ジーン・ケリー(Gene Kelly 1912-1996)。ハリウッドのミュージカル映画の黄金時代、フレッド・アステア(Fred Astaire 1899-1987)と並び立った偉大なダンサー。
アステアがエレガンスならジーン・ケリーは躍動感。フレッド・アステアより若々しく、親しみやすく勢いのあるキャラクター。身近に感じられるイキの良いお兄ちゃん役。サービス精神旺盛のゼスチャーたっぷりの歌と踊り。
おすすめ映画と歌とダンスを順番に。エピソードもご一緒に。
(原題を英語でのせてます。お役だてください。)
雨に唄えば Singin' in the Rain 1952
ミュージカル映画を超えた、ハリウッド映画を超えた映画のスタンダードとして。古典として。
とにかく映画として面白い。「ミュージカル映画ぁ~?道を歩いていると突然登場人物が唐突に歌い出すアレ?」なんて人も、いったん映画が始まれば一気にみちゃうこと、保証します。
舞台設定がいいんですよ。1920年代のハリウッド。
映画がサイレントからトーキーに移り変わる時期。映画が音を持つ!撮影所は大騒ぎ。
録音はうまくいかない。(衣ずれの音ばっかり入ったりする)俳優はセリフをしゃべらなければならない。キンキン声の悪声スターは戦々恐々。
若く・新しい産業、映画作りの現場は上へ下への大騒ぎ!の笑わせるエピソードの連続です。
老若男女、民族国籍を超えて、誰もに愛され、映画が終わるとミュージカルとジーン・ケリーや他のエンターテイナーたちがきっと。好きになるはずです。
映画中のナンバーをおすすめ順に。
雨に唄えば Singin' in the Rain
究極のスタンダードとしてトップに持ってこなければはじまらない。
雨の夜、恋人を家まで送っての帰り道。恋の歓喜を歌い上げ、こうもり傘はあるけどたたんでしまい、ステッキがわり。パートナーがわりにジーン・ケリーがソロで歌い踊る。ずぶ濡れになって、街灯に飛びつき、水たまりに突っ込んでステップを踏み、警官にうさんくさい目で見られて我に返り、ようやく退散する…。
雨の中、うっとり、といかにも楽しそうに、踊るんですよね~。
そして「雨に唄えば」では、1920~30年代の映画で使われた歌曲を使い、ノスタルジック感・レトロ感を盛り上げているのも特徴の一つ。
正直、オリジナルの映画では画面・音声・アレンジが貧弱なものも多々あり、この映画、殿堂入りしちゃったし、歌聞いて、「雨に唄えば」で歌ってた曲だ~。とオリジナルなどよりはるかにメジャーな存在になってしまった曲が大多数。
当然、「雨に唄えば」は筆頭です。
ブロードウェイ・メロディ・バレエ Broadway Melody Ballet
ダンスが好きで田舎からブロードウェイに出てきたお兄ちゃんが、恋をして、終わって、でも、自分にはダンスがあるじゃないか!と気づき、ブロードウェイの華やかなネオンサインと大群舞のダンス…。まで。
見どころは、官能の、いや感動のあまり卒倒してしまいそうなシド・チャリシー(Cyd Charisse 1922-2008)とのダンス!!!
田舎のイモ兄ちゃんが、緑のチャールストン・ドレスを着た、断髪のタバコをふかすギャングの情婦に、軽くあしらわれ、クソ、このヤロー!と挑み、
男気に艶然と微笑む情婦と続いて2人が踊るシーンは、ミュージカル映画屈指の名シーン! エクスタシー! の頂点です!! あ、ラストまで見てください、良いですから。
と取ってつけたかのように付け足しておきます。
映画の中の劇中劇。12分あまり。ジーン・ケリーの役どころは映画スター。
映画が音を持った。自分の作りたい映画のイメージがスクリーンに展開される。
グット・モーニング Good Morning
相手役のデビー・レイノルズ(Debbie Reynolds 1932-2016)、と男性のダンスでペアを組むドナルド・オコーナー(Donaid O'Connor 1925-2003)とのトリオでの踊り。3人で語り明かして日めくりをベリッと破って
「一晩中語りあかした。『おやすみなさい』なんかいいたくない。牛乳配達はもう途中。虹も出たよ。おはよう!おはよう!」デビー・レイノルズは、「雨に唄えば」出演当時、19才。
小柄で可愛い女の子のキャラで、この歌の時の衣装はIラインの青と白の膝丈・ノースリーブのワンピースなのでラインもストレート。ドナルド・オコーナーもボードビルのコメディアン出身なので動きは軽快!ハメを外しての真夜中の大騒ぎが楽しい!
