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孔子と論語の何がどう凄いのか名言とともに全力で語ってみる。

 「論語」…昔漢文の時間に習った。眠かった…。のアナタに贈ります!どんなことが書いてあって何が凄いのか。孔子はどんな人だったのか。コレを読めば、知ったかぶりできる!トリビア満載です。

孔子の言葉が時を超えて語り継がれるには訳がある。できるだけわかりやすく。

 

 

 

「仁」とは「学問」とは。堅苦しく考えなくていい。 

Pair of plaques showing acrobatsFreer

 

「孔子」の「論語」のといえば、とかく思い出すのは
「勉強しろ」「勉強しろ」のフレーズです。

吾嘗て終日食らわず、終夜寝ず、以て思ふ。益無し。学ぶに如かざるなり。(衛霊公第15)

黙してこれを識し、学びて厭わず、人に教えて倦まず。(述而第7)


…とにも かくにも勉強しなければいけないらしい。
そもそも、学ぶって、何を?

仁遠からんや。我、仁を欲すれば、ここに仁至る。 (述而第7)

巧言令色、すくなし仁。(学而第1)


「仁」「仁」うるさいぞ…。そもそも「仁」って何?
お答えしましょう。

 

 論語が書かれた当時の「学問」とは。

Fitting in the Shape of a PhoenixFreer

 孔子の弟子は門下3,000人。何を勉強していたのでしょう。

詩に興こり、礼に立ち、楽に成る。(泰伯第8)

  • 詩を読み(テキストは孔子の頃よりさかのぼること何百年かの詩集「詩経」)詠唱し、詩の世界に浸り、古来の人々の思いや理想を知り、自分の心に響かせる。
  • 感受性を豊かに保つ。
    美しい音楽を聴き、精神の境地を高めていく。当然楽器演奏の練習必須。

以上、当時の必須の教養 六芸(礼 楽 射 御 書 数) のうち「楽」。

  • 家庭や社会で人と生きていく理念とセオリーを学ぶ。TPOに合わせた振る舞いを知ることにより、実社会で生きていくための貯金に努める。

同じく「礼」。

  • 上の3つの講義やディスカッション。

結果として、実績として、孔子や孔子の弟子はは各国に就職したり、商売をしたり。


身分は問わない。これは、孔子の時代にあって、向学心に燃え、自分はこのままでは終わりたくない、と燃えていた青年たちにとって、どれほどありがたかったことか。
そして孔子は優しい。

性あい近きなり。習あい遠きなり。(陽貨第17)

天分よりせっせと励むことの方が難しい。つまり誰にでも可能性はある。と弟子を励ました。


孔子のいうところの学は高いところで本を開き、議論することを指すのではなく行動や発言の在り方や方法を含む実践的なものだった。


つまり学んだことを活かし、行動に移す者こそが「学を好む」者。


孔子のころの学問は広い知識(礼とか楽とか)を自分の内にしっかりと持ち、世の中を変えるとまではいかなくても(もちろんこれが理想なのでありましょうが凡人には敷居高すぎ)日々を楽しく快適に過ごすための知恵でありました。この理想は、みんなが仲良く幸せに暮らしていくことは時代を問わず人々の願い。だからこそ「論語」は今までおびただしい人々に読み継がれてきた。 

 

 論語と孔子のいう「仁」とは。

戰國 絞絲龍形玉佩MET

 「仁」は「イ」と「二」。「イ」は「人」。つまり「人」。人が二人。
人は人と生きる存在である。人は一緒にいて楽しい人とともにありたい。
孔子は弟子たちに「仁とは何か」と聞かれ、
弟子ごとに人となりを見て答える。

  1. ある時は「人を愛することだ。」
  2. またある時は「己に勝ち、「礼」の原点に戻ることだ」
  3. またある時は「人にされてイヤなことをしないことだ。」
  4. またある時は「言葉を選び、慎み深くあること。」
  5. またある時は「丁寧に振る舞い、人のことをあれこれ言わず、受け入れる。誠実であれ。よく働き、思いやりを忘れないこと。」
  6. またある時は「難しいことを先に、利益は後に回す。」
  7. またある時は「まず人のことをおもんばかるのだ。自分が立ちたい時、人を立たせる。自分が行きたい時にはまず人を行かせる。人のことを自分のこととするのだ。」

1.樊遅、仁を問う。子曰く、人を愛す。」(顔淵第12)

