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ウエストミンスター寺院 西門「20世紀の殉教者像」10人の生涯【イギリス・ロンドン】

イギリスのウエストミンスター寺院の観光客出口の西口(入口は北口)、振り返り、見上げれば「20世紀の殉教者」10人の像を見ることができます。殉教?20世紀に?大昔じゃあるまいし。しかしバイオグラフィーをたどれば、世界は広く、忘れてはならない出来事があり、今なお横たわる現実が胸深く迫る。順番に。

 

マキシミリアノ・コルベ(ポーランド Maksymilian Kolbe 1894-1941)

10 martyrs of the 20th century

コルベ神父(正確にはカトリックなので「司祭」)さまなら知ってます。そして10人のうちただ一人、日本と接点がある。一時長崎で布教活動をされ、ゆかりの品々は記念館で一般公開されている。遠藤周作の「女の一生 第二部・サチ子の場合」にも出てくる。

アウシュビッツ強制収容所で身代わりとなり、自ら餓死刑を願い出た。苦痛のあまり狂死も珍しくなかった餓死室を、コルベ神父さまは祈りと寛容の場に変えてしまった。

正直、仏さまにしろキリスト様にしろ、何千年も前にいるかいないかわからない人のことをどう考えればいいのかがわからない。でも、信じて深く信仰の道を歩み、周りの人々を変え、あるいは世界を変えた人は現実にいる。

お釈迦様なしに奈良の法隆寺なく、キリスト様なくしてサグラダ・ ファミリアはなかった。大伽藍を見上げ、人は神の気配を感じ取る。そして(たとえ無力であろうとも)悩み、苦しい時に神が見ていてくださる。救ってくださる。それが真実であるとして、いにしえの昔から、おびただしい数の人々は神に祈り、すがり、慰められ、よりどころを得、心の安らぎの場としてきた。動かし得ない、間違いない事実。

コルベ神父さまの生涯もその死も スケールが壮大。才を認められローマに送られ、博士号を取り、行動する。精力的に布教を行い、名声は轟きわたる。博愛の精神ゆえに収容所送りにされ、自ら死を願い出、敢然と他の餓死刑者を導き、祈りながら毒を注射しろと自らの腕を差し出した。

人間はここまでの高みに立つことができる。そしてコルベ神父さまが鋼より強く、雪より清くあられたのは、キリスト様がいたから。に打たれっぱなしなのです。「聖人」のおくり名にこれほどふさわしい人はいない。

 

マンシェ・マセモラ(南アフリカ Manche Masemola 1913-1928)

10 martyrs of the 20th century

亡くなったのは14才とも15才とも16才とも諸説あり。両親に殺された。むごさに言葉が出てこない。写真が残されておらず、マンシェを描いた絵をもとに像は刻まれています。

学校には通えなかった。神様のお話が聞ける教室に行きたくてたまらないのに、洗礼を受けたいのに、両親は許してくれない。御両親にとっては、よそ者が得体のしれぬ「信仰」なるものが娘の心を捉えているとの薄気味悪さと娘に棄てられることへの恐れが先に立ち、娘は悪魔に憑りつかれたとしか思えなかったらしい。親の決めた結婚をマンシェは拒む。ムチで打たれ、服は隠されてしまい、教会に行くことすらかなわない。

ついに、両親は人気のない場所にマンシェを連れていき、ナタで殴り殺した。誰が愛娘を好んで手にかけるものか。御両親は、御両親なりにマンシェを愛していたのだと信じたい。

マンシェの情熱は、揺るがなかった。自分が殺されることを、マンシェはうすうす悟っていた。「私は自分の血で洗礼を受ける。」との予言が伝わります。小さな時から働くことしか知らなかった女の子。神様の教えや行いは、マンシェの知を目覚めさせ、まばゆいきらめきは少女の心を強烈すぎるほどに捉え、離さなかったに違いありません。

 

ヤナニ・ルアム (ルワンダ Janani Luwumc 1922–1977)