モーゼス Moses Supposes
映画がトーキーになるなら発音を学ばなければいけない。ジーン・ケリーとドナルド・オコーナーはペアで偉い先生のもとで発声レッスンに励む。
「Moses supposes toesee are roses,but Moses supposes erroneously」
”モーゼス サポーゼス トーゼス アー ローゼス、バット モーゼス サポーゼス エロニアスリィ”
「モーゼはつま先が薔薇だと思う」などと訳のわからないフレーズを繰り返し練習させられ、やってられるか!と爆発、男2人で弾けてしまうのがこのナンバー。
ジーン・ケリーのボディは、胴が長く、かつ太い。脚はやや短く、太ももが太い(身長は170㎝)。やや腰を落とし、主に下半身を使って踊り、体が太いから踊りも重量感がある。太いと言っても筋肉ですから!?パワフル! に茶目っ気たっぷりの、ややオーバーアクションにも見える身のこなしや感情表現(サイレント映画時代の名残りであるかのような)は、ずっと変わらなかった。
あなたの夢ばかり All I Do Is Dream of You
デビー・レイノルズのソロナンバー。パーティの余興で、ベティ・ブープを連想させるピンクのキャップ、ピンクのミニスカートの衣装で、特大のケーキを突き破って登場。参加したパーティー客にキャンディーを配る。音楽が始まると女の子は全員集合!して「一晩中いつも夢見るのはあなたのことばかり…」の歌と踊りのアトラクションが始まる。
原曲はスローで、恋する女心をせつせつと歌い上げてるのですが、「雨に唄えば」ではキュートな女の子が元気よくチャールストンダンスを踊り、合間に声を合わせてかけ声をかけたりして、何とも可愛い。
デビー・レイノルズは、この映画に出るまで、ダンスの経験はほぼなし。ジーン・ケリーの鬼の猛特訓の辛さにスタジオのすみで泣いていたら、フレッド・アステアが慰めてくれたとのエピソードが残っている。デビーはこの作品で大スターとなり、一生涯、成功の座にあった。
笑わせちゃえ! Make 'Em Laugh
ドナルド・オコーナーも大スターなのです。ただ、映画ではジーン・ケリーと相棒ということになっていますが、年齢はひとまわり以上違う。出演当時は20代。だからピリピリした大御所のジーン・ケリーとの共演はデビーに負けじ劣らず、ハードだった。を感じさせない、作中きっての有名ナンバー・名ナンバー。
意気消沈しているジーン・ケリー。元気出せよと
「みんなを笑わせちゃえ、高尚にやれば批評家は喜ぶけどスカンピンさ。みんなバカを見たいんだよ」と歌い踊る。
撮影所で歌い踊る設定なので材木運びが行く手をさえぎってもひらりとよけ、百面相をしたり首なしのマネキンと愛を語らい、アクロバティックな動きは冴え渡り、壁で蹴って一回転のはずが壁を突き破ってもなお「笑わせちゃえ~!!!」と歌い終わる。笑ったらいいのか感動すればいいのか迷ってしまう。
フィット・アズ・ア・フィドル Fit as a Fiddle
映画の冒頭のナンバーで、ジーン・ケリーは映画スター。大観衆を前に自分が今まで歩んできた道を語る。口からでる言葉は美しいサクセス・ストーリーなのですが、さて、リアルな実際は、実は…のギャップが楽しい。
もちろんジーン・ケリーとドナルド・オコーナーのダンスは絶品!
ウッド・ユー Would You?
歌も踊りも良いのですが、もう1つ、この映画を語るに落とせないのは、自分ではジーン・ケリーの恋人のつもり、実は敬遠されているスクリーン上の相手役、プラチナブロンドの美人女優、ジーン・ヘイゲン(Jean Hagen 1923-1977)。
甲高い悪声と、キャシーの声で吹き替えられた「三銃士」ばりのトーキー映画、「踊る騎士」で姫と騎士が歌うナンバー。ヘイゲンの名誉のために付け足せば、実際のジーンの声は悪声でもキンキンでもなく、キャシーが吹き替えたセリフはヘイゲン自身がしゃべっているのです。
ユー・ワー・メント・フォー・ミー You Were Meant for Me
ミュージカル映画のお約束、主演男優と主演女優がペアで歌い踊り、心を通わせるナンバー。
ジーン・ケリーはデビー・レイノルズを誰もいない撮影スタジオに連れて行く。ライトを付けて、巨大な送風機を回せば効果満点。ロマンチック。「君と僕は結ばれる運命なんだ」とささやくジーン・ケリー。加わるデビー・レイノルズ。
巴里のアメリカ人 An American in Paris 1951
巴里のアメリカ人バレエ An American in Paris Ballet
18分もある。このシーンにかかった経費は空前の542,000ドル。映画のクライマックス。パリに住むアメリカ人(GIを現地除隊して画家を目指してパリで絵を描いている)、ジーン・ケリーが恋する女の子、レスリー・キャロン(Leslie Caron 1931-)と一緒に踊るダンスを想像する幻想シーン。
そしてこの幻想がただものでない。
パリの町全体が舞台。コンコルド広場、ユトリロ描くところの路地裏、噴水、バスティーユ広場、ロートレック描くところのカンカンの舞台など、フランスの印象派の画家達の画風を模して構成し、「パリ」と聞くとイメージするエリアやシーンが次々と現れ、幻想的な雰囲気を作り出している。
画家志望の青年の想像だから、絵画の世界のパリなのです。ロマンチックなパリと実存主義者たちのパリ。
ミュージカルにモダン・バレエが初めて採用される。
そして「巴里のアメリカ人」はもともとはジョージ・ガーシュイン(George Gershwin 1898-1937)の曲、映画全編を通して流れるガーシュインの名曲のかすかずが、「巴里のアメリカ人バレエ」のナンバーの間じゅう、ひときわ高くオーケストラで縦横無尽に鳴り響く!