2.顔淵、仁を問う。子曰く、己に克ちて礼に復るを仁と為す。」

(顔淵第12)

3.仲弓、仁を問う。己れの欲せざる所は人に施すこと勿かれ。」

(顔淵第12)

4.司馬牛、仁を問う。子曰く、仁者は其の言うや訒す。之を為すこと難し。之れを言いて訒する無きを得んや。(顔淵第12)

5.子張、仁を孔子に問う。孔子の曰わく、能く五つの者を天下に行なうを仁と為す。これを請い問う。曰わく、恭寛信敏恵なり。(陽貨第17)

6.樊遅。仁を問う。曰わく、仁者は難きを先にして獲るを後にす。

(雍也第6)

7.仁者は己れ立たんと欲して人を立て、己れ逹せんと欲して人を達す。能く近く取りて誓う。(雍也第6)

 

 人は人と一緒に生きていくのだから、どうせなら、和やかに。
想像力を働かせ、相手を思いやり、配慮する。
それを自然の、当たり前のこととして生きていく。
いや、生きていかなければいけないのだとの強い強い確信。高い高い理想主義。


その強さが、激しさが人の心に触れた。揺さぶられた。揺さぶられ続けた。
論語では常に相互の愛が語られる。仁は人間相互の間の愛情として語られるのです。

 

論語の堅苦しいイメージはどこから?いつから?

MaskFreer

 しかし実際、「論語」は無理やり読まされる本というイメージが強い。
江戸時代なんか寺子屋の「読み書きソロバン」で学校に通う子、武士の子なら藩校とか「論語」は必修。偉いお武家様のお子様なら家に怖そうな先生が来てくださり、ちんぷんかんぷんのお話をただただ聞かなければならず、身じろぎでもしようものならじろ~っと睨まれたりして。


そして繰り返されるのは親には孝、上司には忠。

君、君たり、臣、臣たり、父、父たり、子、子たり。(顔淵第12)

ってやつですね。ほかにも

  1. 両親が存命なら遠くに行かず、必ず行先を言いなさい。
  2. 父が亡くなっても、3年、やり方を変えてはいけません。
  3. 父母の年は知っていなければ。長寿を喜び、あと何年生きていてくれるのかを恐れるために。
  4. 部下には「礼」君主には「忠」。

決めつけられると逆らいたくなってきたりして。でも、

 

父母に事うるには幾諫(きかん)す。(里仁第4)

つまり、間違っていたらお諫め申し上げなさい。って言葉もあります。


それに「忠」ってもともと「心」の「中」。本来の意味は「真心」であり、「誠実」であるはず。上の方に絶対服従なんて意味、ないし、


どうすれば民が働いてくれますか、とのとある国(魯)の家老の質問には


「あなたが慈しみ深ければ民はあなたに忠でいてくれますよ。」

「孝慈なれば則ち忠あり。」(為政第2)

なんて文句の方が断然多いのです。


そもそも孔子の理想の生活って、「詩書礼楽」。穏やかに楽しく生きることが理想だったはず。それに、「論語」も魅力の一つって、先生孔子と弟子たちのいきいきした会話じゃないですか。
「三歩下がって師の影を踏まず」どころか
(ちなみにこの言葉は江戸時代の日本のお坊さんの言葉で
 江戸時代の教科書に書いてあったので「論語」に書いてあるとの誤解も生まれた)
師弟の距離の近さと弟子が孔子を慕い、お話ししている様子は
「ははー」っと恐れ入る…、なんかと全然雰囲気合いません。。

どうしてなのか。それはですね、

 後世の解釈が今の論語のイメージに影響してくる

Pendant in the form of a feline-dragonFreer

 「論語」そのものを読む人って、まずいない。後世の解説本を、みんな読んでいるのです。つまり解釈する人のアタマと固定観念に左右される。読み方が変わるんですね。


まず、「論語」はずらずらーっと名言が並んだ退屈な本ではない。読んでいて魂が揺さぶられる迫力があり、読み進まずにいられない。「論語」が読み継がれてきたのは、
孔子その人のキャラクターが、あまりにも魅力的だったから。そんな本のところどころに、自分の都合のいいことが書いてある。(論語はなんだかんだ言っても秩序を重んじる)そこをピックアップして。時の為政者が。自分に都合の良いことを書いた学者さまの書いたことを。
「こーゆーことなんだぞ!!!」と大々的にPRし、普及啓発啓蒙に努めたのです。