10 martyrs of the 20th century

東アフリカ内陸の国、”アフリカの真珠”そして殉教者の国、ウガンダ。ウガンダ軍によって暗殺された。

もともとは小学校の先生。しかし時代は乱世。アフリカ解放・独立運動の嵐が吹き荒れている真っ最中。しかし失礼ながらリーダーの力不足、民族・部族間対立、国際的な視野不足も相まって事態は泥沼。政情は不安定の極み。それでもルワムさまは解放運動に積極的にたずさわる。傍ら20代半ばでキリスト教徒となり、独立運動で培った才気渙発、エネルギッシュ、慈悲と確かな手腕でウガンダの大司教に上り詰めた。

牧師さま、神父さまといえば、静かに本を読んで人を教えさとし導くイメージが先行しますが、ルワム大司教さまは情熱にあふれたお人柄であったろうことが、残された穏やかかつ敢然たるたたずまいのお写真のかずかずから、伝わってきます。

大司教就任時、ウガンダの大統領は…イディ・アミン(Idi Amin 1925-2003)。「黒いアドルフ・ヒトラー」「血にまみれた大統領」。繰り返される虐殺・粛清。ルワム大司教さまは政府と折り合いながらも毅然として福音を伝え続ける。 亡命を進める側近の言葉に「私は羊飼いです。羊飼いが羊を見捨てますか?」とお答えになられ、ウガンダに留まり、逮捕され、返されたご遺体には無数の弾痕があった。

 

エリザヴェータ・フョードロヴナ(ロシア Elizabeth Feodorovna 1864-1918)

10 martyrs of the 20th century

ドイツの正真正銘のお姫さま。ビクトリア女王の孫娘で自身はロシア皇帝の弟に嫁いだ。大公妃。妹はロマノフ王朝最後の皇帝ニコライ二世の妻、アレキサンドラ。別の妹の息子がエジンバラ公フィリップ殿下。

しかも美しく、当時ヨーロッパ一の美貌のプリンセスの誉れ高かった。しかし性格はいたって真面目で質素、つつましくも控えめ。20才でロシアにお輿入れ。嫁ぎ先でも柔和で人に好かれ、子どもには恵まれなかったものの、亡命した親族の子供を引き取って育てあげた。

しかしロシア革命の火の手は迫り、馬車に爆弾が投げ込まれ、夫は即死。大公妃は夫の葬儀の前夜、獄中の暗殺実行犯を訪ね「私はあなたを許します。苦しみと血をもってしても。そして血を流し、何かを成し遂げるのは終わりにすべきです」と語りかけた。

の言葉にふさわしく、ほどなく尼となり、私財を投げ打ち、尼僧院を開く。貧しい人、病人を救い、スラム街を訪れ、病院、薬局、孤児院を開いた。

時局が刻々と進む中。 周囲は亡命をすすめるが私はロシアとロシアの民と運命を共にしたい。と動じない。

逮捕され、軟禁され、廃坑に突き落とされた。廃坑からは賛美歌が聞こえていた。1か月後、引き上げられた別の遺体には大公妃が巻いた包帯替わりの布が確認された。

 

マーティン・ルーサー・キング・ジュニア(アメリカ Martin Luther King, Jr. 1929-1968)

10 martyrs of the 20th century

牧師さまだから演説がうまい。お誕生日(1月15日)に近い1月第3月曜日はアメリカの国民の祝日(1986年から)。「I Have a Dream」(私には夢がある)「Let freedom ring」(自由の鐘を鳴り響かせよう)など、歴史に残る名演説はYouTubeなどで見ることができる。身震いしてくる。恍惚と聞きほれてしまう。「I Have a Dream」は20世紀の名スピーチのNo.1。1960年代のアメリカ公民権運動の顔であり、象徴であり、よって暴徒に狙われ撃たれた。