エキストラも膨大で、兵隊さんたちは揃いの青い兵隊服を着ておもちゃのマーチみたいに行進する。踊り子たちは極彩色の衣装を着ていつまでもグルグルと回転し続ける…と、いささか過剰な演出とも取れないことはないものの、
まず、「カラー映画」が量産されるようになり、作品の特色として、ビビットな、目のさめるような色づかいはひときわ効果的との計算。
そしてこの映画は大作だし、夢と現実が渦巻くエネルギッシュでカラフルなパリを表現するのには不協和音のような色の洪水こそがふさわしいとされたのでしょう。
レスリー・キャロンの何色もの色を使ったストライプのトップに黄色のスカート、ジーン・ケリーの真っ赤なネクタイと赤と白のストライプのジャケットも忘れられない。
あまりの豪華さとスケールの大きさ、イマジネーションの豊かさに感心しながら見とれていると、わりと飽きずに、全編通して見通せます。
アイ・ガット・リズム I Got Rhythm
曲そのものはガーシュインの大スタンダード曲、名曲であり、名演奏は数知れず。
歌が好きでたまらない、踊りが楽しくてたまらない。子どもと一緒が楽しくてたまらない。ジーン・ケリーの幸福感たっぷりのボルテージ、胸の高まり、気持ちの高まりがストレートに伝わってきて、歌もダンスも文句なしの殿堂入り。
パリの路上で子どもたちに英語と英語の歌を教えている。子どもたちとのかけあいからタップダンスが始まり、「チンチン電車ぁ~」と言いながらタップダンスのチンチン電車そのもののステップ、兵隊さん、ナポレオンと続き、「カウボーイ!」と叫んでお馬さんに乗るパントマイム&ダンス。最後は帽子を投げ捨てて「飛行機ぃ~!」路上で12回転!パワフルなダンス&ハートウォーミングなナンバー。
ジーン・ケリーはもともと子ども好きで、ケガで降板した「イースター・パレード」(Easter Parade 1948)でも子役との掛け合いナンバーが用意されていたが、出演は果たせなかった。「アイ・ガット・リズム」には満を持しての登場。
ピアノ協奏曲ヘ長調 Concerto in F for Piano and Orchestra
ビリリと締める脇役、オスカー・レヴァント(Oscar Levant 1906-1972)。ギョロ目が印象的。本職は才能豊かな個性派ピアニスト、でも映画出演も多い。
無口でいつも仏頂面・不機嫌な表情で、ひたすらピアノを弾いている、なかでもガーシュインはおハコで、名演奏はいくつも残されている。変人肌の芸術家肌、が役どころ。映画が終わっても主役に劣らず記憶に残る…。
映画の中ではジーン・ケリーの友だちで、やっぱり貧乏で。下宿のベッドに寝転がって自分が成功するさまを想像する。
- ピアノを弾くのもオスカー・レヴァント
- 指揮をするのもオスカー・レヴァント
- 楽器を演奏するのもオスカー・レヴァント。
- 演奏はパワフルかつダイナミック
- 桟敷席で「ブラヴォー-!!! 」と喝采を送るのもオスカー・レヴァント。
本人のアイディアだとのこと。演奏される曲がガーシュインの「ピアノ協奏曲ヘ長調」。セリフは一言もなし。
トラ・ラ・ラ Tra-la-la
ジーン・ケリーのソロダンスの見せ場のもう1曲。
役柄は陽気なアメリカ人。かわいいパリジェンヌを見つけて、恋の予感。デートの約束も取り付けたし、と浮かれまくり、友だちのオスカー・レヴァントの部屋で、彼は弾くピアノの演奏で上機嫌に踊るナンバー。
で、ピアノに乗っかったり、狭い部屋の中を自由自在に・スピーディに・とっても楽しそうに、うれしそうに歌い踊る。部屋の狭さで難易度をあげ、「アイ・ガット・リズム」だけではまだ足りない!もう1曲!観客に堪能させるのですね。オスカー・レヴァントの不機嫌な顔との対比が楽しい。
動きの速いこと早いこと!ピアノ曲のさりげなく変調を繰り返しながらテンポの変わる技巧とジーン・ケリーのテクニックを見せつけるかのよう。
バイ シュトラウス By Strauss
パリの街角のカフェで、ジーン・ケリーともう一人の友だち、ジョルジュ・ゲタリー(Georges Guetary 1915-1997)(甘いマスク・甘い声の二枚目レビュー歌手が役どころ)がオスカー・レヴァントのピアノと歌で、パリの人たちと歌い踊る心弾む曲。
「ブロードウェイもバーリンもカーンもポーターもガーシュインもやめとこう。 そんなのより断然ウィンナ・ワルツ。シュトラウスを頼もう。」
ひげをたくわえたカフェの主人が現れると 「フランツ・ヨーゼフ皇帝だ!」とテーブルの上にイスを置き、ご主人を座らせて、たちまちパリのカフェは皇帝のおわします宮廷舞踏会に早変わり。
