驚愕。5年後「富士秋霽」が完成。2017年、靫彦親族よりレプリカが贈呈されたもの。(真筆はメナード美術館所蔵)
通路には吉田茂の年譜のパネル展示があり、
曲がるとトイレがあります。
なにしろ落成したばかり。
ピッカピカ。
廊下を抜け
食堂(ローズルーム)
食堂として使用されていた部屋で、別名ローズルーム。アール・デコ調の室内が特徴。
吉田茂は毎年外務省に新しく赴任した外交官補たちを大磯の家に招待していた。壁に使われたレザーは 当時(昭和30年代)1枚1万円の羊のなめし皮231枚だったと言われています。(再建にあたっては合皮)
ガラス棚の一升瓶は「司牡丹」。司牡丹は実父・竹内綱ゆかりの地でる高知県の地酒。
司牡丹酒造を訪ねた時の当時の取締役会長との2ショットの写真と一緒に飾ってあります。
天皇誕生日に参内(等身大)
身長155cm(欧米歴訪時使用パスポートの記載による)
昭和41年(1966)4月29日
吉田専造氏撮影。
和食器
吉田茂特注の和食器。食器には富士山・松林といった大磯の風景ろ吉田茂の自邸がモチーフとして描かれている。九州佐賀は有田の華山萬右衛門窯作。
また富士山をながめることができました。
温室(蘭の間)
火事で全焼してしまった吉田茂邸ですが、温室は奇跡的に残った。建築当時の姿を唯一留める存在。「蘭の間」と呼ばれ、パパイヤ、マンゴ-、ハイビスカス等、南国の植物が咲き乱れていた温室。入室はできない。外から眺めるだけ。
階段を上り
金の間
賓客を迎えるための応接間。「金の間」」という名称は、部屋の装飾に金を用いたことからきています。金の間からは、箱根山や富士山といった山々と太平洋を一望することができる。アイゼンハワー訪問に際し、大統領を大磯に招くために大統領の寝室(銀の間)と続きの洋間(金の間)を準備したが、アイク訪問が流れ、大統領は来なかった。
カーター大統領が訪日したときに、大平-カーター会談を吉田邸で行った。その時には金の間で会談を行うことが予定されていたが、あまりに見晴らしが良く、ライフルで狙撃されるおそれがあるということで、土壇場で一階の洋間で会談が行われることになった。吉田茂はこの部屋から見える富士山を大層気に入っており、毎日のように眺めていたとのこと。
富士山、また見えた。
太平洋。
伊藤博文の書。
日露戦争時、満州軍総司令官であった大山巌に対し、伊藤博文が激励のため送った自作の漢詩。外務省外交史料館所蔵で、複製。*1
銀の間
吉田茂が寝室として寝起きをしていた部屋。金の間と対になる形で、銀の間には装飾品に銀を使用しており、名称の由来になっている。ただし、銀は変色してしまうので、実際に使われているのは錫。
吉田茂はこの部屋を書斎としても利用しており、部屋のガラス棚には蔵書が並べられ、ベッド横の窓際には執務用の机が置かれていた。
この部屋のベッドで吉田茂は世を去った。
洗面所と
お風呂。
玄関に戻って
衝立
吉田茂と岳父・牧野伸顕宛の書簡を表装した衝立。一番上右手から西園寺公望・山本権兵衛・原敬・鈴木貫太郎・若槻礼次郎・池田成彬・牧野伸顕・竹内綱・犬養毅。外務省外交史料館所蔵。複製。
感想
- 復元されたばかりなのでキレイですね~。各部屋に案内してくださる方がいて、見学しているとさりげなく見どころを教えてくださいます。
- 説明には吉田茂の生きた時代のビッグネームの名前が次から次へと出てきて圧倒されてしまう。