もともと法律家になるか牧師になるか迷った雄弁家。マハトマ・ガンジーの非暴力・非服従主義の影響を受け、黒人女性がバスで白人に席を譲らなかったことにより逮捕された出来事を発端とした、バスに乗らない、いわゆる「バス・ボイコット運動」を成功させ、アメリカ国内での人種差別反対を唱える公民権運動は一気にクローズアップされ、名演説を生んだワシントン大行進を経て、ついに公民権法(Civil Rights Act)制定。アメリカの法の下での人種差別は撤廃された。

功績が認められ、1964年には35歳でノーベル平和賞を受賞。のちベトナム戦争反対運動の先鋒となり、黒人運動の迷走の中、39歳の若きカリスマはテネシーで暗殺された。

 

オスカル・ロメロ (エルサルバドル Óscar Romero 1917-1980)

10 martyrs of the 20th century

今も世界中から慕われる大司教さま。命は保証しない、と恫喝されても、葬儀には25万人以上が集まった。母国エルサルバドル(スペイン語で「救世主」)のみならず世界中に「ロメロ」の名の病院が、道路が、学校がある。お墓は今も花であふれ、エルサルバドルの首都、サンサルバドルの町のお土産物さんにはロメロ大司教さまのグッズが所狭しと並んでいるのだとか。本も映画も数多い。あまりに政治的だった、の声は信徒たちを前には空虚に聞こえてしまう。

学校に行けず、12歳から見習い大工として働いた少年は、頭角を現し、ついに大司教の座に着いた。理由は、操りやすいタイプに見られていたから。もともとは学究肌で、声高にもの申すタイプではなかった。

しかし時代は地獄絵図の名がふさわしいエルサルバドル内戦寸前。親友は暗殺され、民は貧困にあえぎ、社会的不正や拷問や暗殺がまかり通っている。

時の政府に向け、世界に向け、語りかけずにいられなかった。自分が殺されることを承知の上で「殺すなかれ」と説き続けた。ミサを終えたまさにその時、テロリストに暗殺された。

 

ディートリヒ・ボンヘッファー(ドイツ Dietrich Bonhoeffer 1906-1945)

10 martyrs of the 20th century

牧師さまというより20世紀を代表する神学者。ベルリン大学の神学部で教鞭を取り、後世に残る著作を次々送り出す。…難しすぎて中身が説明できない…。

高度すぎる理論を縦横無尽にあやつる一方で、ナチスドイツの勃興期から反ファシズムの姿勢は明快であり、徹底的な批判を貫く。

理論的に反駁を加えるだけでなく、行動した。反ナチのかどで大学を追われる。ヒトラーの政策の道具となった教会を認めることを拒否し、ナチズムに対抗する教会運動に奔走し、地下活動に加わる。第二次世界大戦が勃発し、アメリカに招聘されるものの「亡命はできない。今ここで国難に同胞と立ち向かわなければ戦後のドイツキリスト教再建に参画できない」と大西洋を横断する最後の船で故国に取って返した。ナチスの奥深くに潜む反ヒトラーグループに自ら身を投じ、豊富な人脈を元に情報収集を行った。

しかしゲシュタポに逮捕され、ヒトラー暗殺計画の加担は発覚し、終戦のわずか3週間前に絞首刑となった。 今まで紹介してきた殉教者には多かれ少なかれ「受難」の言葉がふさわしい。しかしボンヘッファーだけ、毛色が違う。急進的である。そして命かけて悔いない、実現したい未来があった。暗く妖しく烈しく燃えた焔。

 

エスター・ジョン(パキスタン Esther John 1929-1960)

10 martyrs of the 20th century

マララ・ユスフザイさんをイメージしてみてください。ちょっと似ています。賢くてしっかりした女の子。

南インド生まれ。もともとの名前はカマール・ジア。マドラスで育つ。17歳でミッション系の学校でキリストの教えに触れる。一家はパキスタンに移住し、家族には秘密の新約聖書を手に入れ、読みふけり、信仰の思いはたぎる。親の決めたムスリム男性との結婚を嫌い、家出。看護師として病院で働き、25歳で洗礼を授けられ、エスター・ジョンと名前を変えた。学び続け、教師となり、近くの町に派遣され、地域の布教活動に熱心だった。聖書を片手にした晴れやかな笑顔の写真が残されています。