花売りのおばあちゃんとたまたまいた年増のご婦人とうやうやしく、ウィンナ・ワルツを踊るのです。
マジに、ガチでガーシュインの曲。初出は1936年。隠れたる名曲。
ス・ワンダフル 'S Wonderful
この曲も名曲・スタンダード。名シーンがいくつも思い浮かぶ。
フレッド・アステアは初出の舞台で(「ファニー・フェイス」(Funny Face 1927))歌っているし、ちょうど40年後、オードリー・ヘップバーン(Audrey Hepburn 1929-1993)との同名の原題の「パリの恋人」(1957)でも歌われた。
「ステキだなあ、最高だなあ、彼女はボクが好きなんだよ」とジーン・ケリーとジョルジュ・ゲタリーが歌うんですね。
しかし、2人が恋しているのは同じ女の子。を知るオスカー・レヴァントは「…どうしよう」焦りまくっている。またしても対比が楽しい。
レスリー・キャロンは、別に二股をかけて男性2人を手玉に取っているのではなく、大戦中、レジスタンスで両親を亡くした自分の面倒を見てくれた恩ののあるジョルジュ・ゲタリーとずっと前から婚約していたのです。公開当時、大戦後わずか6年。時代が映画に影を落としている。
天国への階段 I'll Build a Stairway to Paradise
ジョルジュ・ゲタリーは花形歌手なので、ステージも華やか。
パリが街角や屋根裏部屋ばかりではもったいない!ミュージックホールの赤絨毯の大階段を、ピンクのロングドレスをまとった美人をしたがえ、燕尾服・山高帽・白ネクタイ・ステッキの正装・正統派の美声で歌う。
フォリー・ベルジュール(ベル・エポック時代にパリにできた有名な絵画やステージの舞台となったナイトクラブ)にも大階段は、あったのだろうか…。
我が恋はここに Love Is Here to Stay
ジーン・ケリーとレスリー・キャロンとのペアのダンス。「巴里のアメリカ人バレエ」のめまぐるしさ、忙しさとは一転してスローで密やかでロマンチックなナンバー。セーヌ川のほとりで2人は踊る。
踊る大紐育 (On the Town 1949)
ニューヨーク・ニューヨーク New York, New York
3人の水兵さんが上陸許可をもらってニューヨークの港に降り立つ。滞在時間は24時間。
「にいちゃんたち、何を舞い上がってるんだい?」と話しかけるヘルメットをかぶったおじさん。
ヒューヒュー、わかってないねえ、おじさん。の顔をした水兵さん3人は
「New York, New York
New York, New York
New York, New York
素晴らしい町!」と歌い出すのです。
行くところがいっぱいある。1日で見なけりゃならない。
俺たちは世界じゅうを航海して回ったけど、でもニューヨークの摩天楼の景色は最高!
マンハッタンの女はみんな極上。たった1日しかいられないんだから、手当たり次第に声をかけなきゃ!
大部分の撮影はスタジオで行われたもののニューヨークの町めぐりの場面は実際にニューヨークでロケが行われ、ブルックリン橋、チャイナタウン、セントラルパーク、等々の観光名所のなど、画面はキレの良いバーンスタインのダイナミックなサウンドと現地ロケの迫力、水兵さんの胸のたかまりとハイテンションが増幅して、見ていてとにかく胸躍る!
テンポが早く、熱気があってエネルギッシュ。ジーン・ケリーとしては初めて監督として名を連ねたこの映画(共同監督はスタンリー・ドーネン(Stanley Donen 1924-2019 ))は大ヒットし、以後のジーン・ケリーの黄金時代の幕開けを告げた。
原始人 Prehistoric Man
偉大なるタップダンス・レディー、アン・ミラー(Ann Miller 1924-2004)のソロナンバー。
3人の水兵さんは24時間限定のガールフレンドを募集中。しかし観光名所めぐりもしなければならない。
博物館にやってくると、美人の学者の先生が、「現代の男なんかお呼びじゃないわ。私が求めているのは原始人。二人は結ばれる運命なの!」と展示してある原始人のマネキンにそっくりな水兵さんの1人に猛アタック(冥利に尽きますね)して歌い踊るナンバー。
展示してある太鼓(ホントは使っちゃいけない)をたたき、骨飾りや羽根飾りをかぶって(同左)、タムタムの響きがはじまると、なぜか(ミュージカルの醍醐味)アン・ミラーはさっとグリーンのドレスの前を開き(あらかじめはずれるようになっている)、自慢の脚線美を見せて脅威のタップダンスが始まる。
アン・ミラーのタップダンスは、華やか・セクシーな女らしさ満開でありながらアグレッシブに攻める超絶技巧派であり、うっとり見つめてしまう。パワー全開!