そして孔子って2,500年前の人ですし。(紀元前552-479)古いから解釈してくれる人なしに内容わからないし人気本だから(ビートルズやモーツァルトみたいなもの)今までに世に出た解釈本は1,000種はくだらない。で、流行あるし、御時世変わる。当の孔子の言いたいことや、築いた世界とはかけ離れた解釈が出てくる。あり得ます。しかもコレ、男と女の心のひだを描く「源氏物語」とは違う。政治がからむ。


「親孝行、しないよりはした方がいいのでは。」
「目上の人の言うことはとりあえず聞いといた方がいいのでは。」
この刷り込み。当たり前だと思っていたこと。
実は周到に周到に、用意されたものだとしたら。。。


封建社会の維持に、「忠」だの「考」だのは都合が良かった。


中国で

三綱:君為臣綱、父為子綱、夫為妻綱
   (君は臣の綱となり、父は子の綱となり、夫は妻の綱となる)

なんてくらくらするような言葉ができたのは漢代(紀元前206-220)。


さらに南宋の時代(1127-1279)の「朱子学」。これが徳川幕府の体制維持に、大層都合がいい。で、学校で習った林羅山なんて先生が出てきた。そして武士道とごっちゃになって「論語」といえば、ああ、またお説教か、とため息が先に立つ…ようになってしまった感なきにしもあらず。


いちおう民主主義の時代に生きる我々は人となり、能力方針も問わず、たてまつった人に従うなんてとにかくごめんこうむりたい。


でもね、先人の名誉のためにも、言っておかねば。

昔は、生きていくことは、大変だった。ひとたび天変地異が起これば、すなわち飢えが待っている。国が弱ければ攻め込まれて生活も家族も値こそぎ奪われてしまう。論語が生まれた春秋時代は、戦乱の真っただ中。血なまぐさい政権の奪い合いや骨肉相食む勢力争いは日常茶飯事だった。


強い理想。強大なエネルギーとオーラで平和と安心を守る存在。
もし、そんな世界があったとすれば。

 

たとえば、北辰の其の所に居て衆星のこれに向かうがごとし。(為政第2)

北極星は北天に高く輝き、星ぼしは北極星を中心にして回る。あたかも北極星にお辞儀をするかのように…。たいそう美しいと思いませんか…。


それに、やっぱり私、親孝行はしないより、した方がいい。尊敬すべき人には、礼儀正しくありたい。


朱子学バリバリの江戸時代だって、「今の解釈はおかしい。孔子の本意とは違う。」と声を上げた人だって、いたのです。
伊藤仁斎(1627-1705)は今の論語は朱子学やそれ以降の考え方でのみ世に流布している、それはいかがなものか。と「論語古義」を書き、
荻生徂徠(1666-1728)は孔子は「詩書礼楽」を理想に掲げていたのだし、「論語」はユートピアを描いているのに朱子学は厳しすぎる。と「論語徴」を書きました。


もっとも、「論語」、いくらなんでも現代には通用しにくいところ。あります。

女子と小人とは養い難しとなす。これを近づければ則ち不孫なり。これを遠ざければ則ち怨む。(陽貨第17)

夷狄の君有るは、諸夏の亡きにしかざるなり。(八佾第3)


野蛮人の国には文化はないってことですね。何しろ中国は中華。すべての中心。当時の日本は、もちろん「夷狄。」ここは白旗、上げておきます。


さて、で、

 

孔子とはどんな人だったか。

身長220cm。

孔子は長け、九尺有六寸、人皆之を長人と謂いて之を異(あやし)とす。(史記「孔子世家」)

孔子は74才で亡くなっている。何しろ、「人生七十古来稀なり」。2,500年前にこの御年まで長生きできた。

孔子の父は武人。お父さんから強健な身体を受け継いだ偉丈夫だった。 

松岡修造ばりに熱い人だった

Pendant with Three DragonsLACM

 

「どうして言ってくれなかったのだ。
 頭に血が上ると食事すらも忘れてしまう。
 気になることを前にするとつい興奮してしまう。憂いを忘れ、のめりこんでしまう。
 好きなことに没頭して無我夢中になって、
 辛いことも苦しいことも自分が老いていくことさえも
 みんな忘れてしまう。それが私なんだよ。」

子曰わく、汝なんぞ曰わざる。其の人となりや、憤りを発して食を忘れ、楽しみて以て憂いを忘れ、老いの将に至らんとするを知らざるのみと。

(述而第7)