しかし伝道者のキャリアは無残にも絶たれた。ある朝、エスターは自室のベッドで死体で発見され た。恋人はいなかった。イスラム過激派の犯行とも家族がエスターを探し出し、ムスリムへの不服従を理由に殺したのではないかとも言われていますが、真相は謎のままです。

マララさんはパキスタン軍が救った。世界が彼女を受け入れた。エスターの世界は実際、小さい。女の子が自分の生き方を見つけ、決断し、夢を叶えていった。周りに助けてくれる人たちがいた。ことがうれしく、ほほえましい。

そして、なぜ殺されなければならなかったのだろう。なぜ認め合えないのか、なぜ赦しあえないのかが、私にはわからない。

 

ルシアン・タピエディ(パプアニューギニア Lucian Tapiedi 1921-1942)

10 martyrs of the 20th century

刻まれたルシアンの姿はたくましくも頼もしい。父と叔父が魔術師だったことしか伝わっていない。勤勉で陽気な青年で、スポーツと音楽が好きだった。ミッション・スクールで教育を受け、20歳で教師・伝道者として教会に入る。

ラバウルの戦いに巻き込まれる。日本軍がパプアニューギニアに上陸し、外国人宣教師はニューギニア島をさまよう。はじめのうちは現地の教徒が守ってくれた。しかし日本軍の侵攻は進み、次第に一行は危険な場所に追い詰められていく。

ついに原住民に捕らえられる。宣教師との接触などなく突然現れた白人の集団に先住民はおののき、混乱する。

ルシアンはこの人たちは私たちを助けるために来て下さった気高い人々なのだ。と訴える。説得のため、危険を顧みず教会に戻り、記録とお金を取りにいった所で原住民に斧で殺された。享年21才。残された一行、宣教師、看護師、民間人には小さな子どももいたのです。ルシアンの死後、一行は日本軍に引き渡され、惨殺された。

「私は神父さまとシスターと一緒です。」けなげな若者は言い放ったのです。逃げることもできたのに。僕しかこの人たちを守れない。勇気を奮い起こし、奔走した。異郷の地にあり、敬愛する同志を守るために必死だった。命をかけた。

優しい子だったのでしょう。ルシアンの写真は残されておらず、像は当時のパプアニューギニアの人々の姿をもとに作られています。

 

王志明(中国 Wang Zhiming 1907-1973)

 

10 martyrs of the 20th century

中国南端の雲南省、苗族の牧師さま。

異国からやってきた宣教師は、貧富を問わず薬をわけ与え、お金は受け取らない。死者には十字を切って祈る。 清潔な家に住むこと、清潔な水を使うこと。家畜と同じ棟で暮らさないことを教え、疫病は目に見えて減った。命を救われた人々は次々とキリスト教に帰依した。国はお上は、民を救ってはくれなかった。宣教師は村人を救ったのです。

かくして少数民族の地にキリスト教は根付き、病院ができ、学校ができ、苗語の文字が作られ、苗語の聖書が発行される。王牧師さまは幼くして教会の学校に学び、自然と神の道に進まれた。険しい山岳地帯を分け入って布教に奔走した。中華人民共和国が成立し、国は外国の宣教師を追放する。王志明牧師は名実ともに雲南キリスト教徒のトップの座につくのです。

少数民族の宗教家の代表として毛沢東主席と同席したこともあった。しかし時代は急変し、文化大革命の嵐が吹き荒れる。逮捕され、4年の投獄、4日間にわたる大衆集会の末、10,000人以上の群集の前で見せしめとして処刑された。

悪夢は去り、宗教の自由が認められた時、教徒は文化大革命の前よりも増えていた。息子さまは父の志を継ぎ、牧師さまとなられました。残された王志明牧師さまの写真は、石像よりも細面で小柄に見えます。

 

10 martyrs of the 20th century

 

 

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