オン・ザ・タウン On the Town
朝、港に降り、夜までに3人ともしっかり恋人を捕まえた。たった1夜かぎり、町を征服してやる!と男3人・女3人・スリーペアで歌い踊るナンバー。曲がはっきりしていて明るく、じめつかず、楽しむぞ~、遊ぶぞ~、のトーン。
ジーン・ケリーのお相手はブロンドのキュートな女の子、「ミス地下鉄」のヴェラ=エレン(Vera-Ellen(1921-1981))、ひょろひょろ童顔のフランク・シナトラ(Frank Sinatra 1915-1998)のお相手は姉御肌のイエロー・キャブの運転手、ベティ・ギャレット(Betty Garrett 1919-2011)、 原始人顔のジュールス・マンシン(Jules Munshin 1915-1970)のお相手がフェロモン華やか、女学者のアン・ミラー、 とカップルのカラーもそれぞれ。踊りのスタイルもそれぞれ。ドレスもアンが赤・ベティが黄色・ヴェラは緑。
主要6人が揃ってのナンバーはこれ1曲であり、クライマックス・ハイライトナンバーでもある。
カウント オン ミー Count on Me
実はヴェラ=エレンは遅れてきた。「ミス地下鉄」の女の子、やっと見つけたのに、もう会えないんだ…。のジーン・ケリーのしょんぼりぶりは、ホントに可愛いいんですよ。
慰めなければならない、と仲間たちが「みんながお前を見捨てても、オレがついてるぜ」「絞首刑になるなら一緒にくくられよう」「お母さんが恋しいなら、私の膝があるじゃない」と歌いかける。
気持ちはうれしい、元気にならなくちゃいけないんだけど、…あの子、来ないんだな~。ヴェラ=エレンが来るまでのリリーフ役、コメディエンヌのアリス・ピアース(Alice Pearce 1917-1966)がいい味出してます!
私の家に行きましょう! Come Up to My Place
フランク・シナトラとペアを組むベティ・ギャレットはコメディエンヌの大御所でして、映画のクレジットはケリー・シナトラに続いて3番目。
おじいちゃんからもらった40年前のニューヨークのガイドブックを見ながら、今はもうない観光名所を次々あげていく、幻の名所名が上がるたびに女イエロー・キャブ・ドライバーのギャレットは急ブレーキ!
コケるシナトラ「何で?」「そんなトコ。もうないんだから!」「それより私の家に行きましょ♪」の繰り返し、テンポはどんどん上がり、おっとりのシナトラは押し切られてしまう。
シナトラは国民的歌手として大成しましたが、デビューしたてのころは、ずーっとスリムで、頼りなげなお坊ちゃん。女の子に絶大な人気を誇ったアイドル出身です。
君は恐ろしい You're Awful
シナトラが、ギャレットに歌い、ギャレットも加わってのラブソングのデュエット。甘ぁ~いヴォイスと眼下にひろがるニューヨークの夜景がロマンチック!
メイン・ストリート Main Street
「ミス・地下鉄」のポスターの女の子に、やっと会えた。「ボクの故郷の町にはメイン・ストリートが1本しかない。案内するよ」と歌いかけ、続くヴェラ=エレンの手を取って始まるペアのダンスナンバー。
ミス地下鉄バレエ Miss Turnstiles Ballet
ニューヨークの1日 A Day in New York
2つともジーン・ケリー扮する水兵さんの想像のシーン。
「ミス地下鉄バレエ」は、地下鉄に貼ってあったヴェラ=エレンの笑顔のアップのポスターを見て、このコはきっと家庭的で、お転婆で、笑顔が可愛くて…。アイロンかけたり、元気にチアガール姿でボクシングをしたりしている。
「ニューヨークの1日」では、2人はニューヨークの夜をバックに一緒に踊っている。
錨を上げてAnchors Aweigh1945
ウォーリー・ソングThe Worry Song
ジーン・ケリーが「トムとジェリー」のジェリーマウスと一緒に踊るシーンが有名。「Look at Me,I'm Dancing!」とジェリーが声を出し、ハツラツと踊るジーン・ケリーに負けじおとらず楽し気な表情でスピンを決め、ジーン・ケリーが一生懸命踊っているのをしり目に宙に寝そべり、引きもどされてまた踊る。最後は水兵さんスタイル(ブルーのストライプのシャツ。白のズボン・白の帽子)の膝に昇り、ジーン・ケリーの胸に星の形の勲章をつけてあげる!
豊かなアイディアと(ホントはミッキー・マウスを使いたかったんですがジェリー・マウスに落ちついた)ほかにもシナトラの甘い歌声、キャサリン・グレイスン(Kathryn Grayson 1922-2010)のオペラ仕込みのソプラノ、
名ピアニスト、ホセ イトゥルビ(José Iturbi 1895–1980) による「ハンガリアン・ラプソディー」など、みどころいっぱいの映画です。
ジーグフェルド・フォリーズ Ziegfeld Follies1946
The Babbit and the Bromide
映画「ザッツ・エンターテインメント」(That's Entertainmant! 1974)でジーン・ケリーが言ってましたね。
「あなたのお気に入りのダンスパートナーはどなたですか?リタ・ヘイワース? シド・チャリシー? レスリー・キャロン? デビー・レイノルズ? それともヴェラ=エレン?」と聞かれて…
実は私の一番のお気に入りのダンスパートナーは、この人なんですよ」と流れるのは、ミュージカル映画の神であり、レジェンドである、フレッド・アステアとペアで踊るダンス。
ジーン・ケリーが踊りながらさりげなく足を踏むと、フレッド・アステアは次のステップでは足を上げてジーン・ケリーの鼻先を直撃!
