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94才で亡くなった舅の晩年の足掛け13年。自立~要支援~要介護~死まで。

舅が満94才で大往生しました。

80代は自宅で過ごし、89才で姑に先立たれ、ほどなくサービス付き高齢者向け住宅に入居。4年間暮らし、心身ともに衰えが目立ち始め、要介護認定がつき、介護付き有料老人ホームに移って7カ月目。大きな病気もせず、世を去る1カ月前くらいまでは食事も外出もできていました。死因は誤嚥性肺炎。

経過を書いてみます。

94才で亡くなった舅の晩年の足掛け13年。自立~要支援~要介護~死まで。

 

 

89才で妻に先立たれる

姑は5才年下でしたが、身体機能が衰え、身動きがままならない。舅が1人で介護していましたが、心身ともに限界。介護療養型医療施設に入院しました。

妻が入院し、家に一人。家にいても、頭に浮かんでくるのはばあちゃんのことばかりだ。…だったら、毎日行こう。と決心。

以後足掛け8年、毎日毎日、自転車で20分の距離の病院に通い続けた。

8年の間、行かなかった、行けなかったのはたった2日。大風の日と台風の日。息子や娘が「無理するな」と言っても、言うことを聞かない。

毎日ピタっと13時に病院に現れ、ある時は談話室で、ある時はベッドの傍らで尽くしぬく姿は病院ではもはや伝説。

姑の病状は無常にも刻々と進み、聞こえているのかもしれませんが、返事を返したいのかもしれませんが、身体が動かないのです。ほんのちょっとした目の動きや指の動きで察するしかない。舅は迷わず胃ろうを選択。

ベットに横たわり、天井の1点を見上げる愛する妻の元に、それでも毎日毎日、雨の日も大風の日も雪の日も木枯らしの日も、通い続けたのです。

2015年に、舅と娘(私の義妹)に見守られ、姑は永眠しました。

遺体とともに病院を去る時、義妹は病院のスタッフ全員から「おじいちゃん、大丈夫?」と声をかけられたそうです。

 

 

90才でサービス付き高齢者向け住宅に入居

舅にはがん生活習慣病その他の病気はなし。話の内容はしっかりしており、妻の葬儀の喪主も立派につとめあげた。

しかし年齢には勝てない。姑が亡くなり、家に行った途端にくしゃみと鼻水が止まらなくなった。ハウスダストです。

日常の動作、例えば着替えとかトイレとかに無性に時間がかかる。とっさの動作に不安が残る。食事は近所に住んでいる(車で20~30分)義妹が届ける。昭和40年代に建てられた家で、ことにガスがあぶない…。

渋る本人を説得、いつでも帰って来れるんだから、となだめつつ自宅から歩いて20分くらいのサービス付き高齢者向け住宅に引っ越した。自立・要支援者向け。(要介護認定がついてもいられることはいられるものの、介護体制は手薄)

24時間見守ってくれる人がいて、安心です。支援サービス・介護サービスは提携している病院や施設への送り迎えのバスが出る。

食事は出るけど、掃除洗濯は自分の仕事。同じ施設の女性入居者の方に、ついでに洗濯なんかしてもらっていた。

 

孫の顔を見せに行くと

「メシがまずい。」

「やることがなくて困っている」

はいつも聞かされた。

 

時間を見つけては外に連れ出す、食べたいものを聞き出し、一緒に外食するか、買ってきて名前を書いたタッパーに入れ、共有の冷蔵庫に入れておく。部屋で一緒に食べる。冷蔵庫の中は入居のお年寄りの持込副食物でパンパンだった。

 

私が行った時の最後の御所望は「やきそばが食べたい。」でした。

…お年寄りにやきそばなどというジャンクなものを食べさせていいのだろうか、と自問自答しながらスーパーに急ぐ。おかずコーナーには焼きそばはなく、パンコーナーで焼きそばパンを見つけ、宝物のように持って帰ると、1コペロッと食べていました。

…たいしたもんだ~って、思いましたよ~。

 

 

最後の1年(介護付き有料老人ホーム~死)

94才の誕生日(2月)を迎え、ゴールデンウィークに会いにいったとき、やせてしまったのにびっくりした。

私が初めて舅に会ったころ(60代後半)は、60kgはあったはず。切れ切れながらも年に何回かは会いに行き、年齢なりに元気で、近況を報告しあっていたのに。前に会った時と明らかに面代わりしていた。