高弟子路が師である孔子のことを聞かれ、言いたいことはたくさんあるはずなのに大好きでひたすら崇拝申し上げている先生なのに、言葉が出てこない。
孔子は優しく、そして即座に鮮やかに自分の人となりをスパッと言ってのけます。
心震えるものに触れると振れ幅大きく共鳴する。そして有り余るエネルギーを、自分のやりたいこと、理想とする社会の実現のためにすべて注ぎ込んだ。
それが、孔子の生涯。

 

子、斉に在りて韶を聞く。三月肉の味を知らず。曰く、図らざりき、楽を為ることの斯に至らんとは。 (述而第7)

孔子35才。大国、斉を訪れ古代の舜の時代の管弦楽を聞いて感動のあまり3カ月の間、肉の味がわからなかった。「音楽の境地がここまでの高みに達していようとは」と慨嘆した。2,500年前にも、オーケストラがあったのですね。大人数で奏でる調べ。古代の文化水準の高さがうかがえる。初めて聞く調べ。あまりにも素晴らしすぎて、我をも忘れる。

 

久し、吾また夢に周公を見ず。(述而第7)

周公は孔子の生まれる5~600年前の人。名君の誉れ高く、孔子の理想の君主。
敬愛してやまない理想、周公。若いころはよく、夢に見たものだ。年取ったなあ。最近、周公に夢であいまみえることがない。。。。。憧れて憧れて…。周公の御代。自分の理想とする社会。追い続けた生涯。振り返り、懐かしみ、なお、心は燃え続ける。

 

神経こまやかな人だった

Tang dynasty,OrnamentFreer

節目節目には食事の場所を替え、普段と違う食事を取った。
白米を好み、刺身は細かく刻んだものが好き。
味が変なもの、傷んだ魚や腐った肉は食べない。
色の悪いもの、臭いの変なものは食べない。
煮加減のよろしくないもの、
季節外れのものは食べない。
切り目が正しくないものは食べず
味付けが良くなければ食べない。
肉を多く食べても量は過ごさない。
酒に定量はないが乱れるまでは飲まない。
酒と干し肉は自家製。
ハジカミは食べるが量は食べない。。。。

食は精を厭わず、なますは細きを厭わず。
食の饐(い)して餲(あい)せる、
魚の餒(あざ)れて肉の敗(やぶ)れたるは食らわず。
色の悪しきは食らわず。臭いの悪しきは食らわず。
飪(じん)を失えるは食らわず。時ならざるは食らわず。
割(きりめ)正しからざれば食らわず。
其の醤(しょう)を得ざれば食らわず。
肉は多しといえども食の気に勝たしめず。
ただ、酒は量無く乱に及ばず。
沽(か)う酒と市(か)う脯(ほしにく)は食らわず。
薑(はじかみ)を撤(す)てずして食う。多くは食らわず。(郷党第10)

いかがでしょう。
感動してしまうのは、この方が2,500年前の方だということ。この繊細な感覚。。。。
材料を吟味し、旬のものを使う。調理の仕方にも細やかに注意を払い、頃合いのよろしいものしか召しあがらないのですね。そして味付けにも好みがある。きちんと盛り付けたものを好む。すべてに気遣い、行き届いたものを好まれたのです。

 

席正しからざれば、坐せず。 (郷党第10)

座布団に座るのにも必ずその位置をまっすぐに正してから座った。

 

褻裘は長く、右袂を短かくす。(郷党第10)

普段に着るものは丈は長く、右袖を短く。機能重視。

 

斉すれば必ず明衣あり、布なり。

斉すれば必ず食を変じ、居は必ず坐を移す。(郷党第10)

ものいみの時には必ず麻の衣に着替え、食事を変え、座る場所を変えた。

 

斉衰の者を見ては、狎れたりと雖も必ず変ず。冕者と瞽者とを見ては、褻と雖も必ず貌を以てす。凶服の者にはこれに式す。負版の者に式す。盛饌あれば必ず色を変じて作つ。迅雷風烈には必ず変ず。 (郷党第10)

斉衰(しさい)の喪服を着た人に会うと親しい人といえども必ず居住まいをただし、哀悼の意を表した。高官や目の悪い人に会うと、顔見知りの人であっても必ず厳かな態度をとった。喪に服している人には車中でお辞儀をして哀悼の意を表し戸籍簿を担いだ役人にも同じく車中でお辞儀をして敬意を表し御馳走がふるまわれると必ず顔色を変え、居住まいを正して立った。強風や雷の時にも必ず居住まいを正した。