片方が相手の帽子を落とせばもう一方も負けじと落とす。それでも、天国に行っても、また二人は出会ってしまい、固い絆を感じながら!?また踊るのです。
いつも上天気 It's Always Fair Weather1955
アイ・ライク・マイセルフ I Like Myself
重いローラースケートを履いて、でも軽々とタップを踏むこのパフォーマンスは、ジーン・ケリー後期のベストとして評判が高い。作品の完成度としては、黄金期の「雨に唄えば」「巴里のアメリカ人」に決して引けは取らない。ただ、時代は動いていく。
1950年代後半は、ハリウッド・ミュージカルの衰退期であり、「ウエストサイド物語」(West Side Story 1961)の大成功で、ミュージカル映画の方向性はまるっきり別の方向に行ってしまう。
ジーン・ケリーの活躍の場はテレビショーの制作や映画監督へとシフトしていく。
ザナドゥ Xanadu 1980
気の合うふたり Whenever you're away from me
オール・オーヴァー・ザ・ワールドAll Over The World
御年68才! ジーン・ケリーの最後のミュージカル映画! 背筋はまだまだビシっと伸びて、ステップの足元は、もちろん全盛期と比べることはできないけれど。
ゴキゲンでキュートなブロンドガール、オリビア・ニュートン・ジョン(Olivia Newton-John 1948- )とコンビでタップダンスを踊る! ローラースケートで踊る! 衣装をとっかえひっかえポーズを決める! のを見せていただけるだけで、幸せ! ジーン・ケリーの笑顔って、いいなあ。って素直に感動できちゃうこと、請け合い!
ハロー・ドーリー! Hello, Dolly! 1969
ジーン・ケリー監督作品の映画なので、ジーン・ケリーさまのお姿もダンスも拝めないけれど。見どころは群舞。天才、バーブラ・ストライサンド(Barbra Streisand 1942- )が押しに押しに押しまくる恋の駆け引きを楽し気に演じる。
見どころは
- コスチューム・プレイで(時代設定は19世紀後半のニューヨーク)町中の人が踊り出しちゃう「日曜は晴れ着で」(Put on Your Sunday Clothes)。
- 「ドーリーが来る!」とわかったとたんにレストランのウェイターたちがキビキビとリズミカルに動き出すダンス・シーン。
- ルイ・アームストロング(Louis Armstrong 1901–1971)と全身キンキラキンのドレスをまとったバーブラとの掛け合いが豪快な「ハロー・ドーリー!」(Hello, Dolly!)
その他の作品
フォーミー・アンド・マイ・ギャル For Me and My Gal 1942
ジーン・ケリーの映画デビュー作。評判も良く、ミュージカル専門のプロデューサー、アーサー・フリード(Arthur Freed 1894-1973)の目に留まるところとなった。
映画の題名となった「フォーミー・アンド・マイ・ギャル」を歌い踊る2人。美男美女!
デュバリイは貴婦人 Du Barry Was a Lady 1943
コール・ポーター(Cole Porter 1891-1964)作品でルシル・ボール(Lucille Ball 1911-1989)と共演。
万雷の歓呼 Thousands Cheer 1943
レット・ミー・コール・ユー・スイートハート Let Me Call You Sweetheart
通称「モップ・ダンス」 (A Mop Dance) が有名。ジーン・ケリーが初めてスクリーンで見せた自分で振り付けたダンス。
カバーガール Cover Girl 1944
コロムビアに貸し出され、トップ・スター、美人でセクシーでダンスも完璧!のリタ・ヘイワース(Rita Hayworth 1918-1987)(父はスパニッシュダンサーでダンス教室経営、母はジーグフェルド・ガール)の相手役。
有名なのは
分身のダンス Alter Ego Dance
合成技術を使い、ショーウィンドーに移る自分は町に飛び出し、二人は(1人2役というべきか)一緒に踊る。
踊る海賊 The Pirate 1949
曲:コール・ポーター。
スタントなしで激しいアクションシーンをこなす。
また、アフリカ系アメリカ人の著名なダンシングチーム、ニコラス・ブラザーズ(Nicholas Brothers)が特別出演している映画としても有名。
三銃士 The Three Musketeers 1948
西洋ちゃんばら、スワッシュバックラーもの。ジーン・ケリーはダルタニアン役、主役です!
歌と踊りはないけれどチャンバラシーンはお手のもの。妖婦ミレディ役のラナ・ターナー(Lana Turner 1921-1995)の美しさがまぶしいぞ!