- 吉田五十八の近代数寄屋建築。伝説的な建築家なんですよ。代表作は大政治家や大作家や大画伯の本邸、別荘。世界三大アルカイックスマイル、木造菩薩半跏像を本尊とする奈良中宮寺、など。日本建築って、構造上、強度を持たせなきゃいけないから柱や天井回りにこちゃこちゃっと線や装飾が入る。東京芸大を卒業後ドイツに留学し、モダニズムの傾倒を受けた吉田五十八の設計した建物はは強度を兼ね備えた和風の新たな室内空間を作り上げ、「近代風数寄屋建築」様式を完成させた。
初期に設計した個人のお宅などは当然ながらもう残っていない。
旧吉田茂邸は、吉田五十八設計の住宅の最新作でもあるはずで、現代の建築技術と現代の室内美学とのコラボ、到達点でもある。 - ゴールデンウィークの谷間の平日午前中の訪問で、見学客は各お部屋にちらほらいたりいなかったり程度の、写真を撮りたい者にとってはまたとない絶好のコンディション。大磯の土地柄もあるのでしょう。大人な和やかな雰囲気でした。
バラ園
最後は満開のバラ。吉田茂は大輪のバラがお好きだったのだそう。入口脇のバラ園はちょうど見ごろ。バラ園だけなら、無料です。
帰り際の駐車場。
*1: 大いなる地球上の東海のすみで、3,000年余り続く帝の門戸が開かれた。神霊がいる地はいまだわずかな塵にさえ侵されたことがなく(外国からの侵略を受けたことがなく)、みずから東海の小蓬莱と称している。古くから外国との交易を行うといった議論は聞いたことがないが、歴代君主の計略は偉大で、見識は広かった。(諸外国の)長所をとり入れ、短所を補い、それらは古くからの法律・制度に即している。天下は帝の仁政に服従しており、それは子が親を慕うようである。武門(徳川幕府)の横暴なふるまいはあえて説明する必要もないが、天皇の偉大な計略の何と立派なことであるか。
ヨーロッパは最近知の技術をみがき、電信線や汽車でもって万里(の距離)を縮めている。(自らを)文明であると誇大に主張し、利益や功績をほしいままにしている。船や鉄道はいたるところで怪しい動きを盛んに行っている。誰が物事を見抜く力を発揮し、全世界を観ているだろうか。どうして玉と錦織物(貿易などの平和的手段)が武器(武力的手段)でないと認識できるだろうか。
世界の大勢はすでにこのような状況であり、今上(明治天皇)はすぐれた英知で大きな計略を定められた。内政を治めることに尽力していたため、やすらかな日はなく、30年余りもの間休むこともなかった。民衆を教育し、才能ある人物を育て、祖先の開いた事業を継ぎ、国の栄光はようやく、今にも輝こうとしているところだった。
(そうしたなか)にわかに思いがけず、ロシアとの戦端が開かれ、すでにロシアの勢力は朝鮮・満州に及んでいる。北風は薄暗く、雲が四方を覆っている。始終何もせずに手をこまねいていていれば、外国の侵略を受ける危険がある。宣戦の大詔が天皇よりくだり、30万の陸海軍が海に浮かぶ。天皇の軍隊が海を渡ってすでに5月、前鋒が向かうところ、旗がひるがえっている。進撃して全勝を期す望みはもう間もなく達せられることだろう。元帥に選ばれたのは大山巌侯爵。大山侯は天皇から征討の命を受け、遠征に専念するために朝廷をあとにした。常日頃より研鑽をつみ、中国古代・漢の軍師であった張子房のごとく謀に長けている。胸の内では十分な勝算の見通しがある一方で、この大空が拡がるときに、悪い予感もなんとなしにあるだろう。ぜひとも敵を破って帰還し、百戦の功績を遂げて天皇の憂慮を取り除いてくれたまえ。東洋の平和はこれより始まる。(貴方の)立派な名声は歴史に長く輝くだろう。
明治37年6月、古風一首を作り、大山満州軍総司令官に送り、その旅立ちを盛大にする。
今また求めに応じ、ふたたびここに記す。
侯爵 伊藤博文
(訓読は吉田茂記念事業財団編『人間吉田茂』中央公論社、1991、栗原健「大磯・吉田茂元総理邸訪問記」付記一による。注釈も上記の書を参照。)