居住まいを正すこと。お辞儀をすること。。自分以外の人への身振り、しぐさで目に見える形で示す。それは誠意の表現です。このほかにも着るものはコレ、出かける時はコレ、と細かいこだわり!?が延々と続きます。郷党第10、細かい(*´Д`)


勉強するだけ、教えるだけ、志を語るだけの人ではなかったのです。
毎日の暮らしに、美意識があった。
つまり、生きることを楽しむ人であったのです。

 

 弟子に慕われた

清乾隆 青玉雕十二生肖MET

 子は温にして厳しく、威ありて猛からず、恭にして安し。 (述而第7)

先生はおだやかで、しかも厳しい方であった。威厳はあるが威圧的ではない。礼儀正しいがゆったりと余裕あすれる方だった。

 

子の燕居、申申如(しんしんじょ)たり、夭夭如(ようようじょ)たり。

(述而第7)

先生は家の中ではいつも穏やかで和やかであった。


理想に燃え、熱い思いを語り、弟子を導き、大の男が孔子を崇拝することすること。

 

吾れ由を得てより悪言耳にきこえず。(史記「仲尼弟子列伝」)

由は孔子の弟子、子路のこと。遊侠の道にあった子路。雄鶏の羽を頭に飾り、豚皮の飾りの剣をぶら下げ、肩で風切って歩いていたのです。一本気の熱血漢。孔子に心酔し、弟子入りする。先生に変なマネはさせねぇぞ。生命がけで孔子を守ろうと意気込む姿が彷彿としてきます。悲しすぎる最期は中島敦「弟子」に詳しい。


「先生はすごい。仰げば仰ぐほど高く、切り込もうにもますます堅い。弟子たちを順序だてて導き、教義をまとめ、我々に文化と教養を伝え導く。やめようと思ってももうやめられない。全力を尽くしたつもりでいても先生はすっくと高みに立ち、ついていこうにも、いったいどうすればいいのか。。。。」

孔子の最愛の弟子、顔淵はため息交じりにつぶやくのです。

(人となりはパッと見、ボーっとしていたらしい。しかし学識教養は門下一。早世し、孔子は「天は我を滅ぼせり」(公冶長第5)。と慟哭した。)

顔淵、喟然として歎じて曰わく、これを仰げばいよいよ高く、これを鑽(き)れば彌々堅し。これをみるに前に在れば、忽焉として後に在り。夫子、循々然として善く人を誘う。我を博むるに文を以てし、我を約するに礼を以てす。罷まんと欲するも能わず。既に吾が才を竭くす。立つ所ありて卓爾たるが如し。これに従わんと欲すと雖も、由なきのみ。

(子罕第9)

 

孔子に反感をもつ人物、叔孫武叔。高弟子貢の目の前で孔子をあしざまに言う。子貢は気色ばんで一気に答える。


「先生は太陽や月のような方で、凡人には超える術はない。人がいくら無視しようとしても、太陽や月はびくともしない。無視しようとした者が己の身の程知らずをさらけ出すだけだ。」

仲尼は日月なり。得て超ゆる無し。人自ら絶たんと欲すといえども、其れ何ぞ日月を傷わんや。多に其の量を知らざるを見るなり。(子張第19)

 

子貢は弁舌さわやか。ちょっと癇が強く、ピリピリしたところがあり、商売がうまい。顔回、子路、子貢…。この3人の中では子貢が一番のモテ系かも…。で、孔子が悪く言われると思わずカッと頭に血が上り、言い返さずにはいられない。
旅の途中、悪者に取り囲まれ(「匡の法難」先進第11)ても、食料が尽きても、弟子は孔子の元を離れようとはしなかった。遥か古代にかすむ、強い信頼の絆で結ばれた師弟関係は、ずーっと世の理想でありつづけたのです。

 

音楽好きだった

詩は人の心の貴さを教え、音楽は人の行為の貴さを教える。法則ある美の世界。音楽に耳を傾け、あるいは自ら奏でることは、純粋美の世界に遊ぶこと。
異国の地に赴き、かの地の音楽を聞き、肉の味さえわからなくなるほど感動した。
すでに申し上げました。
音楽評論などもされている。魯の国のオーケストラを聞いての感想。

