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古関裕而記念館! 祝・朝ドラ化! 「エール」を送りましょ。

古関裕而はね、すごい作曲家なんですよ。代表曲には「栄冠は君に輝く」(高校球児の応援歌)。「くぅ~もぉ~たぁかぁ~く、ひっかりあふ~れぇ~て~♪ 」のアレ。「モスラの歌」。「六甲おろし」も古関裕而。

古関裕而

 NHKの朝ドラ化も決まったので、むむ、混んでるかな~と思いつつ行ってみた。

 

 

古関裕而記念館 アクセス 開館時間 入場料

〒960-8117 福島市入江町1-1
TEL(024)531-3012 FAX(024)531-3012

アクセス

JR

JR東日本福島駅

東北自動車道  福島西インター(東京方面から) 飯坂インター(仙台方面から)

所要時間はインターチェンジから30分弱

駐車場

隣接する福島市音楽堂(残響時間空席時3秒満席時2.5秒は国内屈指。デンマーク製のパイプオルガン有)と共用。

高速バス

仙台・郡山・会津若松初福島行き。終点「福島競馬場前停留所」で下車、徒歩約5分。

路線バス

JR福島駅東口より駅前バスターミナル(2・3番乗場)より乗車し、「日赤前」停留所下車、徒歩約3分。

開館時間

9時~16時30分(入館は~16時) 

休館日

12月29日~1月3日 

入館料

無料  

 

古関裕而

 記念館外観。

古関裕而

案内看板。

最初の写真の自動ドアのエントランスから入館できます。

入場料は無料ですが、係の人に「どこからお越しですか?」と聞かれた。

お客さん、私1人です。貸し切り。

 

古関裕而

 先生のポスターや

古関裕而

 小さいけどお土産品のコーナーもあり

古関裕而

朝ドラ化決定で地元紙2紙の号外まで出た。

 

古関裕而

事務局カウンター奥には色紙が飾られており

古関裕而

古関裕而の晩年のポートレートなども飾ってある。

古関裕而

 手型や

古関裕而

 銅像や勲章なんかも展示してある。

古関裕而

1階はミニコンサートホールとしても使われており、古関裕而メロディーのビデオが流れていました。

古関裕而

 

古関裕而

 ご愛用のハモンドオルガン。

古関裕而

福島市の駅前にはピアノを弾きながら微笑む古関裕而の銅像があるのです。

同じものが古関裕而記念館にもあり

古関裕而

昔なつかしレコードプレーヤーなども展示してあります。

 

2階が展示スペースになっています。

古関裕而
開館は1988年なので、30年たっている。でも、綺麗ですね。

 

古関裕而

大作曲家、古関裕而は1909年(明治42年)福島県福島市生まれ。町の真ん中の大店の呉服屋さんのおぼっちゃま。

お父さんは音楽好きで、家には蓄音機、古関裕而少年にはハーモニカなど買ってもらえた。ただ、音大とか芸大で音楽を学んだんじゃない。福島の小学校と商業学校の音楽の先生の指導を受け、また、当時市販されていた楽譜を買って独学で作曲を続ける。仙台の教会の音楽家の先生の元に通い詰める。

一方、家業の呉服屋は倒産してしまい、銀行員になった。銀行勤めの傍ら、音楽の勉強を続け、1929年(昭和4年)、若干ハタチ! 20才で、イギリスの楽譜出版社の主催する作曲コンクールの入賞を果たし、一挙に表舞台に躍り出ることになる。

快挙を報道する当時の新聞も、展示してありました。

古関裕而

才能は、もちろんあった。でも、環境としては決して恵まれていたわけじゃない。昔の人の集中力のものすごさ。の迫力を感じます~。

古関裕而

そして朝ドラでも最大の見せ場になるであろう、金子夫人とのロマンス。

愛知県豊橋市在住の18歳の少女は古関裕而青年のコンクール入賞の記事を読み、ファンレターを出す。2人は手紙で愛を育み、古関裕而青年は豊橋市まで金子夫人に会いに行き、2人は福島に戻って結婚。期間半年足らず。はは早い…。

そして終生仲睦まじく添い遂げ、子どもは女の子2人と男の子1人。見目麗しく才長けた妻とかわいい子どもたちに囲まれて、絵に描いたような円満な家庭、家庭的には順風満帆だった。

古関裕而

 「からたちの花」「この道」の日本の洋楽の草分けにして巨頭の山田耕筰の推薦をうけてレコード会社と契約、若い夫婦は東京に居を移し

1935年(昭和10年)、古関26歳、『船頭可愛や』(詩 高橋掬太郎 唄 音丸)が大ヒット。大家としての地位を確立。

古関裕而

そして時代は太平洋戦争へと雪崩を打って進んでいく。

古関裕而の作風として、清く正しく美しい。クラシック音楽からポピュラー音楽に活動の軸を移したとの経歴もあるし、陰にまわってじめじめしたトコがない。さらに言うなれば、セックスアピールに乏しい。

は、軍事色が濃くなりゆく時代、とても重宝された。作曲家としての第一の全盛期が戦時下と重なり、古関裕而は軍歌の巨匠となった。

古関裕而

終戦・敗戦後は、軍歌を大量に作ったかどで戦争協力者として見られた側面も確かにあって、戦後の輝かしい功績(「栄冠は君に輝く」「長崎の鐘」「君の名は」など)の割には表舞台にゴリ押しで出てくる印象が少ない。

