結婚しないよりした方がいいのかもしれないとのあくまで個人的な価値観で、貰ってくださるというありがたすぎるお方が一人、いてくださいましたので結婚しました。
自覚なしで母親デビュー
赤ちゃん、カワイイですよね~。コウノトリが飛んできてくれて、「こ、こいつが母に…。」の無言の神をも恐れぬ所業視線を浴びながらも母親業デビュー。
かのシモーヌ・ド・ボーボヴァールの名言に「人は女に生まれるのではない。女に育てられるのた。」ってのがあります。僭越すぎて恐縮ながら、私に言わせれば、「人は母になるのではない。周りが母なのだからと思い込むのだ。」と言わせてくれぃ~。
のほほん、ノンシャランと深く考えもせず赤ちゃん抱いて外の世界に出て行った私に「お母さんなんですからしっかりしてください。」のやって当然、出来て当然の無言の価値観にまず面食らってしまった。
母親たる条件はいきなり求められる
もちろん、赤ちゃんカワイイし、授乳オムツ替えお風呂話しかけ喜々として赤ちゃんにお尽くし申しあげ楽しくてたまらなかったのですが。幼稚園からは園長先生のトウトウと説く「母親の自覚」なるものを促すあいさつの書かれた紙が渡され、鳩に豆鉄砲とはまさにこのこと。学校に上がれば「子どもは家庭での教育がキモです。」と繰り返し申し渡され、資格も適性もへったくれもない。いきなり完璧を求められる。人格者であること、有能であることを大前提に話をされるのです。たとえ子ども相手であろうとも、偉そうに教え導くなんてのが、柄にもない人間だというのに。人には向き不向きがある。しかし学校からのお達しです。有無を言える立場にない。やらねばならぬのです。はだはだぎこちなく、子どもと向き合い、おっかなびっくりしつけをほどこしながら徐々に疑問が湧き上がってくる。
もしかして私、発達障害の気がありはしないか。
発達障害に思い当たるフシあるある。
昔から「かなりオフビート、B型(ハイ、血液型、Bです)の見本」と言われてきました。人間関係を築くのが苦手な方。単独行動が気楽で好き。自分の好きなこと、興味のあることをしていれば幸せなんですが、人の中に出ていくと、いわゆる「生きづらさ」が常に付きまとう…。常に心にまとわりつく居心地の悪さを、我慢するものだ、と振り払い、振り払い歩いてきた。大人になった今でも、チェックリストなんか渡されたら、特徴・症状、自己診断ではかなりの高得点をたたき出しそう。
アダルトチルドレン、発達障害、自閉、ADHD、アスペルゲンガーと、今なら名前がついたのかもしれないけど、実直だけが取り柄の血筋。学校は行くものだ。卒業したら勤め上げるものだ。のレールからは外れることはなかった。まがりなりにも自分で落とし前をつけ、病院・検査・薬とは無縁。の低レベルではありますが、思い当たる節は多々あります。
とすると家庭環境に問題があったのでしょうか。遺伝だったのか。親もその気があったのか。ごくごく普通に育ってきたつもりだったんだけど。暴力など受けたことはない。普通に苦しい家計の中で、衣食住に事欠いたってかんじでもなかった。見えざる親のトラウマが負の系譜として引き継がれたのか…。わからない。
親への切符は片道切符
…こんな人間のする子育てです。そりゃあ、いろいろ、ありました。書きませんけど。
私なんか、親になって良かったのかなあ。こんな親のトコに生まれてきて、いらぬ苦労をさせたのではないか。この憂いもこれまた。2枚めの心の薄皮となり、はりついてはがれない。
学校に入学試験があるように、親になるのに資格試験があるのなら、落ちていたのではあるまいか。そもそも親には向かなかったのでは。いたたまれなさは私だけ?よそのおとうさんおかあさんの傍目には自信満々に見えてしかたがない。
それでも、親になるのは片道切符、途中で放り出すことなどできない。いったん自分で決めたこと。産んだこと、後悔しているわけじゃないけど。楽しいことだってたくさんあったけど。どうしても自分に自信が持てず、後ろめたいんだなあ…。子ども産むのって、命がけなんですよ。子育ては時間と手間とお金と若さはみんな子どもに吸い取られていきます。あれが足りない、これも足りない、言い立てはじめたらキリも果てもないけれど、できる限り、全力で、やってきたつもり。無条件でこんな私を「ママ~」って言ってもらえて頼ってくれる小さい子。とってもとっても可愛かった。もっともっと可愛がっておけば良かった。これでいいんだ、の格たるものとてなく、大きくなってから「(おかーさんの)ここがなってない」と責められて、いやはや、ブレまくったものです。
子どもが少ない。言われつくしていることだけど。
子どもの数が少ないから、産めよ増やせよ、結婚したい人はお相手を見つけやすいように。子どもができたらサポートします!子どもは社会全体で育てるもの。抱え込まなくたって、いいんです。うまくいってるいってないは別として、行政だの民間サービスだの、花ざかり。未来の人の子の親にふさわしい、あらまほしき方々に、メッセージが届いたらいいですよね。
しかしなんか調子に乗っちゃったかしら。子どもを産むならオールオッケー。誰でもどうぞ。社会が子どもを必要としてるんです!の声に自分がナイからうかうか乗ってしまった面は確かにある。自分で決めて自分で選んだのだから、責任は自分で取るし、誰かのせいにしたりはしないけど。かえって社会に迷惑かけたりしてないか。しなくても済んだのかもしれない気苦労や消耗だったのではあるまいか。の思いが心の奥底に少しずつ溜まっていくこともまた確かなのです。
まとめ
- 子どもが少ない。できれば産んでほしい。の外野の声はあくまで外野が外野の目的をもって拡散しているのを忘れずに。
- 親になるとはいきなり完璧を求められるということ。人格者であることを求められるということ。そして親は迷う。ぶれる。これでいいのかと自問自答しっぱなし…。