初めてでした。本人に言わせれば普通に食べているつもりなのに、体重が減って行くとのこと。ズボンの上からも、 太ももが骨と皮ばかりになっているのがわかる。

歩行器を使ってやっと立ち上がり、廊下を歩き、窓辺に立ち、私たちが駐車場に出て、行ってしまうまで、見送ってくださいました。

いよいよ歩行もあやしくなってきて、トイレもままならなくなり、おむつを使うようになった。要介護認定がつき、料金が倍の介護付き有料老人ホーム(6月)に移る。

 

2・3度しか行けなかったものの、生きてるときから天国みたいなホームでした。

名前を書いて中に入ると介護士さんがうやうやしくスリッパなど出してくださり、手洗いとうがいを終えないと面会させてもらえない。

施設は明るく、介護士さんたちの明るくも親身な介護、エレベーターには入居しているお年寄りの方々の笑顔の写真がところ狭しと貼ってあり、運ばれてくるゴハンも「おいしい」と舅は申しており、イベントごとに「〇〇膳」との(別料金の)ごちそうの写真。月間予定表は毎日のレクリエーションの予定がびっしり。

 

入居早々、転んで大腿骨を骨折してしまった(7月)。手術(人工骨頭置換術。金属を埋め込む)はうまくいき、リハビリもスタッフの方々の上手な誘導により、積極的。

 

11月に会いに行くと、ホームのホールの椅子にぽつんと1人、座っていた。

もう自分では動けないので、朝、介護士さんが食事のためにでホールに出し、目が届くようにと、部屋には戻さない。

私たちが来たのはわかってくださり、話はできるけど(けっこうずーっとしゃべっている)何言っているのかは半分くらいしかわからない。

部屋にはベッドから降りる時手をつく、手の形つきの小机、ベッドから降りる足元の床にはセンサーつきのマット。少しでも異変があれば24時間、ステーションから介護士さんが飛んでくる。ベッドからトイレまではつっぱり棒形式で手すりがガッチリと張り巡らされていた。

介護士さんの手を借り、それでも立って窓辺まで歩き、見送ってくれた。

 

次第に認知症の症状が現れ、体力がないから、徘徊はできない。

昼夜逆転が出てきて、負担の少ない睡眠剤をいくつか試す。

最後に会いに行ったとき(1月)は、車椅子に座らせてもらい、私たちがくるのはわかっていたものの、やっと会えた~と近づくと、車いすの上で口を開けてぐっすりお休みの真っ最中。

起きないかな~とまわりでしきりに物音をたてるものの、反応なし。

2時間くらいたつと、目をあけた。しゃべっていることは、もうほとんどわからなかった。(何もしゃべらないよりはいい! 気力が残ってるってことですよね。)

 

食欲は新しい施設に移ってからは右肩下がりで、12月は5~6割、最後の1週間(1月)で3~4割、最後には2割くらいまで落ちる。

 

朝、酸素濃度を測ったところ、低い。即座に病院に移り誤嚥性肺炎と診断され、点滴が入る。(抜いてはいけない、と軽く拘束)

入院の翌日には熱は下がったものの、次の日の朝、容態が急変し、義妹に緊急の連絡が入ったものの、病院にかけつけた時には、もう息を引き取ったあとだった。

 

誰も死に目に立ち会えませんでした。

 

オットは「じいちゃんらしいよ。このうえ〇子(娘)に面倒かけたくないし、もう、このへんでいいかな、って…。」と申しておりました。

 

いつ行っても、身綺麗で、ヒゲは不自由になると介護士さんに剃ってもらい、差し出された手の、肉は落ちてしまったものの、きれいだったこと。

 

 

妻への思いは限りなく

もともとマメで緻密な性格。義母は「私、おとうさんが退職してから掃除機、持ったことないのよ。」と笑っていた。

夏には趣味の家庭菜園のキュウリやらトウモロコシやら、かわいい孫に食べさせたい野菜がびっしり入った段ボールが届く。

姑の告別式の前夜、遺体に「ばあちゃん、お別れだなあ。」と話しかけていました。

葬儀の精進落としの席では、参列してくださった方々1人1人に飲み物をついでまわり、丁重に御礼を言って、「私も遠からず後を追いますから…。」と無理に笑っていた。おっしゃったとおり、5年後に、愛する女性の元に、旅立っていかれました。

「ばあちゃんがね、夢枕に立って『まだ来ないの…』って言うんだ。」と話してくださった時もあった。

意識が混濁してくると、部屋の隅を指さして、「あそこに誰かいる…。」とも。「ばあちゃんが呼んでる」とも聞かされた。

 

今はもう、永遠に、一緒です。

 

金婚式の記念写真

金婚式の記念写真