 

子、魯の大師に楽を語りて曰く、楽は其れ知るべきのみ、始めて作すに翕如(きゅうじょ)たり。これをはなちて純如(じゅんじょ)たり、皎如(きょうじょ)たり、繹如(えきじょ)たり。以て成る。(八佾第3)

私は音楽をこのように理解しています。まず金属の打楽器が鳴り響くことによってはじまり、次いですべての楽器が次々と加わる。続いてすべての楽器が自在に調和し、それでいて各々の楽器の音はくっきりと異なっている。連続と展開の演奏は続く。かくして音楽は完成するのですね。

比較評論などもある。

 

韶を謂わく、美を尽くせり、又た善を尽せり。武を謂わく、美を尽せり、未だ善を尽くさず。(八佾第3)

舜の時代の「韶(しょう)」という曲は美を尽くし、善を尽くす。
今の御代、武王の時代の曲は美は尽くしても、善は尽くさない。


孔子門下では音楽が重視されていたので瑟(中国式のハープのような多弦の琴)を弾きながら「詩経」を学んだ。当時必須の教養は「六芸(礼・楽・射・御・書・数)」と呼ばれ、孔子はことに礼と楽を重視していたのです。

 

人と歌いて善ければ、必ずこれを返さしめて、而して後にこれに和す。

(述而第7)

よい歌だと思ったときは必ずもう一度歌わせ、その後自分も歌った。

 

由の瑟、なんすれぞ丘の門に於いてせん。(先進第11)

肉体派、体育会系の子路も、一生懸命、お琴の練習をしていたのです。

 

瑟を鼓することまれなり。鏗爾(こうじ)として瑟を置いて立つ。(先進第11)

瑟を静かに爪びいていたが、かたりと瑟を置いて立ちあがった。
など、孔子門下の日々の様子をかいま見ることができます。

学問好きで礼儀を重んじ、強い意志を持ち、理想社会の実現を信じていた。

…ここが本来基本。説明不要なのですが…。が、少しは。

 

学びて時にこれを習う、また悦ばしからずや。(学而第1)

 

勉強して時折振り返る。理解が深まり、己の血となり肉となる。これこそ、人生の悦びではないか。

 

礼の用は和を貴しと為す。(学而第1)

礼の意義として最も重要なものは社会の調和である。


人が家庭で社会でなごやかにつつがなく生きていくための行動。誰も傷つかず、誰もが心地よい。心あってこその礼であることは、言うまでもありません。そして心あっても、やっぱり、わかるように示さなくては、ね。

 

仁遠からんや。我仁を欲すれば、ここに仁至る。(述而第7)

仁は遠いものだろうか。いや、違う。

仁とは、求めさえすればすぐにやって来るものだ。

 

徳は孤ならず、必ず隣あり。(里仁第4)

徳のある人は、一人ではない。 必ず理解してくれる人がいる。


論語の言葉は未来の人間に対する期待の言葉。
孔子は、人間を信じている。人はみな可能性をもっている。
そして人間の可能性は人間自体の中にある。
人間の最高の生活は愛情の生活であり、人間の文明は滅びない。
決して遠くにあるのではなく。その気持ちになりさえすれば必ずやってくる。
文明の前途は不滅であり人間が存在する限り文明は必ず存在する。
この爽やかさ。明るさ。気高さ。


我々は誰かに愛されてるのだという確信。


これこそが、孔子が、論語が、
今なお、そしてこれからも、エバーグリーンの輝きを放つ理由ではないかと私は思うのですが、いかがでしょう。


そして孔子は
まず人間の事実について多くのことを知らなければならない。
人間は生きるためには必ず学問をしなければならない。
人間は学問の鍛錬によってこそ完成される。


さらに
人間の善意・愛情というものは政治を通じてこそ行われる。
この2つも、繰り返し繰り返し「論語」の中で語っています。

 

 

 名言(個人的に好きなフレーズをランダムに)

明代 玉飾MET

 「晩春、春の服がすっかり仕立てあがったころ、皆で、沂水で水を浴び、高台に登って風に吹かれ、歌をうたいながら帰ってきたいものです。」

暮春には春服既に成り、冠者五六人。童子六七人。沂に浴し舞雩(ぶう)に風し、詠じて帰らん。(先進第11)


