ひとみにカルチャーショックを。

旅行・グルメ・美容をメインに綴る女性向けの趣味ブログ

ジャニー喜多川社長の性的虐待は納得したり納得できなかったり。

動くジャニー喜多川さんをお見かけしたことなどありませんが、普通に新御三家、たのきんトリオ、シブがき隊、少年隊、光GENJI、SMAP、嵐とともに年を重ねてまいりました。もう一つ上の世代だとフォーリーブスとか。
もう若すぎてメンバーの顔が見分けられぬ今となっては、10代の男の子がにこにこ笑いながら、一生懸命歌ったり踊ったりする姿を見て「ピチピチしててカワイイ~」と微笑ましく見つめるお年頃になりました。
長い間、日本の少女たちに夢と希望をありがとうございました。
謹んで哀悼の意を表しますと共にご冥福をお祈り申し上げます。

Johnny Kitagawa

 

 

ジャニー喜多川さんはキナくさいがキャリアをまっとうした

ジャニーさんが亡くなられ、次から次に出てくる、あどけない美少年たちへの(性的)虐待の告発の時系列のリストなどが改めて日の目を見て
「これだけキナくさい人なのに、有名プロダクションの社長だというだけで、忖度されて大事にされ、生涯を全うされるんだな~。」
と再確認。
一人一人の告発は、その時その時、話題になったはずですが埋もれていった。

 

 

芸と色は昔から切っても切れない

わかりやすい例をあげれば、昔の芸者さんと旦那さん

芸者さんは貧しい生まれの女の子で、口減らしに芸者さんにされた。
厳しく躾られ、下働きにはじまって、教養を高め、芸事を身に着け、お客さんに気持ち良く遊んでいただくのがお仕事。
女一人の心細い身の上、衣装にもお付きの者にも出費はかさむ。後ろ盾とお金があれば、芸事にだって打ち込める。
その土地の富裕層の方が、美しくプライドの高い女性を包容力で包み、また旦那の立場を表明することは男の甲斐性として自分自身の箔にもなる。
そして、二人とも血の通った人間です。情は移るし、情は入るでしょう。

 

男性・少年愛・芸とくれば

室町時代の将軍、足利義満と能楽の大家世阿弥の関係が名高い。
世阿弥の家はお父さんの観阿弥が大道芸を猿楽として洗練させ、大願かなって将軍さまのお目に留まる。世にも稀な美少年は将軍の思いものとなる。卑しい生まれの少年をたった一人で権謀術数とぐろを巻く宮中に送り込む。

父の「猿楽を世に出す万に一つの機会。頼む! 」の必死の願いと、いやしみ、さげすみ、ねたみのただ中の、絶対にあとに引けない幼い少年の不屈の思いと筆舌に尽くせぬ苦労は、察してあまりある。

 

少年愛と歴史上の(大)人物

芸と色とはちょっと色合い違っちゃいますが。
ソクラテスもプラトンもレオナルド・ダ・ヴィンチも
空海も織田信長も前田利家も徳川家光も徳川綱吉も少年愛の記録が残っている。

 

女性の極端に少ない環境(お寺・戦場・江戸時代のお江戸など)に多く
社会的慣習とされていた時代地域もあり
また個人の嗜好として少年を選ぶ人たちも確かに存在し、歴史は長いのです。

 

そして人間だけではなく、人間以外でも同姓を性行動の相手として選ぶケースはかなりの数、報告されている。

 

「そして子どもたちが生まれ、大自然の営みは続いていくのです」の流れの、テレビの動物番組では取り上げられないっていうだけ。

 

異性愛は大多数だが同性愛も古今東西一定数は確かに存在

性行動の大多数は異性間だが、同性間も古今東西、生物の一定数のなかに確かに存在する。

そして「愛し合う男女が子どもを作る」価値観だって、人類の発明!? であって、後からとってつけた理屈にすぎないのかもしれない。

その昔、出産は一大事だった。今だって、医療的処置がなければ、お産で女性の1割は確実に命を落とすのです。昔は食べ物も衛生状態も貧弱だったし、身体は貧弱、体力は気力でカバーする。
子どもを産むまでに、または生まれてから力尽きてしまう、なんて珍しくもなんともなかった。
そして生まれた子どもだって、10人生まれたって、大人になるまで生き延びるのがいかに難しいか。
一夫多妻制はまかりならん、との倫理観は、ある意味とても正しい。
でも、その昔、明日をも知れぬ生を受け、必死で生きてきた人々の思いを、今と同じ目では見れない。
妙齢の女性の「おしとねすべり」なんかも、若い女がいいに決まってる、ではなく、女性の命を守るための一面は確かにあった。