歌詞と音楽 Words and Music 1948
楽聖もの。音楽家の伝記映画。(作曲家リチャード・ロジャース(Richard Rodgers 1902-1979)と作詞家ロレンツ・ハート(Lorenz Hart 1985-1943))
特別出演枠で
10番街の殺人 Slaughter on Tenth Avenue
をヴェラ=エレンと踊る。
私を野球につれてって Take Me Out to the Ball Game 1949
フランク・シナトラがトップ・クレジット。
「For it's one,two,three strikes,you're out,At the old ball game!」
「ワン・ツー・スリーストライクが人生さ!」
映画のタイトルとなった「私を野球につれてって」はアメリカの野球の国民歌。
ブリガドーン Brigadoon 1954
「ブリガドーン」はスコットランドの高原に、100年に一度現れる幻の村。旅行に来ていたアメリカ人が迷い込み、幻の村の美しい娘と恋に落ちるお話。大人のファンタジーと銘打たれた大作で、セットも大がかり。相手役は美貌にダンスに申し分のないシド・チャリシー。
我が心に君深く Deep in My Heart 1954
ハンガリー出身の作曲家、ジグマント・ロンバーグ(Sigmund Romberg 1887-1951)の伝記映画。
ジーン・ケリーは弟フレッドとともに
御婦人たちと水泳に I Love to Go Swimmin' with Wimmen
を披露。
魅惑の巴里 Les Girls 1957
おみ足も麗しい3人の美女は
ミッツイ・ゲイナー(Mitzi Gaynor 1931-)
ケイ・ケンドール(Kay Kendall 1926-1959)
タイナ・エルグ(Taina Elg 1930-)。
美女と豪華レビューを見せていただけるだけで充分なんですが。しかしお話は「羅生門」形式。同じ出来事を別の人が語ると中身が全然違う。と重量感あり。
ロシュフォールの恋人たち Les Demoiselles de Rochefort 1967
フランスのミュージカル映画。
フランスの超大物美人女優、カトリーヌ・ドヌーヴ(Catherine Deneuve 1943-)の姉であり、未来を嘱望されながら若くして自動車事故死したフランソワーズ・ドルレアック(Francoise Dorleac 1942-1967)の相手役。
ジーン・ケリーの略歴
ジーン・ケリーは1912年、ペンシルベニア州ピッツバーグ生まれ。アイルランド系。ダンスはお稽古事として8歳からダンススクールに通わされた。運動神経は抜群。本人は「近所の子と拳銃ごっこや野球をしたかった」のだが、お母さんには逆らえない。
ペンジルバニア大学に入学するが、大恐慌がおこり、学業のかたわら賞金稼ぎにダンスコンクールに兄弟で出場したり、地元のナイトクラブで踊ったり、ダンスの先生をしたりして家計を支える。ピッツバーグ大学に移籍し、卒業。
卒業後は故郷のペンシルバニアで家族が経営するダンス・スクールで教えたり、ニューヨークでダンス・スクールのインストラクターをしながら舞台への挑戦を続け、1938年にコール・ポーターの「Leave It to Me」でブロードウェイ・デビュー。
続く「The Time of Your Life」では主役に抜擢され、初めて自分の振付でブロードウェイの舞台に立つ。
ダンサー、俳優、振付師として活躍し、MGMに招かれ、「For Me and My Gal」でMGMのトップ・ミュージカル・スター、ジュディ・ガーランドの相手役としてスクリーンデビュー。
プロデューサー、アーサー・フリードの元で映画出演を続け、コロムビアに貸出されて出演したリタ・ヘイワースとの「カバーガール」出演後、従軍。復員後、精力的に映画出演を続け、「錨を上げて」「踊る大紐育」「巴里のアメリカ人」「雨に唄えば」「いつも上天気」「舞踏への招待」(Invitation To The Dance 1954)とハリウッドミュージカルの黄金時代を代表する名作・超大作の監督・脚本・出演・振付を担当し、押しも押されぬトップの座に着く。
ジーン・ケリーのダンスといえば
アスレチックな、元気で楽しい男性のダンス。天性の明るさ・陽気さと華。しっかり付いている筋肉をうまく使った、重みとキレとスピードの3拍子そろった質感。
しかしミュージカル映画は衰退期に入り、「魅惑の巴里」を最後にMGMを退社。舞台に、他社の映画出演に、映画監督に、テレビにと活躍の場をひろげていく。
ハリウッド・ミュージカルの総集編、
ザッツ・エンターテインメント That's Entertainment! 1974
ザッツ・エンターテインメントPartⅡ That's Entertainment!PARTⅡ 1976
ザッツ・エンターテインメントPartⅢ That's Entertainment!Ⅲ 1994
ザッツ・ダンシング! That's Dancing! 1984
などにも出演。往年の名シーンは新しい映画ファンを瞠目させる。
「錨を上げて」のアカデミー賞主演男優賞ノミネートにはじまって
アカデミー賞・エミー賞・ゴールデングローブ賞。全米映画俳優組合賞、
国際的にはベルリン国際映画祭、ロカルノ国際映画祭などのはなばなしい受賞歴がある。
1980年代後半から体調を崩し、1994年脳卒中に倒れ永眠。享年、83才。
ジーン・ケリーとフレッド・アステア
ジーン・ケリーとフレッド・アステア。どっちが踊りがうまいか。どっちが好きか。ミュージカル好きなら必ず自問自答!?してしまうクエスチョンですが。
2人はライバルだなんて見方もできるけど、フレッド・アステアはジーン・ケリーより13歳年上。