東北人・福島人としての魂を感じます。

福島なんて、原子力発電所がメルトダウンしたんですよ。これが関西あたりであったなら。関西人、騒ぐ騒ぐ。に違いない。

なのに福島の人たちは黙って避難し、故郷から出て行かされても黙々と耐え、自身の暮らしを再び組み直していく。

1964年の東京オリンピックのテーマ、「オリンピック・マーチ」も古関裕而作曲です。2020年の東京オリンピックに合わせて選ばれた朝ドラのテーマとして、ひときわ高く、鳴り響くのでしょう。

功績を着々と積み上げ、かつてのある種のやましさは歳月とともに次第に薄れていく。

古関裕而

記念館の展示は、古関裕而のゆかりの品をまとめて譲り受けたものが大半を占め、

古関裕而

昔のヒット曲のSPレコードやレコードジャケット、著名人との写真や直筆の楽譜や、著名人の手紙や贈られた品々(「長崎の鐘」の永井隆博士が病床で編み、古関裕而に贈ったロザリオとか)、や愛用の品々(指揮棒や8ミリ撮影機など)、年譜が残された写真とともに細かく紹介されています。

古関裕而

書斎も再現されていました。

ポピュラー音楽を畳のお部屋で書いていたんだ~。

机が3つありますね。忙しい時には掛け持ちで一度に何曲も作曲を手掛けなければならず、3つの机は作業を切り替えるためのもの。

古関裕而

そして残された膨大なバイオグラフィーのかずかず。古関裕而記念館で聞けるのです。

ビデオコーナーと試聴コーナーがある。試聴コーナーの収録曲は100曲。

なので、年齢が上がれば上がるほど熱中度が高い。おじいちゃん、おばあちゃんなんか連れて行くと、試聴コーナーからいつまでも出て来なかったりする。

 

ビデオコーナーでは古関裕而の生涯と業績を映像でたどることができる。

古関裕而

 

楽譜も展示されている。生涯5,000曲を世に送り出した。

古関裕而

 

子どものころ、福島市で開催された、「古関裕而コンサート」ってのに2・3回行ってるんですよ。市が主催なので入場料タダ。往年の大スターが次々とステージに現れ、思い出を語り、古関メロディーを熱唱する。

あ、この曲も、この曲も、聞いたこと、ある。古関裕而先生って、すごい音楽家なんだなぁ~、と感心して帰ってきた。

 

古関裕而

 歌手の方で、名前は忘れてしまったのですが、

「古関先生は、自分の芸術の格というものをとても大事にされた方でしたねえ。

いつものギャラが100万だったとする。わたしなんか、80でどうです、なんていわれたら、まあ、行きますね、50でも60でも、『…行っちゃおうかな~』とか思っちゃうんですが、古関先生は違いましたね。

200万の仕事を予算の関係とかでなんとか180万でやっていただけないでしょうか。と頼まれる。すると先生は

『それじゃあ、あなた、180万の人にお頼みなさいな。』

とおっしゃってました。」

とのステージでの語り、覚えてます。

古関裕而

藤山一郎さんの歌も、生で2・3回聞いている。

またまたこう言ってはなんですが、藤山先生、お年でした。ステージに現れた姿は、重ね重ねはなはだ失礼ながら、ヨボヨボ。司会者の問いかけに答える声はたどたどしく語尾も怪しく、観客席には言いあらわせぬ不安がひろがる。

ところがですね。オーケストラ演奏が始まり、藤山先生が歌い出すと!

ベルベットのように艶やかに伸びる歌声、話し声とは打って変わった表現力と歌唱力!

古関裕而

 

道を貫き通した方の大きさが、子どもごころにも伝わってきました。

 

古関裕而

 

 

古関裕而

 

今も東北新幹線の福島駅の新幹線の到着メロディーは、古関メロディー。「栄冠は君に輝く」です。

 

おすすめシーズンはやっぱり、春。

 

 

 

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 帰りには駅前でぜひ餃子を召し上がってください。

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古関裕而(こせき・ゆうじ)本名・古関勇次)1909(明42)年、福島市大町の呉服店に生まれる。県師範付属小(現福島大付属小)在学中から作曲を始め、福島商業学校(現福島商業高校)時代から本格的に作曲・編曲に取り組む。1930(昭和5)年、コロムビア専属の作曲家となり約5,000曲を世に送り出した。夏の甲子園大会歌「栄冠は君に輝く」、1964年東京五輪の開会式で演奏された「オリンピック・マーチ」などを手掛けた。1969年に紫綬褒章、1979年に福島市名誉市民第1号となった。勲三等瑞宝章受章。1989年(平成元)年に脳梗塞のため80歳で死去。

古関金子(こせき・きんこ=旧姓・内山)1912(明治45)年、愛知県豊橋市生まれ。豊橋市立高等女学校(現豊橋東高)卒。1930(昭和5)年1月、裕而氏を取り上げた新聞記事を読んだのをきっかけに手紙を書き、文通のみの交際を続け、6月に福島市で結婚。日本コロムビアに入社した裕而氏とともに9月に上京した。1980年、乳がんのため68歳で死去した。