生きる喜びとは、こういった小さなことの積み重ね。世の中を変えたい。なぜ?欲しいものを手に入れたい。なぜ?それは、幸せになりたいから。そして、幸せになれたら、人は何をするのでしょう。


この一文は、孔子が弟子たちに「お前たちが世に出、人に認められたら何をしたいのかね。」と問いかけ、「国に平和を取り戻したい」「人々の暮らしを豊かにしたい」「まつりごとか外交の仕事をしたい」と弟子たちは口々に答える。年かさの弟子、曾皙は、答えを促され、爪びいていた琴をかたりと置き、「皆とは少し違うのですが」と前置きし、語った言葉です。
晩春の伸びやかな空気、風の香り。歌を歌いながら帰る。響く歌声…。が皆の脳裏によみがえったことでありましょう。
孔子は

喟然(きぜん)として歎(たん)じて曰わく、吾は点に与せん。(先進第11)

感嘆のため息を漏らし言った。「私は曾皙に賛成だ。」

余韻がいつまでも残る。「論語」にはこんな素晴らしいお話があるのです。


前述

憤りを発して食を忘れ、楽しみて以て憂いを忘れ、老いの将に至らんとするを知らざるのみと。(述而第7)

と並ぶ。どちらをNo.1とすべきか。悩んでしまう。

 

知者は水を楽しみ、仁者は山を楽しむ。知者は動き、仁者は静かなり。知者は楽しみ、仁者は寿し(いのちながし)。(雍也第6)

説明不要ですね。書き下し文は、漢文は、音の響き、文の響きが好きなのです。普段の生活には…もちろん、使わない。門外不出のレシピのお菓子を食べてる気分です。誰も知らないところで、そーっと味わう。

 

郁郁乎として文なるかな(八佾第3)

いいなあ、好きだなあ。の詠嘆の言葉。
孔子が終生理想とした、周王朝の文化の空気が「いくいくことしてぶんなるかな」。
文字を目で追うだけで、頭の中に鳴り響き、匂い立ってくる気がするのです。

 

詩三百、一言以て之を蔽う。曰く、思い邪無し。(為政第2)

『詩経』には三百篇の詩がある。内容を一言で言えば、感情の純粋さ。であろう。
「思い邪無し。」
大いなる情熱の人、孔子。エネルギーの塊を一気に吐き出したかのようで、まっすぐで。高みを見つめ続けた人の珠玉の一言だからこそ。胸が震えます。

 

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まとめ

サグラダ・ファミリアはイエス・キリストがいなければ、この世に存在しなかった。タージ・マハールは今は亡き、愛してやまない妻への贈りもの。そして今日、東洋の片隅の日本の、壮大な伽藍や、仏さまの笑みをたたえたお姿は、遠い昔、なぜ人は悩み、苦しむのだろう、と宮殿を後にして野に出て行った王子様。ブッダがいたからです。人の心は残る。思いは必ず残るのです。

 

締めは史記「孔子世家」より。

孔子の生涯を描き、最後に司馬遷が論評を加えた箇所です。

 

 高い山があれば、誰しもこれを仰ぎ見る。

大きすぎる人に到底及ばずとも、心惹かれずにはいられない。

私は孔子の書を読み、その人となりに思いをはせる。

魯の孔子廟に赴き、遺品を見、碑を読んだ。

書生はなお孔子の残した教えを学んでいた。立ち去り難かった。

生きて名をあげても死ねばたちまち忘れ去られてしまうものなのに、

孔子の教えは伝え継がれ、よりどころであり続ける。至聖というべきである。

太史公曰く、詩に之れ有り、『高山は仰ぎ、景行は行く。』至ること能わずと雖も、然れど心は之に郷往す。余、孔子の書を読み、其の人と為りを想見す。魯に適き、仲尼の廟堂・車服・礼器と、諸生が時を以て礼を其の家に習うとを観る。余、袛囘(テイ・カイ、徘徊すること。去り難い様子を表している)して、之に留まりて去ること能わざりき。天下の君王より賢人に至るまで、衆くは、時に當りては則ち栄え、没せば則ち已む。孔子は布衣にして、十余世を伝え、学者、之を宗とす。天子王侯自り、中国の六芸を言う者は夫子に折衷す。至聖と謂う可きなり。

 

Plaque in the Shape of a Dragon Freer

なお、画像はアメリカ、フリーアギャラリー、メトロポリタン美術館、ロサンゼルス・カウンティー美術館の中国美術のフリー画像です。