ジーン・ケリーが映画界入りしたころ、、フレッド・アステアは第一の黄金期を終えたところ。ジンジャー・ロジャース(Ginger Rogers 1911-1995)とのアメリカの歴史に残るダンシングカップルの珠玉のダンス映画を次々世に送り出した、偉大すぎる先達だった。
ジーン・ケリーにしてみれば、雲の上の人。フレッド・アステアにしてみればポッと出の新人。
そしてジーン・ケリーは実績を積み重ね、瞬く間に頭角を現す。「ジーグフェルド・フォーリーズ」で共演できた時なんて、天にも昇る気持ちだったに違いない。ダンスの神様と一緒なんだもの。
もちろん、心の奥底には「フレッド・アステアを超えたい」の深層心理は絶対あったと思う。
そしてダンスの正統派はどこまでもアステア。気品と洗練と優雅。わかっている。
「映画でのダンスの歴史はアステアで始まる。」
「記憶されるただ1人のダンサーである。」
ジーン・ケリーのアステア礼賛の言葉です。
でも、自分のキャラクターではない。合わない。もはじめからわかっていたはず。
もっと、違うイメージを。もっと、別の境地を。
それが、土砂降りの雨の中、夜の通りで街灯に飛びつき、水たまりに足を突っ込んでバシャバシャ水しぶきをあげ、恋の歓喜を歌い上げるスタイルであり。
可愛い女の子に笑いかけられて、どぎまぎしてしまう表情と、全身のバネのようにしなるダンス。と響き渡るオーケストラの響きと大人数の群舞。
フレッド・アステアは遅れてきた天才の後輩の姿と、独創的なアイディアと繰り広げられた新しい時代のダンスに目を見張り、注目したはずです。
「多芸であり、クリエイティブであり、オリジナリティがあった。映画表現の裾野を広げた。」
と語り、頼もしく感じ、一目置いたことは間違いないでしょう。
ジーン・ケリーの人となりと私生活
映画入りする前、ブロードウェイでも製作・振付にかかわっている。大学を出ているし、流暢にフランス語を話すインテリ。
映画のキャリアのはじめのころから振付師が気に喰わないから変えてくれと大プロデューサー、アーサー・フリードに訴えたりする。(ジーン・ケリーの才能を見通したフリードはジーン・ケリーの要求を呑んだ)
映画界入り当初のころ、ジーン・ケリーの評価は
「何にでも噛みつく、ラジカルな規格はずれの変わりダネ」
だったという。
徹底的なこだわりと強情さは、後に「完璧主義者」と名を変え、数々の名シーンがうまれた。
「ジーン・ケリーは素晴らしいダンサーで完璧なリズム感をもっていましたが、そればかりではありません。頭が良くて、リーダーの資質に富み、実際に皆を指揮するのも好きだったのです。
パートナーの能力を推し測り、どうすればその魅力を最大限に引き出せるかを知っていました。映像の構成力にすぐれ、カメラが動くとどう映るかもわかっていました。撮影機器の技術的な側面にも詳しい知識を持っていました。」
「振付家として創造性に富み、斬新で、ダンサーというよりむしろスポ-ツマン的な面が強かったと思います。彼が求めていたのは優雅さではなく、今を生きる者の肉体表現だったのです。
カッとしやすいところもありましたが、同時にフェアで、抑えた態度で良いところを指摘してくれました。悪い部分の指摘は鋭く、直截的で、何らの言い訳も許しません。彼の叱責をスタジオ中の誰もが恐れていました。」出典:踊る大ハリウッド
結婚は3回。子どもは最初の妻の間に1人。二人目の妻との間に2人。3人。
最初の結婚は29歳。妻はブロードウェイの舞台で知り合った17歳の女優、ベッツィー・ブレア (Betsy Blair 1923-2009)。
結婚していた期間は1941年から1957年まで。離婚。
離婚後、ベッツィー・ブレア は主に舞台とヨーロッパで活躍。
子どもは娘1人。
ケリー・ケリー・ノビック(Kerry Kelly Novick 1942- )。
精神分析者・心理学者・幼児教育家。子ども(ジーン・ケリーにとっては孫)は3人。
次の結婚は48歳。二度目の妻は女優・振付助手、ジーン・コイン(Jeanne Coyne 1923-1973)。
結婚していた期間は1960年から1973年まで。妻ジーンは白血病により50歳で死亡。死別。
なおジーン・コインは1948年から51年まで、スタンリー・ドーネンと結婚していた。
子どもは息子1人、娘1人。
ティモシー・ケリー(Timothy Kelly 1962- )
ブリジット・ケリー(Bridget Kelly 1964- )
三度目で最後の結婚は77歳。妻は自叙伝のライターとして雇った女性、パトリシア・ワード(Patricia Ward 1959- )。当時31歳。
結婚していた期間は1990年から1996年まで。ジーン・ケリーは脳卒中のため83歳で死亡。死別。
子どもはなし。
全部、年の離れた、若い美人なんですね。
最後の妻、パトリシア・ワード・ケリーはやり手の切れる女性らしく、亡夫の思い出を語るイベントを開いたり、実子がジーン・ケリーのパブリシティをパトリシアが独り占めしていてもらえないと訴えられたり。
FaceBookもやってます。
ジーン・ケリーのお宝画像や動画がタイムラインで流れてきます。
まとめ
ジーン・ケリーの映画見て引き込まれるのは、ダンスはもちろんだけど、表情。大人ぶってなくて、感情表現がストレートで茶目っ気があって明るくて。大輪の花のよう。輝く太陽のよう。いささか鼻についてね、との御意見もありますね。誠にごもっとも。あり余る思いを顔で表現し、身体で・ダンスで表現してきた。
指揮者なんか、熱血派、若い指揮者だと指揮棒を全力で振り、ここぞ! のパートはゼスチャーは大きくなるし、熱が入りすぎると指揮台から転落したりする。
ジーン・ケリーの踊りのエネルギーもダイナミックさも躍動感も、思いのたけの大きさ、みずみずしさから来ているのだと、信じたいな。