 

もう一度芸と色に戻します。

ジャニー喜多川さんの何が問題なのか

年端も行かない少年を自らの圧倒的優位な立場を利用して(性的)虐待を加えている

少年が好きなら好きでそれでいいのですが、実行に移すとなると、また別のはずです。
ジャニーさんはアメリカ生まれ。
美空ひばりのアメリカ公演で二人の交流が始まり、芸能界入りのきっかけとなった。
米軍通訳の助手として日本にやってきて、バンドマンを経て少年たちを育て上げる芸能事務所を設立した。

美空ひばり、と聞くと、裏社会とのつながりは生前から根強く言われていた。
バンドマンも芸能人も、固い職業ではない。
一発当てれば大きいけど、当てられなければ野垂れ死にの運命が待っているのです。

芸能人の源流は、まごうことなき河原者、人気商売、水商売。
芸を売るのと身を売るのはワンセットであったはず。

自身の命のきらめきと感受性を修行で高めて売る人は
往々にして性的魅力にあふれている。

取り巻く興行主も演目をお膳立てするスタッフも
おとなしく田畑を耕す、家業に精出す、から外れたアウトローの集まりであり、
修羅場を踏んできた人たちだから世慣れており、エネルギーに満ちている。

ご贔屓衆も加わっての大騒ぎ。今が良ければ、今が楽しければ、それでいい。

創成期のハリウッドなんかも、
移民が西へ西へ流れて行った人たちの集まりであり、
セクハラ・パワハラなんか日常茶飯事、当たり前。どうせお互い同類なんだから。
酒池肉林、入り乱れての大騒ぎ…。

歌舞伎だって、お能だって狂言だって、市塵の中から湧き上がって今がある。

もともと芸能界って、そういう世界。
日本共産党の方々が、今、どんなに国民に寄り添う発言をしようとも、血で血を洗う創成期の歴史が存在する限り、共鳴できない、とのご意見のように、
そもそも謹厳実直な人なら、芸能界には見向きもしないでしょう。

仕事で結果を出せば良い。自分の思い通りにできるのは今の仕事の役得のうち。配下の人間は、たとえ子どもであろうとも、意のままに侍らせて当然…。奉仕の有無はすなわちタレント生命に直結するのは当たり前…。のものの考え方、ものさしは。
#Me Too の今の流れからは浮きまくりすぎ。その意味、生きた時代を間違えてしまったと言えないこともない。

 

そして一番問題だと思うのは

後日告発される・かつて(多分)関係のあったタレントさんのコメントが奥歯に物が挟まった物言いで食い足りない

トコだと私は思うのですが、いかがでしょう。
少年愛の対象であったはずのレオナルド・ダ・ヴィンチだって、世阿弥だって、前田利家だって。

かつて御寵愛くださった旦那というべきか恋人というべきかの不利になるような言動はしていないではないですか。

 

同性愛の有名人としては
映画のルキノ・ヴィスコンティ監督なんかもそうです。
出自も素行もなんのその。見た目だけで美青年を選び、次々取り換えて行ったとの、ある意味豪傑です。

が「ボクを愛したが結果捨てられた」の類の情けない告白なんか、聞かないものなあ。

何本も主演・出演作のあるヘルムート・バーガーの「ヴィスコンティの死後の私は未亡人だ。」との嘆きこそあるものの。

でもこの発言、亡き大監督へのリスペクトはあると思う。

 

そもそも本を出す、談話を出す時点で怪しい。危ない。
もちろん、公の場では否定し続けたのだから(ただし最高裁は性的虐待の事実はあったと認めた)難しいところなんでしょうが

 

「彼は立派なパフォーマーです」

「あの人と会えたから今の僕があるんです。感謝していますし、今も尊敬しています」

 

的なやりとりが見当たらないんですね。

 

男女の仲であろうとも、男男の仲であろうとも、根底に流れるものは絶対に同じはずだ。

 

多くの美少年を愛してきたのでしょう。の半面、なにがしか、酷薄なところは、あったのだろうなあ。

 

仕事の面では、たぐいまれなる才能を存分に発揮し、大きな大きな成功を納めた生涯ではありましたが。